そこから見える景色は、今の自分が持っている心の色とは対照的だった。雲一つなく澄み渡った空が広がり、その眼下には様々な建物が敷き詰められている。 地上の喧騒は聞こえない、自分一人だけの空間がここにはあった。瑠華はここに立っている時、何を考えていたのだろうか。少なくとも楽しいことではなかったと思う。何があったのかはわからない。ただ悲しみの痕跡と、やるせない現実の残り香があった。

燈莉

どうして、こんなことになったんだよ

 地面に膝をついてその場にうなだれ、何度も何度もコンクリートの床を握った拳で叩いた。次第に床に血が滲んできたが、その濁った赤い色にさえ苛立ちを覚える。そして自分が生きていることが、大事な人達に対する冒涜とさえ思ってしまう。
 決して答えを見つけることのできない問題に対しての呟きは、誰に問うでもない。この理不尽な現実への詰問。
 燈莉はいくら考えても無駄だとわかっていたので、静かに立ち上がり、ゆっくりと何かを噛み締めるように歩き出した。十歩ほど歩いたところで、ビルの屋上を囲う柵の前で立ち止まる。瑠華はこの柵をまたぎ、飛び降りた。そこまでさせる思いを胸に秘めて。
 みんなそうだ。何も言わずに突然一人で行ってしまう。残された者の悲しみをぶつける場所は、どこにもない。
 しかし自分も人のことは言えない。弱い人間だ。分かってはいるけれど、すべてのしがらみから解放されるのであれば、これでいい。燈莉は柵を握り締め、重い足に力を込めた。しかし思うように足が動かない。小刻みに震えて恐怖に慄いている。自ら望んで死を選ぼうとしているのに、体はそれを拒否していることが妙に滑稽だった。

燈莉

は、ははっ……くくっ。なんなんだろう。馬鹿みたいだな。ほんとに、かっこ悪いな

 張り詰めた糸が切れるとはこういうことなのだろうか。言葉を発した瞬間、意識が黒い塊に吸い込まれるような感覚と、ひどい酩酊感が体中を支配した。
 足元がふわふわとして地につかない。まるで空気を詰めたゴムの床の上に立っているようで気持ちが悪かった。それでも何故か勢いよく柵を超えることができた。恐怖はなかった。これであと一歩踏み出せば、自分の目的が達成される。

燈莉

ごめんな。瑠華、親父

迷いは元々なかった。ここに来た時点で結果は決まっていたのだから。これが正しい選択なのかと問われたら、首を縦に振ることはできない。しかし道徳的に間違っていると説き伏せられたとしても、自分の決めた最善を選ぶのは罪なことだろうか。
 燈莉は思いを巡らせながら、人生最後の一歩を踏み出す。その時、背後から叫ぶ声が聞こえた。

 スタジオの後は、いつもこのファミリーレストランで打ち合わせが始まる。燈莉は座り慣れた奥の席を陣取り、足元にギターケースを置いた。このタイミングで肩を揉みながら一息つくのが癖だった。

瑠華

あのさあ、おじんくさいよ燈莉は

 呆れた口調で隣に座る少女は瑠華。彼女は小柄で華奢だが、放つ言葉は外見に対してあまり似つかわしくない。まあ、愛嬌がない訳ではないので、刺がある言葉を発しても、そんなに嫌味な感じにはならない。それを自分で理解しているのなら、また話は変わってくるが。

燈莉

いや、色々苦労があるんだよ。これでもな

瑠華

ほらまた。何もない癖にすぐそうやって理由をつけようとするし

 瑠華は肩をすくめてもう一つ呆れた顔をする。いつもの儀礼的なやりとりが終わると、軽くウェーブのかかった髪を手櫛で整え、軽く伸びをして椅子に腰を掛け直した。艶やかな髪はゆっくりと柔らかく空を舞う。容姿に関しては、可愛らしいという言葉が本当に似合う。しかし瑠華は外見には似合わず天才的なギターの腕前を持つ。殊にヘビーメタルにおいては卓越された技術があり、燈莉も初めて瑠華の演奏を聴いた時、胸が熱くなった。
 瑠華は幼少の頃からクラシックギターをやっていて、その頃から天才少女と一目置かれていたらしい。どういった経緯でヘビーメタルをやるようになったのかは燈莉も知らなかったが、意外だとは思わなかった。ヘビーメタルにもジャンルが色々あり、瑠華が傾倒しているのはシンフォニックなメタル。つまりクラシック音楽に通ずる要素を含んだものである。荘厳華麗で練りこまれた曲は、聴いていて心に染み入ってくる。瑠華を含め、ここにいる全員が虜になってしまうのは、それだけ魅力的だということだ。

燈莉

相変わらずあたりがきついぞ瑠華。おじんはないよ、おじんは。生きている時間は、お前と一緒くらいなのに

瑠華

ええ、時間は誰にでも平等よ。でも私は限りある時間を意識して、一秒一秒を大事に生きていて、燈莉とはその質も重みも違うんだから

燈莉

ということは、より濃密な時間を過ごす瑠華の方がおばさ……

瑠華

私の方が、なに?

 瑠華の刃物のように鋭い言葉が突き刺さる。こうなると屁理屈をこねることはできない。燈莉はいつも通り観念して白旗を揚げた。

燈莉

いや、なんでもないよ。それより瑠華はギターを弾いていても疲れないのか? 俺よりも体は小さいし、ギターだって俺のより大分重たいのに

瑠華

私は小さい頃からずっと弾いてるから問題ないわ。確かにクラシックギターは座りながら演奏するから、立つ必要があるエレキギターを演奏する時は肩が痛かったけどね

天羽

いつもながら思うのですが、二人共ものすごく活力に満ち溢れてて熱いのです。羨ましいですよ

 柔らかい眼差しでそう言ったのは、燈莉と瑠華の向かいに座る天羽。年齢は燈莉や瑠華と一つ下の十五歳。しかし天羽はその年齢差以上に幼く見える。瑠華より更に頭一つ小さいそのサイズ感も要因ではあるが、加えて顔自体が基本的に幼かった。今はキャスケットを深めに被っているのでわかりにくいが、トーンを抑えた金髪のショートボブが若さに拍車をかけている。
 こんな小さな体に対して、燈莉や瑠華のギターよりも一回り大きなベースを悠々と演奏する姿のギャップが、一部の人間から絶大な支持を得ている。

瑠華

羨ましいんだったら代わってあげようか天羽ちゃん。疲れるだけかも知れないよ

 瑠華のぼやきを聞き流し、天羽は持グラスに入れたメロンソーダをすすって一息ついた。そして大きな欠伸。少し涙目になっている。

天羽

あれですよ。喧嘩するほど仲が良いというやつですよ

 間の抜けた声で的を射た答えを返すと、またストローを咥えてメロンソーダをすすり始めた。天羽はいつもこの緑色の液体を飲んでいる。そんなにメロンソーダが好きなのだろうか。

都流樹

お前はよくもまあ飽きないよな。メロンソーダ以外を飲みたくなることもあるだろうに

 天羽の隣に座る都流樹が、呆れた顔で言った。都流樹はこのバンドの中でも最年長で、今年は大学の三回生になる。就職氷河期の昨今、この時期になると会社説明会巡りをしている者も少なくはない。しかし都流樹は就職に関して無頓着だった。
 都流樹はこのバンドの中でも身長が頭一つ抜けており、体格も体育会のそれである。その体から時には豪快な、そして時には繊細なリズムをドラムで奏でる。

天羽

とる兄はメロンソーダの良さが、全くもってわかってない。これは至高の飲み物なのですよ。この奇妙キテレツな緑の着色料。口に含むと薬品くさい謎のメロン風味。とる兄には十年は早いかもしれないですね

 天羽だけは都流樹のことをとる兄と呼ぶ。幼いことからお互いの家が近く、よく都流樹に世話になっていた為、二人は兄妹のような関係だったからだ。
 燈莉がそのやり取りの間に入る。

燈莉

都流樹さん。天羽ちゃんからメロンソーダを取り上げたりするとどうなるんですかね

 話を盛り上げようと冗談混じりに言う燈莉に、真剣な顔で取り上げた都流樹が答える。

都流樹

それは、やめておいた方が賢明だな。ただじゃ済まない。噛まれるぞ

 天羽の方に目をやると、敵意を感じたのか眉間にしわを寄せ、今にも噛み付いてきそうなオーラを醸し出している。
 温厚なイメージしかなかったので、燈莉は少しびっくりしてしまった。しかしメロンソーダの何がそうさせるのだろうか。人には様々な癖や嗜好があるので、ここはあえて深く追求しないでおくことにした。

天羽

私はですね、メロンソーダに深く重たい過去があるのですよ。あれは三年前。最後に母の顔を見た、横殴りの強い雨が降る日のことでした。出かける母を玄関で見送り……

 天羽はそこまで言うと黙り込んだ。瞳が次第に潤んできて、肩を震わせながら泣き出してしまった。ポロポロと大粒の涙がこぼれる。

天羽

あの時、無理やりにでもわたしが止めておけば。あんな、あんなことにはならなかったのに……うぅっ。ひっく……

 燈莉はその状況にあたふたとするばかりで、何もできなかった。都流樹は横でフォローを入れる訳でもなく、ただにやにやしている。

都流樹

メロンソーダから悲哀に満ちたストーリー創造するお前には感銘を受けるが、そのうち狼少年みたいに悲しい結末になっても知らんぞ

 そう言って都流樹は両手を何かを鷲掴むような形にして、ガオーと茶化している。

天羽

あ~あ。そんなことをいって水をさしたらだめですよ~。せっかく単純な、じゃなくて素直で清い心を持つ燈莉をおちょくっていたのに

 天羽は唇を尖らせ、グラスの中の氷をストローでつまらなそうにつついている。すでに涙も拭われていて、痕跡は何もない。すぐに動揺する自分も自分だが、そんな悪戯をする天羽も、あまりレベルは変わらない。可愛らしいものだ。

天羽

元はといえば、燈莉が私に悪戯をしようとしたからですよ。るか~助けてください。明らかに常人とは違う色をした目で、そしていやらしい目で私を視姦してくるのですよ~

燈莉

天羽ちゃん……俺を卑猥な下心にまみれた変態設定にしないでくれるか

 瑠華が言い合いをしている二人の方を向き、鼻で笑う。

瑠華

卑猥な下心にまみれた変態を、卑猥な下心にまみれた変態と呼ぶ天羽ちゃんは、何も間違っていないと思うけど

 瑠華のキレッキレの言葉に大笑いする都流樹。

都流樹

瑠華。この草食系のなよなよした男達の多いこのご時世、がっつく肉食系男子な燈莉は素晴らしいと思うぞ。いいじゃないか、人類の繁栄を想う変態な燈莉よ

燈莉

都流樹さん。それ全くフォローになってないですよ。それより打ち合わせ何にも進んでないですよね。聖夜に次の練習伝えないといけないし、それだけでも決めてしまいましょうよ

 聖夜の担当はキーボード。今日は予定が合わず練習には不参加だった。全員そろっていないこともあってか、今日はほとんど雑談ばかりになってしまっている。

瑠華

とりあえず次の日程だけでも決めておきましょうか

 瑠華がその場を取り仕切り、全員のスケジュールをまとめる。基本的にみんな自由な感じなので、こういう時はいつも彼女が指揮をとる。瑠華がいなければこのバンドはどうにもこうにもまとまらない。

瑠華

じゃあ予定は決まったわね。帰りに聖夜の家に寄って、私から伝えておくから

 程なくして今日は解散する流れになり、それぞれが帰路につく。燈莉と瑠華は帰り道が途中まで一緒だった。その道すがら聖夜の家を通るので立ち寄っていくことにした。

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