最終話 桃太郎伝説異聞
最終話 桃太郎伝説異聞
あれから次の大潮の日まで、標は昼夜を問わずに働いた。
潮目にくさびを打ちこむ時も、水門を開ける時も、そこに標が居ないということは無かった。
……それはこっちじゃねえだろ!…その石材は……××**!
……坊ちゃん変わったなー……
ーーーー………
おいそこ、ぼーっとしてんじゃねー、船出すぞーー!!
おー!
親父に怒鳴り散らされても黙々と汚れ仕事をこなす標を、島人たちはまるで初めて見る人のように眺めた。
…………。
標にとっては、作業のひとつひとつが、別れだった。
誰かに別れさせられるのではない。
せめて、自分の手で別れようと思った。
自らの手で大岩を落とし、水門を開けて、桃太郎とのつながりを封じていきたかった。
俺たちはただ喧嘩してただけだ
岩を落とすたびに思い出すのは、掌で触れない分だけ、海風で感じようとした彼女の息遣いだ。
ただ、満ち潮の時に会って、言葉を交わした、それだけだ
目で感じようとした彼女の変化。
耳と口で感じようとした些細な共通点。
匂いで感じようとした、彼女がそこに生きているという事実。
二人の間には何も起こっていない。
桃太郎の亭主になる男にだって、やましいことは無かったと断言できる。
それだけだ。それだけなのに。
ようし、水門を開けるぞお!
最後の水門が開き、堰き止められていた海流が怒り狂うようにうねりを増した。
船体が嫌な軋みとともに大きく傾き、鬼たちは叫びを上げながら舟の縁に捕まった。
うわっ、やばっ、こんなに流れが変わるもんなんだ!!
みんなしっかり捕まって!!
大丈夫ですか、ぼん!!
…………
……ぼん……
標だけがすっくと舟の切っ先に立ったまま、遥か陸地を見据えた。
……
そして、また大潮の日が巡る。
あの時と同じように、標は断崖絶壁に座り、釣り糸を垂れている。
あーいい天気だなあ
上空の風は静かで、春らしくまとまった雲がゆっくりと流れていくのが見える。
島を取り囲む波もまた穏やかではあるが、しかし遥か先に見える水平線は、ぶくぶくと泡立つように白く猛り狂っていた。
新しい渦潮は元気だねえ
道筋を変えた沖合の潮は、桃太郎がやってきていた頃よりもずっと激しくせめぎ合っている。
右から来る潮が左から来る潮とぶつかりあい、渦を巻きながら次の潮目を攻めていく。
さーて
なんだかんだいってこの場所に来てしまうのは、ただの習慣だ。
ここは眺めがいいし、何より悪くない漁場で、石鯛だの鱸だのが面白いように釣れる。
もっとも今日は潮の流れが違うのか、小ぶりのサバが三本上がっただけだったが。
こんなにいい潮目なのに、当たりはさっぱりか…
標は傍らにある握り飯を食らった。堤が作ってくれた米の握り飯だ。
これからはヒエやキビしか食べられない日が来るかもしれません
桃太郎が来なくなった今、米はとんでもない高級品になろうとしている。
……さびしく、なりますね……
そうぼやいていた堤の、どこか後悔するような微笑みが忘れられない。
艶めく白い粒をむしむしと食らいながら、標は声に出して言う。
うまっ。
あー、外で食うのは格別。
一人の時間も、悪くはない。
心穏やかでいられるところが、いい。
何しろ今までは、これ位の時間になると釣りどころではなかった。
沖合を眺めたり、日の傾きを見たり、近づいてくる小さい舟を見てみないふりしたり、やたらと気ぜわしかった。
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今日は、何て静かだろう。
黄色から赤へと染まっていく夕暮れの空は、なんて綺麗だろう。
もう、あの色を、あの娘の似合いの髪の色に重ねることもないのだ。
ったく
標は、片手で顔を覆った。
受け入れろ。
自分に言い聞かせる。
桃太郎はもう来ない。
もうあの海を誰も越えられない。
桃太郎は遠い陸地で港町の女地主として、白犬の一族に大切にされながら生きていく。
黙っていれば美しい娘だから、きっと幸せになるだろう。
大きな屋敷できれいな着物を着て大勢の召使いに囲まれ、可愛い子供を産むだろう。
時折海を見て、自分が異形たちと過ごした日々のことを懐かしく思うかもしれない。
そうだ
自分だって、そう遠くないうちに島の女と結ばれる。
子をなし、族長を継いで、やがて桃太郎の思い出は淡くおぼろげになるはずだ。
いつの日かその輪郭さえ薄れていき、遠い日にみた美しい花の記憶のように、ただそこにあったという光のようなものだけが残るに違いない。
生きるとはそういうことだ。
そういうことだ……
くん、と釣竿がしなった。
少し慌てて、標はそれを引いた。
釣り針が海底から引き上げてきたのは、緑色の布だった。
女物の、これは髪を結う長布だろうか。上等な絹。新緑のような、草色……
全身の毛が逆立っていくのを感じた。
忘れてた
標は踵を返すと、つんのめるように走り出した。
あいつ馬鹿だった。
大人しく白犬の嫁になる?
島に来ることを諦める?
馬鹿な、そんなタマじゃない。
誰かに無理だと言われたら余計ムキになる女だ。
言うことなんぞ聞くわけがない。
あいつはまたねと言ったんだ
言ったからには来る。
あの馬鹿が陸の男の手に負えるわけがあるものか。
たどり着こうが着くまいが、舟を出しているに決まってる。
死ぬんじゃねえ
砂浜に上げていた小舟を猛烈に押し進めながら、標は空に、島に、海の中にまでも届くように咆哮した。
死ぬんじゃねえぞ!
島の入り江の猫の額ほどの浜辺に、一艘の小舟が戻ってきた。
…………
そこから島へと降り立った人影は、水しずくを落としながら、舟の中から大きな荷を抱え上げ、砂を踏みしめる。
背負われているのは、一人の少女。
好きな男が似合うと言った薄衣と、
ふところに守り刀一つ。
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それだけでやってきた無鉄砲な少女は、しかし、ぐったりとしている。
……ゲホッ!!……ケホケホ………
かろうじて、時折咳き込んで海水を吐いては背を上下させていた。
……大丈夫か
……ゲホゲホ………ぜぇ…ヒュ-…ぜぇ……ヒュー…
少女を肩に背負う鬼は、初めての身体の重みに、ぬくもりに、おっかなびっくり手のひらをあてがう。
もうちょっとの辛抱だ。
今暖かいところに連れてってやるからな。
…ゲホッ……ケホッ……ッん……………
少女の息遣いに少しづつ意思が混じり、
今すぐに差し迫った生命の危機が無くなると、
ふと、鬼の表情から柔らかさが消えた。
………。
そこにあるのは、安堵ではなく、決意だ。
この先起こるであろう数々の事態に、どう対処していこうかという目まぐるしい決意。
……ヒュー……ヒュー……
まだ答えは見つけられていないが、それでも、彼はもう逃げ道を探してはいない。
………ごめ……標……
あ?
………………流され……ちゃっ……
……え?……
ふいに、苦しげな息の間に間に少女が何か呟き、
鬼は足を止めると彼女の顔に耳を寄せ、そして困ったように顔をゆがめた。
てめ、そんなもん、持ってくるために、わざわざ……
ゲホッ、そんなもっ、って……ゲホゲホッ!!
わ、わかった喋んな、大丈夫だから喋んな。
……ケホッ……ゼェ……ゼェ……
あのな。
この島、キビだけはいっぱい生えるんだ。
だからこれから毎日作ってくれりゃいい
……ケホっ……
きび団子。
作ってくれよ。な!
砂浜にくっきりと残った足跡は、まっすぐに集落に向かって行った。
むかしむかし。
桃太郎は犬・猿・雉のおともを連れて
鬼ヶ島に鬼退治にいきました。
めでたく鬼を退治し、
桃太郎はたくさんのお宝をお舟に乗せて、
おじいさん、おばあさんのもとに帰りました。
誰もが知っている桃太郎の物語。
このおとぎ話の「続き」を
まことしやかに伝えている、
ある村の伝説があります。
鬼退治から長い月日が経って、
桃太郎は、
また鬼ヶ島に行くと言い出しました。
もうおやめなさいと
犬と猿と雉が引き留めるのも聞かず、
桃太郎は、
たった一人で鬼ヶ島に向かってゆきました。
そうして、桃太郎は、
二度と帰らなかったそうです。
それからずっと後の世に、
桃太郎の一族と名乗る人々が、
海の向こうから船でやってきたのだそうです。
その一族はたくさんの財宝を持っていて、
村いちばんの長者となり。
とても豊かに、
幸せに暮らしました。
……が、
その一族には、
ときどき、
角が生えるこどもがあったということです。
おしまい。