六月、梅雨。


 もう何日も雨が続いている。


 瀬戸内海に降り注ぐその雨は、まるで、俺達の島を沈めようとしている。


 いつも、そう感じていた。



答えを、迫られている………。


奏太! もう学校の時間よっ

 居間から、母親の声が聞こえた。

……わかっとんよ。

弁当は?

ほれほれ

 母の手には、小さな風呂敷が握られていた。

 しかし、それを受けとろうとした時、一瞬母の手が止まった。

……あんた、最近遅刻しとんじゃないんね

 母の表情は曇っていた。 

 俺は無表情のまま、弁当を受け取る。

 

……なんでじゃ

……べっつに、ただそがん気がしただけ

 特に問い詰めるわけでなく、母は居間の方へ消えていった。

 俺は傘立てから紺色の傘を抜き、家を後にした。

 

 外は変わらず雨だった。風こそないが、粒の大きい雨だった。

 俺は水溜りを避けながら、『目的の場所』へと歩みを進める。

 

『……あんた、最近遅刻しとんじゃないんね』

 母の言葉が、チクリと胸を刺す。

 母親特有の勘、なのだろうか。

あっ

 俺は声を漏らした。

 少し先、ぽつりと立っているバス停標識の隣に、ひとつの青い傘が寄り添うように開いていた。

 傍に大きな水溜りがあったが、靴が濡れるのも構わず踏み入って横切り、そっと近寄る。

――おはよ

雨に溶けたような声。

それでいて、
はっきりと聞き取れる綺麗な声だった

……おはようございます

ふふっ

 彼女は傘を揺らして笑った。

なっ、何がおもしろいんよ

いいえ、なんでさっき敬語だったのかなと思って。でも、そんなことも無かったね

 雨の日に限って、いつも、彼女はこのバス停に立っていた。

 二週間前、初めて彼女と出会った。

 偶然だった。バスを待っていたら、彼女が現れた。

 顔は一度も見たことが無い。

 名前だって、歳だって知らない。話し方だって、なんか俺と違う。

 でも、それでも――

今日も友達まってるの?

……ああ、うん

 嘘だ。

 今年で高校三年になるが、今まで誰かと一緒に登校したことなど一度も無い。

今日も友達来るの遅いね。遅刻しちゃうよ?

……いっつも走って行きよるけ

――そう

 少しの間、雨の音だけが二人の間に流れる。

雨、好きなん?

――ッ!?

??

ふふ、あははっ!

 さっきとは違って、彼女は声を大きくして笑った。

 一瞬、彼女の揺れる髪が傘の裾から見えた。

どうしたの? 急に

べっ、別に!
ただ気になっただけじゃ

ああっ! もしかして、私のこと気になってるの? 子供のくせに生意気だなぁ

ばっ、そがいなわけあるか!

えー、怪しいー。

……

……

 バスが来た。雨に混ざり、鼻にツンとくる排気ガスが臭う。

それじゃ、私は行くね

 バスの扉が開き、傘をたたんで彼女が乗り込む音が聞こえる。

 今なら、少し傘を上げれば彼女の顔が見えるのだろう。しかし、何故か俺はそれが怖かった。

 彼女は俺の事を「子供のくせに」とよく言ってくる。

 口ぶりから、彼女が俺よりも年上――大人であることは大体予想はできていた。

 だからこそ、彼女をこの目で見てしまえば、今より彼女との距離が遠ざかってしまう。

 そんな気がして、俺は『彼女を知ること』を怖がっていた。

また明日――

 俺の声は扉に遮られ、彼女に届いたのかも分からないまま、バスは排気ガスを吐きながら遠ざかって行った。

雨は、勢いを増していく。

 太陽の光が、稲の葉に滴っている雫に反射している。

 梅雨の雨が、小さな水溜りとなってあちこちに残っていた。
 
 今日は全校朝礼のため、全校生徒がグラウンドに出てきている。

 とは言っても、島民は500人ほど。

 その中でも、この学校に通っているものと言えば、30人程度だ。

おっす!

 前に立っていたクラスメイトの浩輔が話かけてきた。

んっ……おお

なんだよ、元気ねぇな。ん? そいや今日は遅刻してないんじゃのぉ

……今日は雨じゃなかったけんの

は? 雨じゃけ遅刻しとったんかいや。お前歩きじゃろ?

まぁな

 俺は適当に相槌を打つ。

まあなって、お前なぁ――

 浩輔の声は、朝礼台に立ってあるマイクの音によってかき消された。

えー、皆さんおはようございます

 教頭の声が、マイクからグラウンドに設置された拡声器を通して島内全体に響く。

皆さんご存知かと思いますが、佐藤先生の産休のため臨時で来てもらっていた水崎先生が、今日で本島の方へお戻りになられます

それでは、水崎先生――

 カツカツと音を立てて、ひとりの女性が朝礼台に上がった。

えー、皆さんおはようございます

 彼女の声は、綺麗に透き通っていて、どこかで聞き覚えのある声だった。

奏太、あの先生見たことあるか?

……いや、無いな

俺は、壇上に上がっている彼女の顔を見て言う。

今回、佐藤先生の変わりとして、短い期間ではありましたが、一年生を担当させて頂きました。

最初は不安もありましたが、この島の人は皆親切で暖かい人ばかりでした。それに――

 数分の、短い話が終わり、水崎先生は朝礼台を静かに降りた。

ありがとうございました。水崎先生は、明日ここを発たれ、今まで赴任されていた東京の高校に戻られます。改めて、短い間でしたがありがとうございました

 全校朝礼が終わり、生徒達はぞろぞろと教室に戻る。

 その時、生徒の隙間を縫って、
彼女――水崎先生と目が合った。


そんな気がした。

 

 あれから2週間が過ぎ、久しぶりの雨が降った。

 いつもの様に、通学路を少し外れて例のバス停に向かう。

 

『――おはよ……』

 大きな水溜り、ひっそりと立っているバス停の標識。

 


……

 彼女の姿は無かった。

 俺は靴が濡れないように水溜りを避けて、何処へ向かうとなく歩き出す。

梅雨な彼女

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