しんしんと冷えた、夜の部屋の空気が揺れた。
サロンの壁にしつらえられた薄暗いガスランプの炎が
仄かにまたたき、私はふと書きものの手を止めた。

フランツ様、お先に失礼します

静かな彼女の声が、空っぽの空間に響いた。
少しの沈黙の後、私の返事がないのを知ると、
ベラは静かに一礼して音も無く重い扉を閉めた。
再び静寂に包まれた、だだっ広い部屋の薄闇に
身をうずめたまま、私は一人ため息をついた。
彼女が淹れてくれた卓上のコーヒーもいつの間にか
すっかり冷め切ってしまい、なみなみと注がれた
琥珀色の鏡面が、今はただ黒い闇と、私の
後悔のない混ざった苦い顔を映し込んでいる。

彼女の帰る先は、温かいベッドのある協会員用の
私室ではない。
ホールから別に設置されたエレベータを降りた先、
はるか地階に造られた自動人形専用の収容施設、
通称[安置所]である。
ハンターとしての通常任務を終えた彼女は、そこで
魔術師協会の一備品として専属の整備師たちの
点検・調整を受け、次に必要とされるまで、冷たい
鉄の寝台付きケースの内に収納されて眠りにつく。

一度[安置所]なるものの様子を見る機会があったが、
さまざまな機械類に囲まれた空間と、電線やパイプの
這いつたう無機質な灰色の壁に埋め込まれた、
ナンバリングされた鉄のロッカーが通路の端まで並ぶ
さまは、どこか薄ら寒く非人間的で、そこにいた私の
心をひどく掻き乱した。

一言で言えば、私はその場所が大嫌いだった。

返事くらいしてあげたら?

私は驚き、振り向いた。私のほかに、この部屋に
誰か居るとは思わなかったからだ。いつから居たの
だろうか、少し離れたソファの後ろの壁際に、闇に
紛れて濃紺のドレスをまとった少女が、壁にもたれ
ながらこちらを見つめていた。

ヤナ主術官‥

ここ、東方魔術師協会直属の保安特務機関<力の剣>の
実力者であり、私の上司でもある自動人形の彼女は、
いつもの物憂げな表情で豪奢な金髪を軽くかきあげ
ながら言った。

未だに吹っ切れてないのかな、新人くんは。そんな調子じゃ、明日の最終選考試験もまたダメかもね

ずけずけとした物言いが私の心に刺さったが、人を
くさすような毒を含んだ口調ではない。これは、この人
なりの表現方法なのだと知っていた。

いえ、明日こそは必ず。術官の面目は潰せません

私の顔なんてどうでもいいのよ、バカね。あんた能力だけは高いんだから、さっさとハンターとして一人前になって色々こなしてくれないと困るの。
ウチはただでさえ人手不足なのよ?

は‥

もっともな言葉に、ただ恐縮するしかない。

いい機会だわ。何のために魔導師をやめて、この組織に入ったのか、もう一度思い出してごらんなさい?

彼女の猫のような翠の瞳が、暗闇の中で不意に
宝石のように光った。

悪意ある吸血鬼の襲撃で、魔術師の恩師とパートナーの
両方をいっぺんに失った私は、数週間の治療生活ののち
魔術師協会上部に働きかけ、直々に転属願いを出した。

あるいは、気が触れたと思われたかもしれない。
今まで何年も恩師と共に進めてきた魔術研究の一切を
放棄し、いわば暴力専門の保安部門に身をおこうと
いうのだ。実際、心ある友人たちからは心配され、
それ以上に周囲から冷笑された。ぬくぬくと机上の術式
いじりだけで暮らしてきた生白い学究員風情に、一体
何が出来るのかと。

私を突き動かしたのは、吸血鬼を憎み、止め処なく
湧き上がる猛烈な復讐心であった。

第一話 深夜

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