草ケ部 蒼汰

まだ犯人は分からないけど、今日だけで十分な成果はあったな

 店から出た俺は帰路についていた。外はもう暗く、少しだけ肌寒かったりする。季節の変わり目と言うのはこんなにも温度変化が激しいのか、と素直に感動しながら歩く。

稲荷

…………

 それにしても、結局のところ神薙が言ったノートの汚れが気になる。もし、あれが鉄錆びがくっ付いただけの汚れじゃないとしたら何があるのだろうか。

草ケ部 蒼汰

絵具とか……色鉛筆の粉とか

 だが、彼女には絵を描く趣味なんてなかった。なんせアイツの趣味と言ったら漫画を読むこと、テニス、ショッピングぐらいだろうか。

 どれを当てはめようとしても全然ピースがはまらない。

稲荷

主よ、一つ聞いても良いか?

草ケ部 蒼汰

どうした?

 稲荷が宙に浮きながら、何かに反応している素振りを見せる。頭に付いた一対の耳がぴくぴくと落ち着きがなく、尻尾はピンッとアンテナの様に立っていた。

稲荷

走れるか?

草ケ部 蒼汰

……いきなりなんだよ? 後ろに何か―――

 しきりに後ろを気にする様子を見せる稲荷。何か後ろにあるのかと思い、振り返ろうとする。

稲荷

振り向くなッ!!

草ケ部 蒼汰

…………ッ!!

 今までにないほどの大音量と表情で、俺は今の行動を中断させる。驚いた。これほどまでに強張らせた表情の稲荷を見るのは彼女と出会った以来だった。

稲荷

良いか主、走れ! でないとただでは済まんぞ!

 いつもいい加減なこいつがこんだけ必死に言ってるってことは相当ヤバいのが俺の後ろにいるらしい。ここは素直に従っていた方が得策だ。

草ケ部 蒼汰

分かった

 俺はその場から一気に走りだした。人通りもなく見渡しの悪いこの道路は確かに不気味な何かが現れるには打ってつけかもしれない。

草ケ部 蒼汰

稲荷、このまままっすぐ家に向かえば良いのか!?

稲荷

ああ、だが気を抜くな。あちらもお前を追っておるぞ

草ケ部 蒼汰

ッ!?

 さっきまで気づかなかったが、俺の足音とは別に違う足音が聞こえてくる。裸足で追いかけているのか、音が妙に柔らかい。

 次第に心に積もる恐怖が今にも爆発しそうで怖い。今自分は誰かに追いかけられている。いや、その前に人であるのかさえも疑わしい。これだけ走っているのに、後ろにいる『それ』は呼吸一つ乱さない。

 足音のペースはずっと一定で俺がどんなに距離を放そうと走ってもずっとキープしている。音が近づくこともなければ離れることもない。まるで粘着されているような気分で気持ちが悪かった。

草ケ部 蒼汰

確か、この辺を曲がれば……!

 ちょうど目の前に入ったのはまっすぐに伸びた道とは別の曲道。ここはたまに登校の時に利用する道だ。いつもは登校時間に少し余裕がある時に気晴らしとして使う道だが、後ろの奴を撒くには十分だろう。

 俺は飛ぶようにその曲道に入り込み、自宅のルートを再構築する。その後は細い道を織り交ぜながら、徹底的に後ろの尾行の可能性を潰していく。

草ケ部 蒼汰

どうだ稲荷、まだアイツは追いかけてきてるか?

稲荷

いや、いない

 どうやらうまく撒けたらしい。言われてみれば、後から聞こえる足音が無くなっていた。

 俺はゆっくりと走る速度を緩め、足を止める。そして、止まったと同時に全身の疲れが押し寄せてきた。膝に思わず手をついて呼吸が乱れる。

草ケ部 蒼汰

はぁ……はぁ……

 全力で走ったのはいつ以来だろうか……肺が締め付けられるように痛くて満足に呼吸もできない。額からは大量の汗が流れ出て、視界を塞ぐ。

草ケ部 蒼汰

一体何だったんだ……アレは?

 汗を服の袖で拭いながら聞く。

稲荷

穢れ……

 ポツリと呟いたその言葉を俺は聞き逃さなかった。彼女が俺に憑いている原因であり、やる気を奪った元凶でもある。

草ケ部 蒼汰

なんでそんな奴が……俺たちを追うんだ?

 息も徐々に整いつつある俺に稲荷は険しい表情で応じる。

稲荷

恐らく狙いはお前だろうな

草ケ部 蒼汰

俺っ!?

 狙われる原因が見当たらない。そんなオカルトのような存在に狙われるような覚えはないはずだ。

草ケ部 蒼汰

何かの間違いじゃないのか? 俺は普通の高校生。お前の様な神様でも、ましてや超能力者でもない一般人だぞ。そんな得体の知れないものが何で俺を狙ってくるんだ?

 そんな俺の発言を、稲荷は切り捨てる。

稲荷

そういえば主には言ってなかったのう

草ケ部 蒼汰

えっ……なに?

稲荷

穢れは『人』だぞ

 背筋が何かに逆撫でられた気がした。じゃあ、俺の後ろを裸足で追いかけてきたのは人だったのか? 近づきもせず離されもせず、ずっと付けてきた意味は一体なんだ?

 今度は別の恐怖が俺の心を侵食していく。

稲荷

儂が彼奴らを穢れと呼ぶ基準は、二つ。深い闇を抱えている者と人を殺めた者

 彼女はそのまま言葉を続ける。

稲荷

この二つの基準を超えると、人は穢れに堕ちる。そして、精神は荒み、正常な思考が出来なくなるのだ

草ケ部 蒼汰

…………

稲荷

あそこでお前を走らせたのはお前自身も危険であると同時に、儂自信危険も伴ったわけだからだ

 だからあれだけ必死に稲荷は俺に言っていたのか。俺の命の心配をしながら、自分の身も案じていた。最初こそは分からなかったけど、今では話を聞いてみるとそれだけの理由があったのが分かる。

 それにしても追いかけてきたのは誰だ? あのタイミングで追いかけてきたというのはたまたまとも考えにくいし、さっき神薙が言っていたクラスメイトの犯行がより一層真実味を帯びてきた気がする。

草ケ部 蒼汰

とりあえず帰ろう。ここにいても良いことない

稲荷

ああ、そうだな

夢を見た。

夢を見た。

夢を見た。

 気が付くと、俺は境内にいた。真夏なのか、蝉の鳴き声が夜の空に響き、たまに吹くそよ風が気持ちが良い。

 何もかもが懐かしく感じ、とても悲しくなった。なぜこんなことを感じるのかは分からない。ただ、何か大切なものを失った気がする。そう、これはまるで……。

青年

う……うぅ……

 気が付くと俺の前に男が頭を抱え、蹲って泣いていた。砂利を敷き詰めた場所であっても、彼は気にする事無く後悔の念を晴らすように泣く。

稲荷

…………

 ただ、彼の背後に立つのは険しく物々しい雰囲気を放つ神様の姿があった。一切言葉を放つことはないが、彼女の表情からして何かをしてしまったんだろう。

 稲荷は黙ったまま彼を見下ろしている。

青年

俺は……過ちを犯してしまいました

 許してください……と誰かに懇願する。その後、色々とその青年のやり取りがあるのだが所々音が抜けて、何を言っているのかが分からない。

稲荷

貴様の願いを一つ聞いてやる。

青年

――――!!

 青年は何か叫んだように言うと、今まで表情を固定させていた稲荷の口元が僅かに緩んだ。

稲荷

良いだろう。貴様の願い、叶えた

 彼女がそう言うと、男は顔を上げた。

『主よ、起きろ』

 もう少しで見えそうなのに暗闇が男の顔を隠す。頑張って目を凝らすが、男の顔が……。

 『主! 起きろ!』

 あともう少しだけ待ってくれ……あともう少しでアイツの顔が……!!

 『起きろ主!!』

 気が付くと、俺は自宅のベッドで寝ていた。そして、そんな俺を覗き込むように稲荷が見つめていた。その表情はあまり良いものではなく、要するに不機嫌と言った方が良いのだろうか……。

草ケ部 蒼汰

お、おはよー稲荷。良い天気だね

稲荷

起きるのが遅いではないか! 儂は何か食べたい! 何か食べる物を寄越せ!

 昨夜のことがあってちょっとビクついたが、いつも通りのリアクションで安心した。だが、今の夢は一体何だったんだろうか……。それに、あの男と稲荷にどんな話し合いがなされていたのかが気になるところだ。

 そんなことを考えるていると、ボンボンと稲荷が俺の布団を叩く。飯を出せ、飯を出せ、と口やかましく要求する。その姿を見て、夢のことなんてどうでも良くなった。

草ケ部 蒼汰

ああ、ちょっと待ってくれよ

 俺は勢いよくその場から飛び起き、支度を開始する。

教室

 朝の教室程、騒がしいことない。廊下は幼児化した生徒が走り回り、女子生徒は集団を作って下品な笑い声を放ちながら周りに迷惑をかけている。

 普段こんなことを考えないようにしている俺でさえ、これほど言ってやりたい気持ちを持った事は無かった。

草ケ部 蒼汰

あいつら……人が真剣に考えてる時にギャーギャーと……

 いっそのこと稲荷をけしかけて黙らせてやろうかと考えたが、大事になりそうなので諦めた。

神薙 佐代子

おはようございます、草ケ部さん

 すると、通学カバンを持って神薙が微笑んだ。気品に溢れてたその笑顔は本当にどっかのお嬢様を連想させた。

神薙 佐代子

何か進展したことはありましたか?

草ケ部 蒼汰

おはよう神薙さん。いいや、何も……考える限りでは何も……

神薙 佐代子

そうですかぁ……それは残念です

 口元に手を当て、全然残念そうに見えない表情をする。その表情から察して、何か考えているように見えるのだが……。

 まぁ、昨日の夜のことは今は言わないでおこう。話がややこしくなりそうだ。

草ケ部 蒼汰

神薙さんは何か分かったの?

神薙 佐代子

いいえ、草ケ部さんと同じです

草ケ部 蒼汰

じゃあ、その笑顔は一体……

 神薙は人差し指を立て、変わらずの笑顔で言う。

神薙 佐代子

ここで提案です。私と手を組みませんか?

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