大雨の夜。
 閑静な住宅街の路地裏、何も書いていない看板が、青い光を点滅させている。遠山直行は傘をさし、両足を少し引きずって歩き、看板の前で立ち止まった。
 

 空いた手に持った皺だらけの小さな紙片と看板を交互に確認し、木のドアにぶら下げた『CLOSE』のプレートを見る。
 すると、ドアが開き、マスターが出てくる。

すみません。これから深夜の開店ですか……

 マスターは無言で首を傾げる。遠山は心の中で舌打ちをする。

チッ! 田原のウソだったのかよ!

 遠山は足を引きずって後ずさり、じっと見ているマスターに慌てて言う。

ああ、すみません。マスターが夜だけの副業をしているって、妙なウソつく田原っていう男が……

 マスターはにこやかに頷く。

ああ、失礼しました。田原様からご連絡は頂いております。どうぞ

 マスターはドアを大きく開き、遠山を招き入れる。

 喫茶店の中は、コーヒーのいい香りが漂い、遠山は緊張していた肩の力が抜けていくのがわかった。
 マスターは遠山の傘をきれいに纏め、傘立てに入れる。
 その間、遠山はコートを脱ぎながら店内を見回す。椅子や壁、全てが青い。

すごいな。全て青一色。いや……違う

 遠山は天井の明りを見る。全ての蛍光灯が付いているわけではなく、交互に付いている明りと消えている明りが配置されている。付いている明りが青く、店内を全て青く染めている。

コートをこちらへ

 遠山はマスターにコートを渡す。マスターは遠山のコートをハンガーに掛け、丁寧にタオルで拭く。遠山は椅子に座り、痛そうに何度も両膝を摩った。
  マスターは遠山の両膝をチラッと見て、カウンターに入りコーヒーを淹れ始める。

寺島君、お客様におしぼりとお水を

えっ!

  遠山は驚いて振り向くと、カウンターの端に少年が立っていた。
 前髪が長くて目が隠れている。エプロンの名札には『見習い中』と手書きで書かれていた。
 寺島と呼ばれた少年は、恐る恐るトレイに水の入ったコップとおしぼりを運ぶが、僅かな距離にも関わらず水が少し零れている。
 マスターはコーヒーをコップに注ぎながら、笑って言う。

ははっ、申し訳ありません。この子は今日が初めての仕事で、とても緊張しているんですよ。大目に見てやってください

 遠山は寺島に笑顔で話しかける。

君はいくつだ?

  寺島は緊張した面持ちで答える。

十七歳です

そうかぁ~……十七歳かぁ

  遠山は何度も頷きながら呟く。その様子を寺島が見下ろしている。
  そこへマスターがコーヒーを持ってくる。

コーヒーをどうぞ。さっそくですが、仕事の話に入りましょう

 マスターが遠山の向かいに座る。遠山は隣に立ったままの寺島を見て、困ったように言う。

彼は……

彼はこの仕事の見習いです

まだ十七だぞっ? 子供じゃないか

ですから、話を聞くだけです。仕事は私が行うのでご心配なく。それより、夜も遅いですし、仕事の依頼内容をお聞かせ下さい

 マスターはにこやかに言い、遠山は何か言い掛けるが、

こんな仕事を依頼する俺が、まともな常識を言うのは滑稽か……

 自嘲気味に笑い、静かに話し始める。 

十年前、俺の両膝を砕いた男に同じ思いをさせて欲しい。ここに男の名前と現住所が書いてある

  遠山はズボンのポケットから、一枚の紙を差し出す。マスターは紙を受け取り、一読して言う。

よくここまでご自分でお調べになられましたね。確か現在は探偵をなさっているとお聞きしましたが、その前は警察官でしたっけ?

  遠山は嫌そうに頷く。

ああ……、田原の奴が喋ったのか?

はい。田原様も以前は警察官だとお聞きしました。同期の親友だったとも聞いております

……あいつも可哀相な奴だよ。一人娘を飲酒運転の奴に轢き殺されちまって。それから、全てが狂っちまった。あいつは酒に溺れて、仕事と奥さんにも捨てられちまった。俺と同じだ

同じって?

  突然、寺島の問いかけに遠山は見上げるが、すぐに視線はコーヒーに落とす。遠山は言いにくそうに答える。

俺は十年前、ガキ同士の喧嘩の仲裁に入った時、一人の逆上したガキに金属バットで両膝を砕かれた。それから、怪我が完治した後も、修羅場に入ると当時の痛みと恐怖が甦って、警察官として役立たず……どころか、男としても腰抜けになり下がった。それが原因で十年前に妻と離婚し、一人息子とも会っていない。あの事件さえなければ……全てあのチンピラが!

遠山は怒りに任せ、拳を叩きつけた。

なるほど。貴方は十年間ずっと被害者ということですね?

そうだ! 十年間、ずっと被害者の俺は全てを捨てられ苦しんで、加害者は出所して笑って暮らしているなんて、許せるはずがないだろ!

  遠山の怒鳴り声に、寺島が鼻で笑う。

ふんっ!

  遠山は振り返る。寺島は笑っていた。遠山は怒りに任せて、胸倉を掴み怒鳴る。

何がおかしいっ?

  寺島は胸倉を掴まれながらも笑っている。

アンタの全部がおかしいから笑ってるんだよ。なに被害者面してんだよって

 マスターが寺島と遠山の間に割って入る。

まあまあ、二人とも落ち着いて下さい。私から話をしましょう

 遠山は渋々手を離し座る。寺島はまだ笑っている。

実は今回はほぼ同時にもう一件の興味深い依頼が入っておりまして。私もこんな偶然は初めてです

何が言いたいんだ?

俺からアンタへの復讐依頼だよ

  寺島は遠山に顔を近づけ、睨みつけながら言う。

十年も会わないと、息子の顔もわかんねえよな

  遠山は驚き掠れた声で言う。

しょ……翔か?

  寺島は遠山から顔を離し、見下して笑う。

そうだよ。寺島っていうのは、母さんが再婚した男の名字だ

  遠山は声を掠れたまま言う。

ど、どうして……俺に復讐を?

ん? 母さんと俺を捨てた恨みだよ。
アンタが事件から立ち直ってくれさえすれば、母さんは俺を連れて家を出ないで済んだし、クズみたいな男と再婚しないで済んだ。全ての元凶はアンタって思って、報酬は働いて返す約束で復讐を依頼したけど……

 寺島はまた鼻で笑いエプロンを脱ぐ。

止めた。アンタを見てたらよくわかったよ。復讐なんて時間と労力のムダ

  寺島はエプロンをマスターに渡す。

マスター、依頼はキャンセル。キャンセル料はちゃんと働いて返すよ

  寺島はドアを開き、振り返る。

……お互い十年前の復讐を依頼するなんて、かっこわりぃ遺伝だよな

  遠山は俯く。寺島は前を向き言う。

じゃあな……二度と会うなよ。オヤジ

  寺島は雨の中、走り去っていく。

おや、傘を貸してあげたのに。風邪を引かなければ良いのですが。若いとは言え、油断は禁物ですからね

  マスターは肩を落とす遠山に話しかける。

俺は……十年間被害者ではなく、加害者だったのか

いいえ。被害者であり、加害者でもあったのです

俺は……きっと一番最低な父親だな

いいえ。それも違うと思いますよ。少なくとも、一つだけご子息の為になることをしたのですから

  遠山は首を横に振る。

慰めは止めてくれ

いいえ。一つだけ。あの子が道を踏み外さずに済みました。貴方という反面教師のおかげで

  遠山は一瞬ポカンと口を開けたが、すぐ
に笑う。

皮肉だな

コーヒーも冷めてしまいましたね。新しいコーヒーをお入れします

  マスターは新しいコーヒーを入れている間、遠山は天井を見上げて言う。

この青い光は飲食店には向かないだろ。
コーヒーも絵具を溶かしたみたいに見える
だろ。看板も名前ぐらい書いたらどうだ?

ああ、戻すのを忘れていました

  マスターがカウンターの下をいじると、青い光が消え、代わりに温かみのあるオレンジ色の明りが灯る。

青は理性に訴える色です。復讐を依頼するお客様は、理性よりも感情が先走っている方々が多いので、冷静になって頂くための色です。
それと、看板に名前がないのは、お客様に二度と店に来て頂きたくないのです

  マスターは新しいコーヒーを遠山の前に置き、向かいに座る。遠山は呆れた顔で言う。

アンタ、この商売嫌いなのか?

 
  マスターは首を傾げる。

さあ……この商売は先祖代々なので、自分でも好きなのか嫌いなのかわかりません。ただ、依頼は少ないほうが良いです

  遠山は笑い、コーヒーカップを持ち上げる。

アンタも忌々しい遺伝のせいか

  遠山がカップに口をつけた時、マスターは思い出して言う。

そういえば、寺島君の帰り際の言葉。『二度と会うなよ』というのは、きっと二度と復讐依頼にここに来るなという意味ではないしょうか?
あの子は私にキャンセル料を払うために、明日からここで働かなければいけませんからね

  遠山は眉を潜め、カップを口から離す。

……翔のキャンセル料はいくらだ?

  マスターはにこやかに言う。

遠山様のご依頼の前金でお釣りが出るくらいです。遠山様には復讐相手の所在調べる費用が掛っておりませんので、キャンセル料がありませんから……いかがな
さいますか?

払うしかないだろ。俺の依頼はキャンセルで、金は翔のキャンセル料に充ててくれ

 遠山は不機嫌そうに答え、マスター軽く頭を下げる。

ありがとうございます

  遠山がコーヒーを口に含んだとき、マスターは言う。

よかったですね。遠山様。これで、ご子息の為にしたことが二つになりました

 遠山は激しくむせ返った。

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