次の日。

　砦の周壁に設えられた、盾壁や狭間胸壁で守られた頑丈な歩廊に上がったエリカが見たものは、砦を囲む色とりどりの旗とマント。

　盾壁の矢狭間に顔を突っ込んだチコの声が、砦の皆の思考を代弁する。

　確かに、帝の近衛騎士である紫金騎士団の紫色と、この平原を含む帝国西方を守る黒銀騎士団の黒色のみならず、帝国南方、海原に浮かぶ島嶼部を守護する赤銅騎士団の赤色も、帝国北方、雪の多い山岳地帯を守護する白鉄騎士団の白色も、帝国東方、豊かな草原と穀倉地帯を守護する蒼鉛騎士団の青色も、矢狭間の細い隙間からでもはっきりと見える。
　帝国北方と東方は、最近、帝国外からの多大な侵入や圧力に曝されていると聞いているが、そのような時に、このような多勢を、この小さな砦を下す為だけに集めるとは。

　帝国は本気で、この砦を、『黒剣隊』を潰そうとしている。背中の震えを感じ、エリカは思わず、すぐ横にいたリトの腕を掴んだ。

　そのエリカの耳に、パキトの、普段通りの声が響く。

　エリカの懸念と同じ言葉を、リトは小さく呟いた。

　急いたチコの言葉に、リトが笑う。

　そのリトの視線を追うと、騎士達の固まりから離れ、砦の正門の前に立つ馬に乗った二つの影が、見えた。一つは、紫のマント。そしてもう一つは、黒のマント。

　リト達の方へ走り来た隊員の一人、ウーゴに、リトが尋ねる。

　ウーゴが頷くより先に、パキトの軽い声が響いた。

　確かに、騎士達は、砦の、丘に面した側半分しか取り囲んでいない。平原に面した側は、遠目でも、普段通りの荒野のみが、見えた。
　魔物の出現は、殆どが平原側。丘と砦との間に魔物が現れることは、ほぼ、無い。

　そのパキトに頷いたリトが、指示を出す。

　全身を震わせるキカの肩を、チコが叩く。

　頷いて去るパキトの背を確かめたリトが、エリカに向かって左手を差し出す。

　切迫した状況にはそぐわない、リトの言葉と動作に、エリカはふっと肩の力を抜いた。

　『黒剣隊』の庇護者であった母、シーリュス伯の娘として、隊員達を脅かすものの原因を、知る必要がある。

　リトの手を取ることなく、エリカはリトの後ろから周壁の階段を降りた。

　扉の装置を操る隊員達に、リトがそう、指示する。すぐに、金属で補強した重い木製の正門扉は、錆びたような音を立てて開いた。そして、下りたままの鉄格子の向こうにいたのは。

　言葉を、飲み込む。

　使者に立っていたのは、黒銀騎士団の団長シアノと、紫金騎士団の団長ラウル。

　リトとエリカを認めた、黒銀騎士団の長、シアノが、つっかえながら言葉を紡ぐ。その、どことなく頼りなげな声を、エリカはリトの後ろで、ラウルとシアノを見つめながら、聞いていた。

　リトの上司であるシアノが、使者に立つのは分かる。だが何故、ラウルも？　おそらく、シアノと仲が良いからだろう。エリカはそう、考えた。あるいは、帝の代理たる皇太子殿下の命に背いたリトに皇太子殿下が直々に制裁を下すことを示すため、近衛騎士の長であるラウルが使者に立っているのかもしれない。

　震えが止まらないエリカの前で、リトが、馬上の二人に向かって一礼する。そして。

　二人を強く睨み、リトはおもむろに口を開いた。

　リトの言葉は滑らかで、そして誰にも口を挟めないほどに、強かった。

　しばらく、無音の時が流れる。

　それだけ言うと、紫金騎士団の長ラウルは馬を返した。

　置いて行かれた形の黒銀騎士団長シアノが、情けない声を出してラウルの後を追う。

　正門を閉めるよう指示を出したリトを、エリカは呆然と見つめていた。

　リトの言葉で、呪縛が解ける。

　再び考えるような顔になったリトに、エリカはこくんと、頷いた。

　一日、砦を囲んだ騎士達は、何もしてこなかった。

　夕方、様子を見るために再び砦の周壁に登ったエリカに、青白い顔のままのキカがそう、声をかけてきた。

　聞こえてきたリトの、砦を巡って防御を確かめてきたのであろう、汗で髪が貼り付いた額を見つめ、エリカはキカと同時に頷いた。

　そのエリカの耳に、リトの、砦警備の隊員達に向かう声が響く。

　エリカも、この砦に来て最初に、リトから、歩廊の周壁や中庭、そしてリトが執務に使っていたというエリカの居室にある地下への抜け道について教えられた。小さな砦を飲み込んでしまうような巨大な魔物が現れたときには、魔物の手が及ばない地下に潜って難を逃れることも。

　一時の逃走は、恥ではない。無力な人々を守れなくなることこそ、『黒剣隊』にとっての恥。リトの言葉を、エリカは温かく聞いていた。

　リトと兄妹でも、構わない。ふと、そう思う。ずっと、リトの側にいることさえ、できれば。そう思い、エリカはそっと、リトの小さな背を見つめた。

　そして、夜。
　眠れないエリカは、再び、砦の周壁に登った。

　魔物は夜、現れることが多いという。無人の平原を油断無く見つめていたリトが、エリカを認めて声を上げる。

　心配顔のリトに、エリカは小さく首を横に振った。

　そしてそのまま、リトの横に立ち、狭間胸壁の向こうに見える平原を見つめる。動くものが無い、どこまでも平らな土地は、ただ冷たく、エリカの前に佇んでいた。

　そのエリカの耳に、チコの声が響く。
　振り向くと、チコとキカが、投げるための細い槍をしっかりと掴んで立っているのが、見えた。パキトの姿は、見えない。おそらく騎士達が陣取っている丘側の盾壁を守っているのだろう。

　楽観的な声のチコを、リトが制する。

　その時。

　重苦しい気配が、エリカを覆う。

　振り向くより先に、何時の間に現れたのであろう、砦の周壁の倍以上ありそうな高い闇の壁が、エリカの視界に映った。

　突然のことに呆然としてしまったエリカの手が、強く引っ張られる。

　たちまちにして、エリカの身体は、リト経由でキカの前にあった。その横では、チコとリトが、備え付けの投槍を次々と、どす黒い壁に投げつけているのが見える。

　中庭に下りる梯子に足をかけたキカに続き、エリカも梯子に手を掛けた。次の瞬間。

　エリカの身体が、冷たいものに包まれる。
　あっという間に、エリカの視界は真っ暗に覆われた。

　だがすぐに、小さな手がエリカを掴んでくれる。リト、だ。
　冷たく柔らかい、魔物の暗闇に絡め捕られるのを感じながら、エリカはリトの手の、温かい方へと腕を伸ばした。

　エリカを抱き締めたリトの、もう片方の手に握られた剣が、エリカを絡め取っていた影を叩き斬る。
　リトが影の壁に剣を突き立て、落下速度を弱めることによって、リトとエリカは無事に、砦の外の地面に着地した。

　エリカから腕を放したリトが、迫り来る魔物のどす黒い壁に鋭い剣を突き立てる。
　リトを、手伝わなければ。地面に落ちていた投槍を掴むと、エリカは魔物の、リトから離れた部分にその槍を落ちている分だけ次々と、投げた。

　まだ避難していないのであろうチコの声と共に、弓と矢筒が足下に落ちてくる。

　頭上にそう叫ぶなり、エリカは狙うことなく次々と、魔物に向かって矢を放った。

　そして。

　やっと、夜明けの光が、平原を照らす。
　光と共に、強大な魔物は、跡形もなくその姿を消した。

　胸を撫で下ろし、まだ呆然とエリカの前に背を向けて立っているリトの方へと飛ぶように走る。次の瞬間、近づいたエリカを、リトは横へ突き飛ばした。

　倒れたエリカが、次に目にしたのは、エリカの足下に横様に頽れたリトの、身動き一つしない姿。

　そのリトの背に刺さっていた複数の矢に、エリカの全身は震えた。この矢は、どこから？

　砦を見上げ、声を上げる。
　いつの間にか、砦の周壁は、騎士団の色とりどりの旗で埋め尽くされていた。

　リトが魔物にてこずっている間に、騎士団連合が砦を奪った。それだけは、分かる。しかし、どうやって？　リトは魔物と戦っていたとはいえ、丘に面した側は、リトが信頼しているパキトの隊が守っているはずだ。周壁自体も、意外に頑丈に作ってあった。なのに、何故？　エリカの疑問は、悲しく解けた。

　砦の、平原側の門が、重々しく開く。そこから出てきたのは、ラウルと、……パキト。

　パキトが静かに、ラウルを見上げる。
　そのパキトを、エリカは睨んだ。

　震える声のパキトに、ラウルは小さく頷いたように、見えた。次の瞬間。

　ラウルの剣が、無造作に動く。

　次にエリカが目にしたのは、肩から胸を深く切り裂かれ、地面に尻餅をついたパキトが流す、無惨な血の赤。

　呆然とラウルを見上げ、そして仰向けに倒れたパキトに、ラウルが鼻を鳴らす。そして。パキトの血に濡れた剣を、ラウルはエリカと、身動き一つしないリトの方へと向けた。

　震えよりも先に、視界が真っ黒に染まる。
　冷たい荒野が、エリカの身体を抱き留めた。