聞いたことがない、と言おうとして竜也は口を止めた。確かにその名前の知り合いはいない。だが、樋山、という苗字を竜也は知っている。おそらく竜也が通っていた学校でその名を知らない者はいないだろう。
いや、そんな名前は……
聞いたことがない、と言おうとして竜也は口を止めた。確かにその名前の知り合いはいない。だが、樋山、という苗字を竜也は知っている。おそらく竜也が通っていた学校でその名を知らない者はいないだろう。
友達のいない竜也ですらその噂は有名だった。新聞の過去紙面を調べてみて噂が本当であることも知っている。
理事長。うちの学校の理事長の娘か
そうだ。私は向こうの世界では
もう三年も植物人間状態で、お抱えの病院にいるって話だ
竜也の通っていた高校、興誠学園は地域では知られた資産家、樋山誠一郎が道楽と社会貢献を兼ねて創設した初等部から大学までを一所に集めた巨大学園施設だ。そのせいで大都市の隣にある小さな町が合併されつつもその名前を残しているとすら言われている。
その二人の娘、陽子と影子のうち、妹の方。つまり目の前にいるシェイドは三年前に交通事故に遭い意識不明の重体。回復の見込みは限りなく薄いと言われつつも目を覚まさないまま今も一般人は立ち入れない病院の一室で治療を受けている、というのが、学園中では知られた噂だった。
まぁ、私がここにいるということは私の父はまだ諦めるつもりもないのだろうな
いい父親じゃねぇか
自分が同じように意識不明のまま病院に寝かされているとして両親はどのくらい辛抱が持つだろうか、と考えると身震いがする。確執があるわけでもないが、両親は仕事の忙しさゆえに竜也とはすれ違いが多かった。いてもいなくても同じ。そのくらいに思っていても不思議じゃない、と竜也は思っている。
それにしたってなんで審理延長なんてやってるんだ? 仕事の手伝いまでして
死神になりたいのならその道が開かれていることはイグニスから聞いた。わざわざ審理中ということにして人間として残ってやる理由もないはずだ。
タナシアが勝手に延長しているんだ。私も面倒見てやろうと思ってな
まて、全然話が繋がってないぞ
そう焦るな。まだ後一週間はここにいるんだろう?
確かにその通りだが、喉を鳴らして笑うシェイドを見ていると少し後悔したくなってくる。これからいったいどんなことが待っているというのか。
ひとしきり笑った後、シェイドは悪い、と息を整えると、ようやく竜也を呼び出した理由を話し始めた。
私が命を落としたのは三年前。小さな命を救うためにこの身を……
回りくどいな。トラックに轢かれそうになった子猫を助けたんだろ? 新聞で読んだぞ
なんだ、せっかく叙情的に語ってやろうと思ったのに
ふぅ、と溜息をついてシェイドは足を組みなおした。竜也もやれやれと頬を掻く。この話は長くなりそうだ。
それからお前と同じようにここに連れてこられた。その時には既にタナシアはあの状態だったな
三年も前からか
あいつらにとっては三年なんて短い時間だからな
人間にとって三年といえば、ずいぶんと長い時間だ。年齢が若ければさらに長く感じるだろう。その長さも数百年を超える年月を生きている死神たちにとっては一瞬の時間でしかないのだろう。
タナシアの対応はお前も知っているとおりだ。一週間後に私を殺すと宣言して部屋に引き篭もっていた。その態度があまりにも気に障ってな
どうしたんだ?
叫んだ
はぁ?
竜也と当時のシェイドが同じ状況だったとしたらあの中庭からタナシアの部屋までは数百メートルはあるはずだ。確かに聞こえなくはないだろうが、それにしても無駄に思えるほど途方もないことだ。実際竜也は考えるのを諦めて、一人のときはぼんやりしていることが多かった。
少しばかり説教をしてやったら二日くらいしたあたりだったか、こっちにやってきてな
ずっと叫んでたのかよ
何度か運動した帰りを見かけたり、今もトレードマークのごとく巻かれている両手のバンテージから根っからの体育会系だとはうすうす感じていたが、ここまで力押しで物事を進められるなら呆れを通り越して感心してしまう。
なんか面白い、と言い出してな。お前と同じように結界を解除してそれから説教の片手間にフィニーの補助をしてやっていたんだ
俺と同じだな。面白い、ってのが何なのかわからないが
私も詳しいことは知らないが、自分の命を粗末にしているやつの方が好みらしい
もっと言い方があるだろ
タナシアが竜也に対して面白いという言葉を使ったのは、自分の生死を握っているタナシアに対して啖呵を切ったときだった。泣き喚き、怒り、助けを請うかあるいは靴も舐める覚悟で懇願するような相手に怒りをぶつけたときに彼女は初めて笑った。
タナシアの性格からして命乞いとかは嫌いそうだな、確かに
竜也はタナシアのいつもの不機嫌そうな顔を思い浮かべてみる。自分の思い通りにならないと機嫌が悪くなるくせに、思い通りに動こうとする相手も嫌う。
フィニーは扱いを心得ていて自由だし、キスターもイグニスもタナシアの言うことを聞くはずがない。そしてシェイドに竜也。彼女と深く関わる者は彼女にとって不自由だからこそ価値があるのかもしれない。
それで、先輩ってわけか
そうだ。だから忠告しておこうと思ってな
眉根を寄せた竜也に不敵に笑ってシェイドは続ける。
あまり気に入られすぎるとこうしてここに縛り付けられるぞ
それは……
もう一度目の審理延長は受理されているはずだ。竜也はまだここに残るか決めかねている。そもそもの決定権はタナシアが持っているとはいえ、自分の気持ちに整理をつけられないでいる。帰りたいのならば、少なくとも彼女にはそれを伝えなくてはならない。
私は今の生活にもそれなりに満足はしているが、昔が恋しくなることもなくはないぞ
そう言ってシェイドは部屋の天井を見上げた。
自分の住んでいた部屋に似せて造ってあるとフィニーが言っていた。特別気にした様子もなくここでの生活を楽しんでいるように見えていたが、実のところは満たされているわけではないらしい。
元の生活か、と竜也はシェイドに倣って天井を見上げてみる。中流家庭に育った竜也にはこの部屋はあまりにも生活レベルが違いすぎるが、よくよく見るとタナシアやフィニーの部屋と比べてリアリティがあった。
例えば枕元にある小物が置ける小さなスタンド付きテーブル、何も入っていない空っぽのゴミ箱、趣を壊さないように隠されたコンセント。
どれもきっとこの世界では使われることのない代物だが、それを配置しているのはシェイド自身が人間の生活から離れられていないということでもある。
あの二人の部屋は人間のものを模しただけであるのに対して、この部屋だけはそのまま住めと言われても違和感なく入り込めるくらいの安心感がある。人間が住んでいる部屋なのだ。
人間の生活、か
どうした、少しは恋しくなったか?
いや、なんだか余計にわからなくなったよ
タナシアに、誰かに勉強を教えるなんて生きていた頃には何度か考えたことはあっても実際にやったことはなかった。こうして誰かの部屋に遊びに行って何か助言を受けることもなかった。こちらに来てからの方がよっぽど人間のような、竜也が思い描いていた人間のような生活をしていると思える。
だが、それはあくまでような生活なのだ。周りにいるのは死神で、今いる場所も人の世にはない何かで形成されている。人形遊びのように、あるいは演劇のように人の真似をして過ごしているだけだ。
私は帰ることができなかったからな。お前は後悔するなよ
まだ、帰れるかもしれないだろ
諦めたような口調のシェイドを諌めるように零す。シェイドの体はまだ人間界で治療を受け続けている。それならばタナシアの言葉一つで戻ることも出来るはずだ。
そうだ、そうに決まってる
そう思っていないと竜也自身が折れてしまいそうで、もう一度呟く。
その言葉をシェイドは聞いていなかったように答えない。
それじゃ、私の思い出話はここまでだ。少しは参考になったか?
あぁ、そうだな
大きく息を吐いて、竜也は深く体を沈めていたソファから立ち上がる。振り返って出て行こうとする竜也の背をシェイドは無言で見送った。
中庭に戻ってきて竜也は倒れこむようにベッドに沈み込んだ。もうこの柔らかさにも慣れてきて、自分が生きていた頃のベッドと同じくらいに落ち着ける。
元の世界に、か
シェイドの言葉を聞いてまだ、竜也は答えを出せないでいる。
ねぇ、ここわかんないんだけど
視界に差し出された英語の短文をぼんやりと見つめたまま、竜也は昨日のことを考え続けていた。教科書がテーブルに叩きつけられる音がだんだんと強くなっていく。何度目かわからない大きな音で竜也はようやくはっとした。
どうしたの? 昨日までは立場逆転とばかりに偉そうだったじゃない
そんなことないだろ
どうかしらね
タナシアの嫌味にもいい返しが浮かばない。真正面に座って教科書をこちらに向けたタナシアの姿を真っ直ぐに見てみるが、だからといって何が変わるわけでもなくただ不思議そうにこちらに首を傾げる少女の姿があるだけだ。
私のことが怖くなった?
タナシアの問いかけに竜也はないはずの体を強張らせる。その小さな反応もタナシアの目にはしっかりと映ったようだった。
ふーん、それで急に威勢がなくなったってわけ。わかりやすいわね
だからそんなことないって言ってるだろ
強がって見せた竜也の言葉など聞こえないというようにタナシアはわざとらしく首を振る。ここ数日厳しくしすぎたか、と後悔したところで竜也にできることはない。
そうね、別に私はずっとアンタをここに縛り付けててもいいんだけど
にやりと何かを思いついたようにタナシアが顔を歪める。
次の試験でちょっと私の手伝いをしてくれるっていうなら考えてあげなくもないわよ
人の命を天秤の片側に乗せておいて反対側に乗せるものはあまりにも軽い。カンニング一つで命が助かるというのなら普通の人間なら喜んで飛びつくことだろう。
別に命が惜しくて悩んでるわけじゃない
へぇ、強がりね
それと、ここの問題。昨日やったやつと同じ構文だぞ。いい加減覚えろよ
何よ、急に。意外と元気じゃない。心配して損したわ
嘘をつけ、と悪態をつきたくなるのを堪えて竜也はまたノートに視線を落としたタナシアを見た。竜也の反応が思った以上に冷静だったせいか、からかいにとっくに飽きてまた問題とにらめっこしたまま手を止めている。
その態度に竜也はぞっとした。
彼女にとって人間の命なんてその程度のものなのだ、という考えが脳裏に浮かぶ。
カンニングの対価として差し出してやれるようなもの。それは竜也の感覚からすればあまりにも軽い。
もう本当になんなの? 調子狂うじゃない
なんでもない。お前がバカだなって思ってただけだ
まともに教えることも出来ないくせに言うだけ言わないでよ。この鬼、悪魔!
死神がそんなこと言えるか
投げつけられた消しゴムを顔で受けながら竜也は口喧嘩をやめようとはしない。自分の選択は未だに決まらないままでも、この関係、この瞬間は嫌いではない。