須森 省吾

……

僕の住む街は、一年中雨が止まない。
国そのものの発展が均一化された現在、かつての地方都市の趣はもう無い。薄汚れたビルがいくつも樹木のように立ち並び、街はどこか灰色の森のように見えた。童話に出てくるような、魔女の住む森。
十二月七日、水曜日。
午後十一時十七分。
この街に雪は降らない。
冷たい雨が降るだけだ。
……この街には、ある噂がある。
夜遅くまで家に帰らない悪い子供は、神隠しに遭ってどこかに消えてしまう。
くだらない噂話だ。
神様は、そんなことはしない。
僕は手元に目を落とす。
固く握られた、血と雨に濡れた一振りの刀に。

村崎 月代

……?

須森省吾という名前だけは知っている。
しかし、村崎月代がその少年に対して持ち合わせている知識はそれだけだった。
高校生活も、もう二年が過ぎ、来年の春からは三年生だ。しかし、二年のクラス替えで同じクラスになった須森省吾の声すら、月代はまだ知らない。
いるのかいないのか分からない存在。
居ても誰も気に留めないし、いなくても誰も気に留めない。
邪魔でもないし必要とされてもいない。
嘲笑も無ければ称賛も無い。
とにかく、須森省吾はそういう人間で――だから、月代は夜の街で彼を見つけた時、思わず目で追ったのだった。
塾の帰り、時計はとうに午後十時を回っている。
最近、この街では、殺人事件が相次いでいた。
今月に入ってからだけで、二人の死体が見つかっている。
だからこそ、街はいつもより人気なく、省吾の存在がこんなにも目についたのだった。
須森省吾は、月代に気付く様子も無く、より人通りのない路地裏に消えていった。

村崎 月代

……!?

翌朝のニュースを見て、月代は戦慄した。
殺人事件の続報。
新たな被害者。二十七歳の男性会社員。
場所は、駅近くの路地裏。 
犯行の推定時刻は、午後十時過ぎ。
月代が昨日、居たあの場所。
あの近く、ビル一つを挟んだだけの場所で、人が殺されていた。
言い知れぬ恐怖と焦燥のなかで、しかし月代の思考を一番釘付けにしたのは、あの得体のしれない同級生、須森省吾だった。
この時間が、この場所が正しいのなら、彼はこの時間に、その場所に居たのではないか?

誰に言えるわけでもない。
いつもより長く感じた午前中の授業が終わり、昼食休憩の時間に省吾が教室を出たのを確認すると、月代はこっそりと省吾の後を追った。

村崎 月代

須森くん

省吾が振り返る。省吾の名前を呼んだ月代を、周囲の生徒が何人か物珍し気に見たが、足を止める者は無い。

須森 省吾

何か用?

省吾の声を聞いたのは初めてでは無かったはずだが、意識して聞いたのは初めてだった。
平坦な声。
意識をすり抜けるような声。

村崎 月代

昨日の夜、駅前に居なかった?

省吾は一瞬怪訝な顔をしたが、すぐにまた平坦な声で、

須森 省吾

いや。ずっと家にいたよ

あれは見間違いではない。
須森省吾は嘘をついている。
何故?
答えは簡単だろう、殺人を隠すのは殺人者だけ――
まさか、そんな。
そんなはずはない。
携帯が鳴った。
中山彩。
彩は月代の親友だが、この事については何も話していない。
たまたま近くで見かけたというだけで人を殺人犯呼ばわりするのは早計だ。
3コールほどおいて、電話に出る。
彼女くらいには話してみてもいいかもしれない。
自分の壮大な勘違いを、何の面白みも無いような簡素な事実が否定してくれる。
世の中とは大体そんなものだ。
しかし、彩の一言は、その考えを否定した。
『萌絵が帰ってきてないの!どこか心当たり無い⁉』
萌絵は彩の妹だ。月代も何度か会ったことがある。確か、小学校低学年くらいだったはずだ。礼儀正しく内気で、夜出歩くような子供ではない。
掛け時計に目をやる。
午後十時十九分。

萌絵に自分も探してみると告げた月代は、ダッフルコートをひっかけると急いで駅前の方に向かった。
警察には既に連絡が行っているらしく、最近の物騒な事件を受けて、警察の方も萌絵を探しているようだった。
心当たりなど無い。
ただ何となく、ほとんど無意識にこの前省吾を見かけた近隣に向かっていた。
既に人通りはまばらで、街にはビルを避けるように網目状の暗闇が這っている。
明かりを生むのもビルなら、より深い暗がりを生み出すのもビルだった。
心臓が跳ねる。
路地裏の暗がりに、須森省吾を見た。

村崎 月代

待って!

省吾は月代の声を無視して、路地裏の闇の中に消える。

急いで追いかけるが、既に路地裏に人影は無い。
路地裏を駆ける。
薄汚い室外機や雨どいが葛のようにコンクリートに絡みつき、落ち葉のようにゴミが散乱していた。
自分は今、どこを走っている?
それに気づいた瞬間、背筋が凍った。
自分は追っているのではなく、おびき出されただけなのではないか。
そうでないのなら――自分は今、何に追われている?
何かが月代を追っていた。
呼吸も忘れた。
一心不乱に走る。
原住民の壁画のようなスプレーの落書きを横切り、少しでも大きい路地へ。
迷宮のような街を、二十分は走っただろうか?
体の方は呼吸を忘れられなかったようで、思わずその場にへたり込む。
もう、さっきの得体のしれない気配は感じられなかった。

月代お姉ちゃん……?

飛び上がるほど驚いたが、その声には聞き覚えがあった。

村崎 月代

萌絵ちゃん!

萌絵が、ゴミ箱の陰にへたり込むように隠れていたのだった。

……

村崎 月代

大丈夫? 怪我は……

駆け寄って、気づく。萌絵は、両手両足を縛られていた。

お姉ちゃん、後ろ!

村崎 月代

あぐっ……

振り向く前に、足に激痛が走った。見ると、刃物で切り付けられたように右足が裂けている。

………

目の前には、いつ現れたのか、四十代くらいのフードを被った男がナイフを持って立っていた。
そのシルエットにどこか違和感を覚えたが、すぐに原因が分かった。男には左腕が無く、代わりに血に染まったボロ布が巻かれていた。
罠だった。
一人を捕まえて、もう一人を捕まえるための。
男が口を開く。
玩具を手に入れた子供のようにうれしそうに顔が歪み、黄ばんだ歯が覗く。

さて、邪魔が入らない内に……

ナイフが月代の方を向いた瞬間、男の体が吹き飛んで壁に叩きつけられた。
何者かが体当たりして男を突き飛ばしたと気付いた時には、男は起き上がって体制を立て直していた。

お前……

村崎 月代

須森くん……?

須森省吾が、黒いボロボロのコートを羽織って立っていた。

須森 省吾

今度は逃がさない

この前のあいつか……こんなガキだとは……いいのか? 顔を見せちまって

省吾の表情が歪む。どうやら月代の存在が想定外だったらしく、飛び出して来たのは苦肉の策だったようだ。
省吾がコートから何かを取り出す。
刀の柄の部分のようだったが、刃はついていなかった。

須森 省吾

問題ない。ここで殺す

省吾が柄を振るうと、虚空から抜刀されたように美しい刀身が現れた。それと同時に、省吾の顔が能面のようなものに覆われる。

須森 省吾

……

古典芸能のような姿は、薄汚れた路地裏にあってどこか神代のもののような異彩を放っていた。
省吾が男に斬りかかる。男は身を躱して省吾の懐に潜りこもうとするが、省吾はそれを想定していたかのように蹴り飛ばした。
蹴り飛ばされた男に再び省吾が刀を振り下ろす。
男はそれを見て笑う。
刀が男に届こうとした瞬間、男の姿が闇に溶けて消えた。

須森 省吾

……!

省吾が刀を構え直そうとする隙をついて、省吾の視界の外から姿を現した男が省吾を蹴り倒した。
省吾は転がって体制を立て直し、男の方に向き直る。

須森 省吾

今日は逃げないのか?

左腕の礼をさせてもらう

須森 省吾

右も落としてやる

省吾が刀で斬りかかると、男は再び闇に溶けた。
省吾は居合い抜きのような構えをとる。
男が省吾の背後の闇から姿を現す。
省吾は鏡のような刀身でそれを見た。
一閃、省吾の斬り上げが男の右腕をナイフごと省吾の刀が切断した。
男は叫び膝をつく。省吾がそのまま刀を男に振り下ろした。
断末魔を上げ、男は倒れる。死体はそのまま、闇に呑み込まれるように消えた。
省吾が刀をしまうような動作をすると、刀から刀身が消え、能面のようなものも剥がれ落ちるように消えた。

村崎 月代

あ、あのっ……

須森 省吾

今夜の事は忘れた方がいい

省吾はそう告げて、残されたナイフを拾い上げコートの中に仕舞うと、夜の路地裏に消えていった。

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