気分はどうです?

大丈夫です。

 気遣わしげなダリオの声に、リトが気怠げに頷くのが見える。

良かったぁ。

 部屋に漂う薔薇の香りで思い出したラウルのことを頭から振り落とすと、エリカはリトを見つめ、ほっと胸を撫で下ろした。

 幸いなことに、エリカがチコと師匠を連れてリトが倒れる場所に戻った時には、リトはまだ完全に魔物と化してはいなかった。それでも意識を失ってしまっていたリトと、リトが意識を失わせたサリナを、エリカ達は裏門経由でシーリュス伯の、キカから話を聞いたダリオが用意した、秋に咲く薔薇の花を集めた部屋へ運び込んだ。

正門は紫金騎士団の奴らがおざなりに守ってるけど、彼奴ら裏門までは面倒くさがって警備隊に任せっきりなんだよなぁ。

 隊長の無事な姿を見て笑顔を見せたチコが、軽口を叩く。

まあ、だからこそ、隊長を無事にここに連れて来れたわけだし、紫金騎士団様々、ってことで。

 恋人であるサリナを人質に取られたパキトの裏切りで砦が騎士団連合の手に渡ったとき、魔物の襲撃により普段通り地下に隠れていた『黒剣隊』の面々の殆どは隠された地下通路を通り抜けて騎士達の死の刃を逃れた。そして西の街で不在のシーリュス伯の代理をしている家令ダリオの協力により、隊員達は西の街とその周辺に難を逃れている。

 生き残りの隊員を、紫金騎士団と黒銀騎士団が合同で探してはいるが、どうもやる気が無いらしく、チコとキカが西の街の警備隊の一員となっていても誰も全く気付いていないらしい。

何の為に、彼らはこの街にいるのかしら?

 チコの説明に可笑しさを感じ、エリカは久し振りに笑い声を出した。

それはともかく。

 そのエリカの耳に、ダリオの、重い声が響く。

とりあえず薔薇の香気で魔物化を抑えることはできていますが、……やはりこれは、一時的なものでしょうな。

ええ。

 ダリオの声に、エリカは唸って頷いた。冬になれば、薔薇は咲かなくなる。それまでに、別の方法を考えなければ。しかしながら。

方法……。

 砦の地下室、エリカの父の本があった場所を思い出しながら、呻く。あの場所に行けば、魔物化を抑える、あるいは魔物化を解く術が見つかるかもしれない。だが。

砦、なくなっちゃった、から……。

 しょげたキカの声に、エリカも俯く。

 平原にあった、『黒剣隊』の拠り所であった砦は、騎士団連合に占領されたその日のうちに、帝お抱えの魔導師によって破壊された。

 破壊されたのが地上部だけならば、あの地下室は残っているかもしれないが、そこへ至る抜け道の方が、潰れているかもしれない。地下室への道を見つけ、エリカの父が書いた解決法を見つける前に、リトが魔物と化してしまうかもしれない。それは、嫌だ。エリカは大きく首を横に振った。

 と、その時。

エリカお嬢様。

 不意にダリオが、エリカの前に膝をつく。

お嬢様のお父上が、今際の際に遺された言葉があります。

えっ?

『もしも帝都で魔物が暴れるのなら、その解決方法はエリカが持っている』と。

えっ……?

 思わぬダリオの言葉に、絶句する。

私が、持っているの?
……でも、何を?

 しかしこれ以上のことはダリオも知らないらしく、エリカの視線にダリオは唇を噛みしめて首を横に振った。

私が、持っているもの、って?

 キカとチコの視線を感じながら、首を捻る。
 母からは、色々なものをもらった。しかし父からもらったものは、思い当たらない。父は何を言いたかったのだろう? エリカはもう一度、うーんと唸った。

 その時。

……。

 意識を取り戻した、薔薇の香気のおかげか魔物化の傾向が消えているサリナが、エリカを指差す。

どうしたの?

……。

 エリカが尋ねても、サリナはエリカを指差したままだった。

何か、あるのかな?

 キカの言葉に首を捻る。

なるほど。

 不意に、それまで黙っていたリトが、エリカの腕を掴んだ。

……!

エリカの身体に、秘密が隠されている。そういうことだね。

……。

 リトの問いに、サリナがはっきりと頷く。

え、でも……。

 しかしエリカの身体のどこに、秘密があるというのだろうか? 再び首を傾げたエリカは、次の瞬間、はっとしてサリナを見た。

もしかして。
私の、背中に、何かあるの?

……。

 エリカの問いに、サリナが頷く。
 間違いない。湯浴みをするエリカをサリナは見ている。その時に、エリカの背中にあった『秘密』に気づいたのだろう。おそらく、湯浴みをしないと分からない秘密に。

エリカの背中に、何があったの?

 エリカの腕を掴んだまま、リトが優しく、サリナに問う。しかしサリナは下を向いて首を横に振った。

やっぱり、直接見ないと分からないか。

えっ……!

 リトの声に、鼓動が不意に早くなる。裸に、ならないといけない。羞恥心がエリカの身体を強ばらせた。

私が、確かめる。

 そのエリカの耳に、リトの、いつになく強い言葉が響く。

こ、婚約者、だから、せ、背中だけなら、み、見ても、だ、大丈夫だろう。

ふふっ。可笑しい。

 暗闇でも十分に分かるほど顔を赤らめたリトに、エリカの全身の強ばりは見事に解けた。

そんなに念を押さなくても良いと思いますが、隊長。

女の人の裸を許可無く見るのはいけないことですよね、隊長。

……。

 その隊長に半ば呆れた顔をしたチコとキカ、そして二人の言葉に声を失ったリトに、エリカは思わず微笑んだ。

 ダリオとチコが、お湯と盥を用意してくれる。

 久し振りの、エリカの私室で、エリカは静かに服を脱いだ。

湯加減は、これで、だ、大丈夫、だ、と。

 リトが調節してくれた盥の湯に、リトに背を向けて裸身を浸す。

あ……。

 しばらくもしないうちに、エリカの背中のすぐ近くでリトが小さく叫ぶ声が、聞こえた。

背中に、うっすらと字が彫られている。

……!

 背中に感じるリトの熱い息にくすぐったさを感じ、エリカは思わず振り向いた。

ダメ。

 そのエリカを、横を向いたリトが制する。

背中は見るけど、前は、……結婚するまで誰にも見せないで。

リト……。

 あくまでまじめなリトの声に、エリカは思わず笑みをこぼした。

この文字は、……薬草?

 再びリトに背を向けたエリカの背に、リトの息が吹きかかる。おそらく蝋板に書き留めているのであろう、筆記具が蝋の下の板を引っかく音の他は、何も聞こえてこない。

大丈夫かしら?

 心配になって振り向いたエリカの瞳に映ったのは、リトの身体を再び覆い始めたどす黒い影。

リト!

大丈夫だから、エリカ。
結婚、してないんだから、まだ、前まで見るわけにはいかない。

 思わず叫んだエリカを、リトは冷静な声で制した。

背中の文字は全て写したから、ちゃんと体を拭いて服を来てから、ダリオさんを呼んで来て。

 盥を飛び出したエリカの腕を掴んだリトの、冷たくなった手に、エリカは頷くことしかできなかった。

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