走る馬車から見える、深い森の木々の色に、ほっと息を吐く。

 リトが吸い出しきれなかった毒が全身を蝕んでいる所為か、身体は怠い。しかし、帝都は、既に遠くなっている。エリカ達が戻る西の街も安全とはいえないかもしれないが、それでも、ここまでは、誰も、リトを害そうとしているもの達は来ていない。そのことが、エリカを心底ほっとさせていた。

大丈夫?

 不意に、熱い手が、エリカの手に触れる。
 隣に座る、リトの、まだ癒えていない怪我からの熱の熱さが、エリカの背を震わせた。

うん。
……大丈夫。

まだ、熱が有るね。

大丈夫……。

 肩に凭れてもいいよ。リトの申し出に、小さく首を横に振る。
 リトの方が、怪我は酷い。リトの方こそ、ちゃんと休んでいないといけないのに。それでも、再びエリカの腕を引いたリトに、今度はエリカは逆らわなかった。

 華奢な身体つきからは意外に思えるほど、リトの肩は筋肉質で固く、そして灰色の服越しに伝わってくる熱は、心地が良かった。

怪我、大丈夫?

うん……。

 うとうとするエリカの耳に入ってくる、リトの気遣わしげな声も、快い。気怠げにこくんと頷くと、膝に置いたエリカの、包帯が巻かれた左手に、リトの熱い手が重なった。

自分が、こんなに嫉妬深いとは、思わなかった。

 独り言のような、リトの声が、静かな空間に響く。

……リト。

 リトのその言葉が、エリカには意外に、そして嬉しく響いた。

 リトの熱い肩に凭れたまま、そっと目を閉じる。

しかし。
……誰が、『黒剣隊』の隊員を襲っているのだろうか?

確かに、そうね。

 リトの唸りを、エリカは自分のことのように聞いていた。

分からないことばかりだわ。

 と。

 街道脇の小道を滑らかに動いていた馬車が、急に止まる。

何事だ?

 眠りかけたエリカの身体を庇うように支えたリトが、エリカから離れて馬車を降りる、その後ろ姿に、エリカははっと目を覚ました。

森の中に、誰かが倒れてるようですぜ、隊長。

 そのエリカの耳に、馬車の屋根に乗って護衛をしていたパキトの声が入ってくる。
 馬車のカーテンを開き、パキトが示す先に目を凝らすと、確かに、森の木々では無い色が、見えた。

 怪我があるのに、それでも俊敏なリトの背を追って、エリカも馬車から降りる。

お嬢様!

 御者席にいる家令ダリオの制止を聞きながら、エリカは馬車備え付けの弩を手にし、リトとパキトの後を追った。

 すぐに、リトの足が止まる。
 大柄な、しかしまだ少年の顔をした青年をパキトが抱き起こしているのが、見えた。

……ううっ。

チコ?
チコなのか?

 少年の顔を見たリトが、驚きの声を上げる。

『黒剣隊』の見習い騎士だったやつだ。

 事情が飲み込めないエリカに、パキトがそう、説明してくれた。

確か、『黒剣隊』の他の奴らと一緒に森を開拓しているという近況報告があったが。

 パキトの言葉を聞きながら、エリカは、チコの肩を揺するリトを見つめていた。

……た、隊長!

 リトの気付けに、少年が目を覚ます。

隊長!
すぐ来てください!

 そしてチコという名の少年はすぐに立ち上がり、森の奥を示した。

いきなり、変な奴らが、俺達の農場に!

分かった。

 おそらく、パキトが言っていた、『黒剣隊』を襲う賊だろう。リトの冷静な呟きに、エリカもこくんと頷いた。おそらく、卑怯な手段でリトを二度も襲った奴らと、同じ奴ら。だから。少年の後を追って走る二人の後を、エリカも全速力で走った。

 だが。

 森を抜けたエリカが最初に見たのは、呆然と立ち尽くす大柄な影。その影の足下には、首をはねられた無惨な遺体が、あった。

アーロンさん……。

 おそらく、チコと一緒にこの森で暮らしていたのであろう、小さく動かない背を、チコが撫でる。

そんな……。

 その痛ましい姿を、エリカは見つめることしかできなかった。

ダメだ。

 そのエリカの耳に、おそらく開拓地を一通り見て回ってきたのであろうパキトの歪んだ声が響く。

みなやられちまってる。

 そのパキトの後ろから現れたリトの、肩を落とした姿に、エリカの胸は痛んだ。

どんな奴らが襲ってきたか、分かるか、チコ?

 それでも冷静な、リトの言葉が、響く。

分からない。

 リトの言葉に、座り込んだチコは首を大きく横に振った。

襲って来たやつら、みんな、顔を隠してた。

そうか。

 チコの言葉に俯いたリトが、不意に顔を上げる。

どうしたの?

 エリカの言葉に、リトは首を傾げてから答えた。

薔薇の匂いがする。

え?

 リトの言葉に、辺りを見回す。
 しかし見えるのは、開拓途中のまだ荒れた土地と、倒れそうなあばらや、そして倒れている人々だけ。土と血の、胸が悪くなるような匂いはするが、薔薇の香りは。

 帝都から西では、野生の薔薇は自生していない。エリカが育った、西の街の屋敷に残されていたおそらく父の蔵書であろう本には、そう書かれていた。そのことを思い出しながら、エリカはもう一度、リトに向かって首を傾げた。

とにかく、ぼうっとしている暇はない。

 そのエリカの耳に、リトの声が響く。

我々も早く、ここから立ち去らなければ。

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