その日の夜。

 強い風の音に、はっと目覚める。

……すごい、風。

 ベッドに横たわったまま天窓を見上げると、暗い夜空を過ぎる黒い雲が、どこか不吉に、エリカの瞳に映った。嵐が、来るのだろう。それとももう既に、来ているのか。

 不意に響く、金属扉の開く音に、はっと振り向く。

……。

 扉の向こうにいたのは、サリナという名のあの少女。見張りの姿は、見当たらない。逃げるチャンスだ。おそらく風の音に怯えているのであろう、震えながらエリカの方に走り寄ってきたサリナの腕を掴むと、エリカは扉の方へ走った。

 と、その時。

 強い揺れと衝撃、そして轟音が、部屋全体を襲う。

きゃあっ!

 思わぬことに叫びつつ、それでもエリカはサリナを庇うように、金属扉の影に身を伏せた。

 全てが静まるまで、少し掛かる。

も、もう、大丈夫、かしら?

 静寂が完全に戻ってから、エリカは恐る恐る、金属扉の影から顔を出し、辺りを窺った。

……あ。

 もうもうと上がる土煙を、見透かすように見つめる。

 先程の轟音はこれであろう、地下室の、天窓があった壁が一部崩れ、外への階段になっているのが、見える。

……これなら、脱出できる!

 ここから脱出すれば、屋敷をさまようよりも捕まる可能性は低くなる。口の端を上げると、エリカはまだ震えているサリナの腕を強く引いた。

 サリナと共に、崩れた壁をよじ登る。

 久し振りの外は、夜だというのに明るかった。

どうしたのかしら?

 ぐるりと見回す前に、焦げた匂いで原因を知る。

……まさか!

 街の方が赤くなっている。火事だ。しかも大規模の。

……。

 エリカと同じ方向を見つめ、おののくサリナの冷たい腕を、そっと掴み直す。

 赤くなった空の間に、煙とは違う暗い影も見える。

あれは……!

 平原でリトが退治した影の色と、同じだ。
 ……と、すると。一瞬で、心を決める。火事にしろ、魔物にしろ、とにかく今は、……逃げなければ。

 突っ立ったままのサリナの腕を引き、炎が見えるのとは逆の方向へ走る。確か、ラウルの家は、薔薇園の方に裏口があったはず。リトと共に迷い込んだ、その思い出を振り切ると、エリカは薔薇の匂いがする方へサリナを引っ張った。

 裸足の足に、地面が冷たく当たる。しかし痛さに顔をしかめている時間は無い。とにかく、逃げなければ。

 と。

 不意に横から現れた、闇より暗い影に、サリナを突き飛ばしてから地面に転がる。驚くより先に、飛びかかってきたどす黒い影を、エリカは落ちていた鋤でぶっ叩き、影が怯む隙に再びサリナの腕を掴んだ。

 そのまま、秋になっても咲き誇る薔薇園へ、二人で突っ込む。幸い、魔物らしき黒い影は薔薇園の前で止まり、炎の方へくるりと向きを変えた。

もしかして。
……魔物は薔薇が苦手、なの?

 その魔物の行動に、ふと、そんなことを考える。もしも、そうであるならば、しばらくの間ここに隠れているのも一つの手だ。

 しかし魔物からは逃れることができるとしても、炎がここまで延びてくれば、薔薇はすぐに燃えてしまう。やはり逃げた方が良い。エリカは再び、震えるサリナの腕を掴んだ。

 その時。

誰かいるのか?

 聞こえるはずのない声に、全身が震える。

リトっ!

 叫ぶなり、エリカは目の前の影に抱きついた。

無事だったのっ?

ああ。

 おそらく火事を避けてここまで来たのだろう、煤に汚れて、それでもまだ美人に見える顔に、ほっと息を吐く。

怪我は、無さそうだな。

やはり、ラウルの屋敷に閉じ籠められてたか。

どうして、それを。

説明は、後。
とにかく、帝都から脱出しないと。

うん。

 リトの言葉にもう一度頷いてから、エリカは手近の薔薇を思い切りよくむしり取り、自分とサリナ、そしてリトの服のポケットに入れた。

持って行こう。
……魔物が、嫌ってた。

分かった。

 街が燃える、その煙が、この辺りまで濃く漂ってきている。

 薔薇園の向こうに見えた裏口に、エリカはリトに続いて飛び込んだ。

 走り通しで、帝都西端の河原まで辿り着く。

 河に掛かった橋は、避難民でごった返していた。

北にも、橋があったはずだ。

 必死に橋を渡ろうとする人の多さに唇を噛むエリカの耳に、あくまで冷静なリトの声が響く。

急ごう。

ええ。

 エリカの手を掴んだリトの、久し振りの温かさに、エリカはこくんと頷いた。

 その時。

 帝都の中心部から、いきなり、津波のようなどす黒い影が橋の方へ伸びる。

えっ!

 エリカが見つめる一瞬で、影は橋を渡ろうとしていた人々の半数を、その影の中に飲み込んだ。

うわっ!

逃げろっ!

 算を乱した人々が、エリカ達の方へ突進してくる。
 しかしリトの素早さは、全ての人を超越していた。

エリカ!

 エリカの腰に腕を回すやいなや、強く地面を蹴り、人が少ない河原の端へ飛んだのだ。

 バランスよく、河に落ちないようにエリカとサリナを支えるリトに、頷くことしかできない。
 そして。

 リトのその行動で不意に目の前で対峙することになった巨大な影に、エリカの全身は一瞬、硬直した。

 その影の一部が、エリカとサリナの間をすり抜ける。

……。

 その風圧で破けた、サリナの服からこぼれ落ちた薔薇の花びらに影が怯むのを、エリカは安堵と共に見た。やはり、推測は正しかった。魔物を避けることさえでき、河を渡ることさえできれば、帝都から脱出、できる。

 だが。

二人は、ここにいて!

 河原の端にエリカとサリナをしゃがませたリトが、落ちていた大剣を拾う。

何を?

まさかっ!

 裂帛の気合いと共に影の方へその刃を向けたリトを、エリカは止めることができなかった。

 魔物を制し、人々を守ることが、リトを長とする『黒剣隊』の役目。

 だから、今、エリカにできることは。

サリナ、ここにいて!

 服を裂かれたときに皮膚も傷ついたのであろう、僅かな血に濡れたサリナを河原の草影にしゃがませてから、ポケットの中の薔薇の花を半分、サリナに渡す。

 そしてエリカは、ちょうど落ちていた槍に残りの半分の薔薇の花を、着ていた絹服の裾を破いて縛り付けると、勢いを付けて、リトが対峙している大きな影の、リトから十分離れた場所へその槍を投げた。

 エリカが投げた槍を食らった影が、大きく震えるのが見える。

 次にエリカが目にしたのは、よじれた影を横に真っ二つにした、リトの姿。

リトっ!

 混乱する人混みをかき分け、倒れかけたリトに駆け寄る。
 幸い、リトに怪我は見当たらない。

良かったぁ。

 リトの華奢な身体を支えながら、エリカはほっと息を吐いた。

 だが。

この、影。
……まさか!

 地面に尻餅をついたリトが指し示す方向を見、息が止まる。

この人、は……!

 いつの間にか、影は収縮し、恰幅の良い人間の姿になっていた。そして。その影が指に填めていた指輪が、途切れた雲から覗く月明かりに光る。その指輪の紋章は、輝く太陽。それは、……時の帝のみが身に付けることができる、特別な紋章。

第六章 囚われの後 2

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