真夏と日野の間の気まずい空気は、その日中ずっと続いていた。

午後七時、日野が退勤する。我知らず、真夏はほっと安堵の息をついていた。しかし、日野に疑問点を尋ねることも、手伝ってもらうこともできなかったため、真夏の仕事は難航した。

ようやく真夏が署を出る頃には、時刻は午後十時を回っていた。
夜道を、足早に駅へと急ぐ。



佐藤真夏

腹減ったな……
そういえば昼から何も食べてないんだった……

昼は日野と揉めたせいで食欲がなく、夜は雑務に追われて暇がなかった。正直今も食事をする気分ではなかったが、さすがに二食も抜いては感情で空腹をごまかせない。

佐藤真夏

何か食べていくか……

しかし、転勤にてきたばかりの真夏は、この辺りの店に明るくない。自然と真夏は、あのラーメン屋に足を向けていた。

日野がいるかもしれないと思うと一瞬ためらったが、七時に一人で署を出た日野がまだ店にいるとは考えにくい。それでも、真夏はそっと店内を窺って、日野の姿がないのを確認してから立てつけの悪い扉を押した。

莉子

いらっしゃいませ~!

こちらに気付いた莉子が、水の乗った盆を片手に、ニコリと笑って出迎える。

莉子

あれっ、まさか一人~?

からかうような口調を見ると、そんな言い方をしたのはわざとだろう。聞き飽きた揶揄だが、莉子が言うと違って聞こえる。

落ち込んでいた気分がほんのすこしだけ和らいで、真夏はやあ、と片手を上げた。

どっちにすんだ、兄ちゃん。
まさかラーメンか?

佐藤真夏

無理に使わなくていいですよ……

茶化してくる店主に苦笑しながら答え、真夏はラーメンを注文した。それからちょっと考えて、ビールも追加する。すぐに莉子が中瓶とグラスを持ってきた。

莉子

注ぎますね~

佐藤真夏

えっ……い、いいですよ。
自分でやりますから

莉子

まあ、いいからいいから

そう言って莉子が瓶を持つので、真夏はあたふたしながらグラスを持った。若い女の子と話す機会などないので、どういう対応をしていいのかわからない。

…………。

しかしそれより今は、店主の睨みの方が怖かった。

莉子

佐藤さん、なんだか元気ないですね?

佐藤真夏

えっ……、そ、そう?

莉子

それに、こないだはビール苦手そうに見えましたけど。何かあったんですか?

佐藤真夏

いや……

注がれたビールをぐいっとあおる。独特の苦みが口の中に広がった。やはり旨いとは思えないが、莉子がまた瓶を傾ける素振りをするので、真夏は空のグラスを差しだした。

佐藤真夏

僕、やっぱり刑事向いてないんだろうなあ。日野先輩はあんなだけど、ちゃんと仕事できるし。僕だけいつもウジウジしてて、情けないです

またビールをあおる。日野に怒られたことよりも、自分の情けなさが不甲斐ない。

佐藤真夏

もう、刑事の僕にできることはないんだ。何もできないのに、いや、何もする気もないくせに、言っても仕方ないことばっかり言って……

日野に怒鳴られたときは驚いて何も言えなかったが、反発心はあった。だが冷静になると日野の言葉は全て正論だと思えた。ぽつりぽつりと真夏の口から零れる言葉を聞いて、店主がにやりと口の端を持ちあげる。

青いねえ

莉子

お父さん、真剣に悩んでるのにそういうこと言わないの

莉子は少し考える素振りを見せ、瓶を置くと口を開いた。

莉子

私、難しいことはわからないですけど。刑事の佐藤さんでも無罪を証明する方法はあると思うなあ

佐藤真夏

……でも、それは検察の仕事で……

ぶつぶつと呟く真夏の声を、莉子のはっきりとした声が上書きする。

莉子

真犯人を挙げればいいのよ

ぽかんと、真夏は莉子を見上げた。

彼女はそれだけ言うと、くるりと真夏に背を向け、厨房の方へ戻っていく。ぼうっと揺れるポニーテールを見ていると、ごとんという音がした。

カウンターにラーメンが置かれていた。

いただきます、と呟いて、箸を割る。テレビの声と、莉子が食器を洗う音を聞きながら、真夏はラーメンをすすった。



真犯人を上げるといっても、須々木のときも戸川のときも、捕まったのは電車の中だ。どちらも被害にあった女の子が悲鳴を上げた。須々木は近くにいた乗客に手を掴まれ、戸川にいたっては周囲の乗客は女性だけだったのだ。誤認逮捕である可能性は限りなく低い。

 
よしんば真犯人がいるとしても、電車の中では防犯カメラもないし、満員電車のごたごたの中では目撃者を探すのも難しい。思いつく限りのことをやり終えてしまった今、時間が経過すればするほど証拠が出てくる確率は低くなっていく。


絶望的な気分になっていると、急にがたりと扉が鳴って、思考はそこで中断された。

眞子

莉子! 私の時計勝手に持って行ったでしょ!

莉子

お姉ちゃん!?

飛び込んできたのは、二十歳くらいの女性だった。長い茶髪をきっちりと巻いた、なかなかの美女だ。彼女はずかずかと莉子に近づき、腕をぐいっと引っ張った。

眞子

やっぱり。これ彼氏に貰ったんだって言ったでしょ!? 明日デートなのに……

莉子

えへへ、ごめんごめん

うやら彼女は莉子の姉のようだった。化粧と服のせいで莉子よりはだいぶ華やかな印象だったが、言われてみるとどこか似た面差しをしている。

眞子

お父さん、私やっぱり一人部屋がいい!
莉子、私のものなんでも勝手に使うんだもん

莉子

やだー、そんなこと言わないでよー! 謝ってるじゃないー!

眞子

ちょっと、抱きつかないでよ! きゃっ、どこ触ってんのよこの痴女!

はっとして、真夏は顔を上げた。
姉妹の喧嘩はかしましく続き、店主がうるさいと一喝したが、いずれの声ももう真夏の耳には届いていなかった。

今まで考えもしなかった可能性が浮かんだからだ。

それからはラーメンの味もビールの味もわからず、家に帰ってからも気が急いて、真夏はその夜一睡もできなかった。

それでも僕はやってない 6

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