瑠華からの強烈な一撃を受けた燈莉が目を覚ますと、隣には聖夜がいた。どうやら聖夜のベッドに寝かされていたらしい。

聖夜

燈莉、目覚めたんや。大丈夫?

 先程の迫り来る聖夜の映像がフラッシュバックし、反射的に後ずさる。

聖夜

ほんまごめんな。悪ふざけが過ぎてもうたわ。あそこまで瑠華が怒るとは思わんかったから

 頭を掻きながら、申し訳なさそうな顔で言う。

燈莉

良かった。いつもの聖夜に戻ってる

 つい安堵の溜息がもれる。

聖夜

でもさっきみたいなうちも良くない? ちょっと意外性のある清楚系肉食キャラでギャップ萌え的な

 その台詞に対し無表情な燈莉。

燈莉

タシカニスコシダケドキドキシタヨ

聖夜

なんで片言で棒読みになるんや

 手の甲を相手の肩に当てながら言う、いわゆる漫才などで行われているツッコミ。聖夜がそれをするとさすがに様になっていた。

燈莉

いや、別に他意はないよ。しかしあそこまで立ち振る舞いが豹変する聖夜は色んな意味ですごいよ。……あれ? そういえば瑠華はどこへいったんだ?

 辺りを見回しても、部屋の中に瑠華の姿はなかった。

聖夜

あっ、瑠華は帰ってしまったわ。ごめんな、うちのせいで

燈莉

聖夜が謝ることはないだろ。まったくどうしてあんなに怒ってたんだろうな。まさか本気のドロップキックを食らうなんて

 燈莉は蹴られた首に手をやり左右に振る。寝違えた時になるあの痛みに似ていた。

聖夜

理由、わからん?

燈莉

うん。まったく

 聖夜はこめかみに指を当て、思い切り深いため息をつく。

聖夜

だめだこりゃ。君は鈍感を絵に描いたようなやつやな。瑠華も似たり寄ったりやけど

燈莉

ん? どういうこと?

聖夜

もうええよ。鈍感なお二人で仲良くやっておくんなまし

燈莉

どうしたんだ聖夜。頭でも痛いのか? お前、もしかして……

 不意に聖夜の手を取ると、燈莉は自分の座っている真横に引き寄せる。そして聖夜の顎に手を添え、自分と目が合う方向へ顔を捻った。

聖夜

なんで突然の顎クイ!? ああ、あれか。さっきやられた仕返しって訳か……ってわわ

 燈莉の顔が近付いてくるのを必死に抑えようとするが、聖夜の力ではそれを拒むことができない。顔を背けようとしても力が入らず、顎クイによって完全に固定されている。

聖夜

ちょ、ほんまあかんて燈莉。うちそんなん、心の準備が……

 覚悟を決めた聖夜は力一杯目をつむった。顔は強張り、熟れた林檎のように赤く染まっている。間違いなくキスをされるであろうこのシチュエーションで、彼女は無意識に下唇をはむ仕草をした。世の男達の心を鷲掴むには、あまりに容易いといっても過言ではない可愛らしさだった。
 そして二人の顔は吐息を熱く感じる距離まで縮まり、触れ合った。

おでことおでこが――

燈莉

うん。やっぱりちょっと熱があるんじゃないか

 聖夜は空気の抜けていく風船のように、へなへなと倒れ込んだ。

燈莉

俺が小さい頃さ、いつもこうやって親父が熱を測ってたんだ

聖夜

おそるべし……天然素材恐るべし……

 頭から煙を出しながら、誰にも聞こえないような小さな声で呟く聖夜。これでは瑠華の燈莉に対する気持ちなど、到底理解できないであろうと結論づけた。

燈莉

で、なんだっけ? 俺が鈍感とかなんとか

聖夜

あーその件に関してはもうどうでもよくなってきた

 ひどく疲れた聖夜は、その問いを軽くかわす。ころんと転がりベッドに仰向けになると静かに口を開く。

聖夜

知りたい? じゃあ教えたるわ。瑠華は燈莉が好きやで

 これ以上にないくらい簡潔で単刀直入な言葉。さすがにいくら鈍感でもその意味は理解できた。しかし燈莉の頭の中ではいくつもの疑問腑が浮かんだ。

燈莉

瑠華が? 俺を? 一体いつから?

聖夜

ほんまにわからんちんやなあ。じゃあうちが燈莉に詰め寄った時、なんであんなに怒ってたん?

 無言なままの燈莉にため息を一つ。

聖夜

嫉妬。わかる? うちが嫉妬するように立ち回ったから、その感情が爆発したんやで

燈莉

それがあのドロップキックか

聖夜

そうそう。ただ瑠華も恋愛とかに対しては飛び抜けて不器用やから

燈莉

なるほど。色々と骨が折れるな、聖夜

聖夜

そらもうばっきばっきの全身複雑骨折やわ。……ほんま、複雑やわ

 最後の一言は燈莉には聞こえなかった。物思いにふけっていたからだ。正直なところをいうと瑠華に淡い恋心を抱いていたのは事実である。ただ日々音楽中心の生活をしてきた燈莉にとって、恋愛経験はほとんどなく不得手な方だ。男性の友人はともかく、女性の友人への好感と恋心の差が希薄なのかもしれない。もちろん聖夜も天羽も、燈莉にとっては大事な存在なことに変わりはない。
 天羽はどちらかといえば妹のような存在であり、常に暖かい目で見守っていたくなる存在。聖夜は明るく元気で、燈莉自身が持っていないものをたくさん持っていることが魅力的だ。そして瑠華は……

燈莉

いつもどこかで、俺を見ててくれる感じ

 燈莉の口から自然と言葉がこぼれた。

 クラシックギターの柔らかな音色が響き渡る。空間を包み込むような優しい音だが、端々にメランコリックな感情が垣間見えた。瑠華は気分が晴れない時や、何かに思い悩んでいる時にクラシックギターをよく演奏する。幼少の頃から弾き続けているギターなので持っているだけでも心が落ち着く。
 エレキギターよりもネックの幅が広く、弦を押すのにも力が必要なため正確な音を出すのが難しいが、音の強弱や表現の幅が広いのが魅力である。

瑠華

聖夜のあれ。絶対わざとよね

 瑠華も以前に燈莉のことについて聞かれたことがあった。その時は深くまで探られることはなかったので、好きなんじゃないの? という言葉にはイエスともノーとも答えていない。

瑠華

恋愛とかそういうものじゃ

 自問自答では明確な答えは出ない。ただ燈莉に恋心を抱いている自覚はある。しかしある事情があって、その気持ちを伝えることができない。瑠華は生まれ持って心臓に持病があり今でも定期的に通院している。幸いバンドメンバーにはまだ知られていないが、いずれ病気のことはわかってしまうだろう。

瑠華

だから、踏み込めない……

 そう。自分の体が悪くなければ燈莉に気持ちを伝えていたかも知れない。瑠華が躊躇してしまう理由に、この体のことがあった。医者から普通の人より短命であることは、以前から伝えられているので、今更落ち込んだりはしない。
 瑠華が危惧しているのは、自分と付き合っても普通の人と同じような幸せを掴めないということ。四六時中体のことを気にしないといけないし、仮に長く関係が続いて結婚しても、ほぼ間違いなく相手が死に目を見なければならない。
 そんなことを考えていると自分に恋愛などというものは不可能だ。という結論にいつも行き着いてしまう。いっそのこと聖夜と付き合ってしまえば、こんなことで悩む必要もなくなると思う。

瑠華

そう思ってたはずなのに

 弾いていたギターをスタンドに置き、座っていたソファーにうつ伏せになる。こぼれる涙も拭わずそのままに。一度涙腺が緩んでしまうと涙が止まらなくなる。誰もいない静かな部屋で、鼻をすすり子供のようにしゃくりあげながら嗚咽する瑠華の声だけが響いていた。

瑠華

やっぱり、一人はいやだな……

 人と相対する時にはこのような弱みは絶対に見せない。一人になるとその張り詰めた緊張感が解ける。その瞬間、気丈に振舞っている反動がやってくるのだ。
 瑠華はバスルームに向かった。頭からシャワーを浴びる。涙は水に流されていったが、心につかえる悩みや葛藤はしつこく張り付いて離れない。

 燈莉が帰った後の部屋で聖夜が呆然と一点を見つめている。あれからしばらく取り留めのない話をして解散をした。帰る頃にはいつもと同じ燈莉だった。

聖夜

なんか今日はめっちゃ疲れたわ

 色々と度が過ぎたいたずらをしたことは少し反省している。しかしそれくらいしないとあの二人は歩みを寄せることがない。妙な老婆心から余計なお世話をしてしまったな、と今日のことを振り返っていた。すると何度も同じ言葉が脳裏をよぎる。

聖夜

これでよかったんやろか……

 物思いにふけるのは自分らしくない。自由奔放で明るい性格。それが自分のパーソナリティ。道化師でいるのが一番楽なのは、聖夜自身が一番心得ている。今までそうやってうまく世の中を渡ってきたのだから。

聖夜

そっか。道化は逃げか。そんなんわかってるし

 それでよかった。今までの人生で大きな波風も立てることもなく、順風満帆に生きてきた。

聖夜

違う!

 生まれて初めて、時間をかけて構築してきた最適解を崩したいと思った。つまり自分を否定することが、この瞬間を生きる自分への肯定になる。

聖夜

老婆心? なにそれ。二人のために? 笑えるわ

 結局は自分の足元の床だけ、きれいに掃除をしているようなもの。自由奔放で明るいキャラクターの仮面を外せば、嫉妬や妬みを吐き出し、見えないところにうまく隠しているだけの陳腐な存在でしかない。

聖夜

今までの自分にごめんやわ

 強く言い放った聖夜に迷いはなく、真っ直ぐ前を向いていた。

 獣の臭いが鼻につく飲食店に大きな背中と小さな背中。都流樹と天羽はラーメンをすすっていた。見た目はでこぼこだが二人は実にいいコンビである。

天羽

うむ。やはり豚豚亭の特濃豚骨背脂まみれチャーシュー麺に勝るものはないのですよ

都流樹

やっぱりここの豚骨は間違いないな。またこのチャーシューの脂身がトロトロでたまんねえぜ

 一言ずつ言葉を交わすと、また黙々とラーメンをすすり始める二人。七割程麺を食べ終えたところで二人は同時に声を上げた

天羽

替え玉。麺固めで!

都流樹

替え玉。麺固めで!

 長身で筋肉質な体格の都流樹がよく食べるのは理解できるが、それに負けない位に天羽も食欲も旺盛だ。

都流樹

特にスポーツもやってないのに、お前はまったく太る気配がないな。俺と一緒くらい食べてるのに

天羽

不思議なものですよ。燃費が悪いのかも知れないです。もうちょっと肉付きがあった方が、女性らしくて良いのですが

 天羽はどちらかといえば細身な部類に入る。身長から考えると三十キロ半ばくらいの体重だと推測される。食べたものはこの体の一体どこに消えていくのだろうか。

都流樹

それだけ食べてもう少し肉付きが欲しいか。その台詞で、日本中の婦女子を敵に回したな

天羽

確かに。特に聖夜に聞かれたりでもしたら、わたしはこの世から抹殺されかねないのでやばいのです

 聖夜はこの間、二の腕の肉が気になると言っていた。都流樹はそれくらいあってもいいと思うが、とフォローを入れるも、その肉をつまんだり引っ張りしてからかったせいで、顔の左全体に赤く紅葉が描かれたのは記憶に新しい。

天羽

とる兄は肯定してたのにぶたれていたですよね

都流樹

女のデリケートな部分に触れるのは怖い。あれは勉強になった

 都流樹は何故か腕組みしながら遠い目をしている。勉強になったといっているが、実際あまり何も考えていないことを天羽は分かっていた。そんな都流樹を見て、口を押さえながらクスクスと笑う。
 いつもどおりの平凡な日常。いつも規則的に噛み合っている歯車が、少しずつ狂いだしていることを二人は知る由もなかった。

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