僕の母が殺されて九年が経った。
 と言ってみたけれど、特にこみ上げてくるものがない。僕にとって新しい情報なわけでもないから仕方ない。だから、強いて思い浮かぶものと言えば

ふぅむ

とか

そっか

みたいな、伊瀬と話しているときに九割がた僕が発している音だったりする。
 そんな思考で先生の話を上書きしていると、放課後を示すチャイムが鳴った。
 それを合図に教室の皆が散る。全員が全員、漏れなくそれぞれの部活に馳せ参じるわけだ。僕が行っていないから矛盾してるけど。
 この学校は部活動が強制なので皆所属している。多方面に手が広がっていて、楽勝な部活も数多くある。例えばゲーム部とか。なんだよゲーム部って、だらける気まんまんじゃねえか。どうせ部でやるなら大会ぐらい出ろって。
 なんて文句を垂れる筋合いは、幽霊部員である僕にはない。
 それにしても冷える。十一月とも言えども、仙台は凍てつく極寒である。雪とか降るし。山梨では一月の終わりに降るか降らないかぐらいなんだけどなぁ。

……帰りますか

 ですね、と自ら相槌を打って立ち上がり、直方体の学生鞄に教科書類をごっそごっそとお引越しさせていると、
 教室前方扉、そこに手をかけながら覗いている一人の中年男性に気付いた。というか目が合った。何故か反射的に逸らしてしまう。別に目が合ってもバトルを申し込まれるようなことはないんだけど。
 人と目を合わせることは僕には不可能だったりする。がんばればできるから矛盾してるけど。
 よし、気付かなかったという方向性で行こう! 無理だ。

日向井(ひむかい)、今日も演劇部行かないのか?

 僕の担任が話しかけてくる。

行かないですよ

 僕はぼんやりと先生の顔を見やる。担任であり演劇部の顧問でもある仁人(じんと)先生はいつものようにふんわりと微笑んでいる。その笑顔の効果によって、『今日も部活行かないのか?』の副音声である『今日は部活行けよ?』の力が弱まり、単なる世間話に聞こえなくもない。

そうか、用事があるのか?

 帰ってテレビを見るのはおそらく先生の言う用事には入らないだろう。

………ないですね

 であるからにして正直に告白。ちなみに悪びれてはいない。開き直りが僕の人生のモットーですから。今決めた。

じゃあ行こうよー。それとも何か行きたくない理由でも?

ないですよ。心配しないでください

 いや、まぁ本当はちょっとあるんだけどね。

そうか。……最近、学校生活の方はどうだ?

順風満帆、青春謳歌ですね。毎日が楽しくて仕方ないです

 僕は先生の心配の種を減らすために微笑んで答える。

その作り笑顔、先生には通用しないぞ?

 その間、なおも先生は笑顔。多少眉を下げるだけである。なにこの人、イケメン。

今、演劇部で常に笑顔の役が割り当てられてしまいまして。練習中なんです

 先生の笑顔兼困り顔(矛盾している)が崩れないあたり、ただの虚偽だとばれてしまったようだ。まぁ、今の演劇部の人数じゃ実質演劇活動をしていないことくらい一目瞭然なので仕方ない。

お前は、本当、心配になるなぁ……

 先生が少し真面目な顔つきになる。ふむ、どんな表情でもかっこいいな。
 仁人先生。
 顔がなかなかに良いため、女子からの人気が高い。そして親身に対応してくれるので男子からの人気も高い。つまるところ、非常に皆に好かれている。僕も先生の苗字以外は特に嫌いではないし。

何がそんなに心配なんですか?

……ほら、日向井って転入してきてから一か月くらい経つでしょ? でも、友達関係とかよろしくないんじゃないのかなーって

いやぁ、友達ですか

 別にいないわけじゃないけど。僕は、自分で自分は割かし普通の奴だと思っているし。浮いてないよ。たぶん。

確かに何人かと仲良くなったみたいだね。でも……最近は一緒にいるとこ見ないなー。喧嘩でもしたの?

あー、してないですよ。全く

……そうか、ならいいんだけど。でも日向井があまりクラスに馴染めてないのも事実でしょ? 先生それがちょっと気になって……

 責任感が強い人だ。教師に向いている。それと同時に精神を壊しやすい現代日本人の鏡だ。と上から目線で評してみた。えっへん。

でも日向井、伊瀬とは気兼ねなく話せるみたいじゃないか

――えっと

 急に伊瀬とか名前出すの止めてくださいびっくりします。
 このまま話を進行すると、演劇部に行かなきゃならない未来が見えたので、無理矢理に話題のベクトルを変換してみる。

ところで先生、最近風邪流行ってますね

 うわあ、自分でも引くレベルで無理矢理だ。
 それでも仁を備えた人であるところの仁人先生は、少し驚いたように笑みを浮かべて普通に受け答えしてくれる。何この人、聖人かよ。

そうだな日向井も一週間のうち半分くらい休んでるし、大丈夫か?

僕は全然大丈夫です。それに、僕と同じくらい休んでいるやついるじゃないですか

伊瀬も、確かにな。心配になる

ですよねー、すごく心配です

あれ? なんでこんな話になったんだっけ? ……とにかく部――

あ、そういえば先生。最近、連続放火事件が話題になってますけど、怖いですね

え? あぁ、うん。そうだねぇ、その放火犯のせいで部活動の時間短縮で下校時間早める羽目になったしね。早くなんとかなるといいね

ですね

 ……えっと、うーんと、

で、日向井。今は演劇部員が日向井と伊瀬しかいないんだし、気晴らしになるから行った方が良いと思うな

 スピード負けか。今度からは話題を常に十個ストックしておこう、きっと将来の合コンでも役に立つ。バランス取りづらいから合コンなんて絶対行かないだろうが。

分かりました、行きますよ

 なーんて。
 どうせ僕が部活に行ったかどうかなんて先生には分から――

後で伊瀬に確認するからなー、ちゃんと行くように

………………………………………………………

 しかたあるまじ。今日のところはおとなしく部活に行くとしよう。
 僕が移動を開始すると、仁人先生は再び口を開く。

あ、そうそう。伊瀬のこと、どう思ってるんだ?

 ぴくりと体全体が反応し、僕に移動を中止させる。どんな質問だよ。

いや、普通ですけど

 先生はその答えを聞くと、安心したように優しく微笑む。

そうか。伊瀬のこと、頼んだぞ

 なにそれ、先生今から死ぬんですか。
 僕は先生の遺言もどきを適当に流して、部室に向かう。
 それにしても、気が進まないけど。

 三という数字は、人間の心を動かす数字らしい。三度目の正直とか、二度ある事は三度あるとか、仏の顔も三度までとか。一から二よりも、二から三の変化の方が人々の心を動かす。
 昔テレビで見たのだが、三は人々に確信を生ませる数字でもあるらしい。灯油缶を買いにコンビニに行き、たまたま品切れで売っていなかった。こういうことが三回続くと、無意識に

あそこのコンビニには灯油缶は置いていない

と思い込んでしまうとか。ふむ、ちなみにこれは実体験だね。
 そして、今、街で起こっている事もどうやらその例に漏れなく当てはまっちゃったらしくて。
 昨日、この仙台市で三件目の放火事件が起きた。
 途端に、報道は『連続放火事件』と報じるようになった。今までは『放火事件』だったのに。
 教室棟から西棟に移動し、二階の一室、演劇部と札が下がっている教室の前に佇みながらそんな思考をだらだらとだらしなく溢れ出させる。
 僕の部活出席回数はとっくに『連続さぼり事件』になっているはずなのだが、彼女、伊瀬はなおも僕が来ることを期待しているようだった。昼休みに毎回釘刺されるし。

…………

 部室の扉を見つめながら出来事に思いを馳せる。
 一度連続になってしまえば、誰かが終わらせないとその一連の行為は終わらない、と思う。連続でするということはそれだけの信念や熱中やらがあるわけで。それを覆し自分で終わらせるというのはなかなかに難しい。
 だから、止めてくれる他人が必要だ。
 ……そんな他人がいなかったらどうしたらいいんだろう。うーん、分からず。
 なんて哲学ぶっていつまでも考えているわけにはいかない。ここに突っ立ってても何も解決しないし、誰かに見つかったら変な誤解を招きそうだし……。
 僕は一息ついてからポケットから手を出し、ノックをしないでそのままドアを開けた。

ちーっす

 不機嫌ヤンキー風。牽制はうまく伝わっただろうか。
 中の教室は、普通の教室よりも長く、一・五倍程の大きさがある。後ろに二十程の椅子と机が集められていて、前には黒板、そして真ん中に机を二つ正面にくっつけてある空間が存在する。腕相撲大会でも開くのかな。
 しかし、その一つの椅子に明らかにスポ根と縁がなさそうな、か細い少女がいるので違うのだろう。その少女は開いた本から視線を僕に移して表情を明るくしている。
 腕相撲したら骨折しちゃうんじゃないかな、彼女。良くて腱鞘炎。何故腱鞘炎になるかって? ほほう、知りたいかい? よし、僕が説明してあげよう。せっかくの機会だしね。まず、腕

あ、かーなん!

 彼女の掛け声で現実逃避終了。

部室で会うのは久しぶりだね、伊瀬

 ポケットに手を突っ込みながら不必要なドヤ顔で彼女を改めて観察してみる。
 トリートメントがしっかり施されたであろう漆黒の髪は、自身が有機物であることを主張するようにしなやかに生き生きとしている。ポニーテールのせいもあるのだろうか、彼女が動くたびに毛先の艶が強調され、彼女の黒い瞳に似合っている。

何かっこつけて言ってるのー! 来なかったのはかーなんでしょ!

 どうやらお怒りのようだ。僕の首が絞められていないので、怒り(小)くらいだと予想する。

いや、ごめんね。何かと用事があって

用事? 何があったの?

家でテレビ見る用事

 なんとなく、仁人先生には通用しない言い訳も伊瀬には通用するような気がした。

なにそれー! ただのさぼりじゃん! サボタージュ! 怠惰!

 彼女は同じ情報を伝えるのにも三倍喋る。どんだけ効率悪いんだよ。しかも微妙に仲間はずれが存在するし。ちなみにサボタージュが仲間外れ。

まぁでも……今日来てくれたから許す!

 なぜ胸を張る。……張る胸もない様子だが。

ありがとうございます

 僕は軽く頭を垂れてから彼女の正面の椅子に座り、鞄を机の横にかける。
 彼女は本に栞を挟んで閉じて机の上に置き、僕の顔の鑑賞に入った。

…………………………

 ぴょこんとしたポニーテールにふんわりとした笑顔でじっとり僕を見つめ続ける、伊瀬。
 僕はその甘い視線をひしひしと感じながらも知らない振りを決め込んでいると、冷や汗がこめかみを通過した。

さて、じゃあ部活動でもするか

 エアブレイカーである僕が背景にピンクのお花が咲き始めた空間を粉砕して、背もたれに寄りかかりながら部活動の開始を宣言すると、

え? もうしてるよー。楽しい楽しい部活動中だよ!

 彼女は目を爛々と輝かせて僕を瞳で説得する。

はて、ここはお喋り部だったかな? 僕は演劇部に用があるんだけど

 交渉決裂。僕は説得に応じず、すくっと立ち上がる。

ちょっ、待ってよかーなん!

 そして座る。その間約二秒。ちょっとしたエクササイズ気分ですよ、奥さん。

演劇部って言ったって二人じゃ何もできないよぉ………

 分かっている。今のはイジワルなんです。えへ。
 この演劇部は一か月半前まで十七名の部員がいた。だからこそ、この中教室が部室として与えられているのである。しかし、一か月半程前、僕が転入してくる少し前に、部員は伊瀬を残して全員辞めてしまった。別に『なんか日向井奏汰(かなた)って転入生が来るらしくて、しかも演劇部に入るらしいよ。うわあ、辞めよう』とかそういうことじゃないと思うし、そうだと信じたい。
 原因は大体分かっている。
 ある生徒の病気が判明した。そのせいで親の間で演劇そのものへの疑問の声が高まり、子供が次々と辞めて行ったのだ。
 普通の状態なら、こうはならなかったと思う。
 今。
 一か月半前から連続放火事件が起こり、三件ともこの高校の生徒関係者の家が放火された今だからこそ、不気味が伝染し、マイナスイメージが付きまとい、連鎖して、演劇部員はいなくなったのだろう。まぁでも、皆は二件がこの学校関係としか思っていないか。

かーなん、どうしたの? ぼうっとして。眠りたいの? 寝たいの? 寝転びたいの?

別にそういうわけじゃないよ

そう、良かった。元気なんだね

それより伊瀬は大丈夫なの? 仁人先生も心配してたよ。よく学校休むって

へ? 私は皆勤だよ!

 あぁ、そうっすか。……そうっすか。

………ねぇ、かーなん

 少し間を開けて僕の名を呼んだ。嫌な予感しかしない。

今日、お父さんが早く帰ってきて家で晩御飯食べれるらしいから鍋になる予定なんだけど、かーなんも来ない?

 さてさて、やってきましたよ。
 だから、僕は演劇部に来たくない。ゴングが鳴る。ばとるすたーと。

あはは。今日はちょっと遠慮しようかな

えー、どうしてー?

 小学生のような不機嫌な声を出す伊瀬。困った。

伊瀬っていつも家族の話してくれるでしょ? 仲良し家族にお邪魔するのは悪いかなって

確かに私は家族大好きだよ! だけどそれとこれとは関係ないし。全然平気! 何ら無問題! 余裕綽々!

 むしろそれとこれが関係しまくってると思うんだけど。ちなみに余裕綽々が仲間外れ。

んー、やっぱり悪いよ。そう言えば伊瀬の家族構成ってどんなんだっけ?

えっと、父に母に……って話逸らさないの! かーなんの悪い癖だよ!

ごめんごめん、でもやっぱりな……

来なってー。私しらたき担当ね! かーなんは焼き豆腐担当で! しらたきもしゃもしゃ!

 これはどうやら鍋の食材を持っていく担当ではなく食べる担当の話らしい。

いやーだって、ね? おかしいでしょ。女子が、家族揃った食卓にクラスの男子を誘うって

 あからさまな問題点を突くことで断る理由の偽装をする。

おかしくないよ? よくお父さんも言うもん。彼氏が出来たら連れてこいって

 ぴくりと指先が反応してしまう。

前にも言ったけど、別に僕と伊瀬は付き合ってないよ?

えー? そうだっけ?

 なんで当人たちが勘違いしているんだ。おかしいだろ。

しらばっくれないの

都合悪いことはすぐに忘れちゃうからよく分からないなー!

 彼女はにやにやしながらしらばっくれを続行する。
 まったく、都合悪い事ばかり忘れようとして。同じこと繰り返して。
 でもそれっていいのかも、精神衛生的には。だからこそ、なんだろうけど。

えーと、じゃあ……

 伊瀬が視線を散らせながら少し俯き、手を太ももの下に収めた。
 来る、来るぞぉ。皆撤退じゃー。

私は日向井奏汰くんのことが好きです。付き合ってください

 鳥肌が立ち、目が潤んでくる。心臓の下あたりの臓器が雑巾のようにしぼられた感覚に陥る。
 彼女は恥ずかしそうに、僕に告白しましたとさ。

ごめんなさい

なんでー!

 告白。これが、僕が演劇部に来たくない最大の理由だった。
 僕は人付き合いが苦手だ。距離の取り方に少し不具合がある。
 人との関係はプラスマイナスゼロにする、が僕のモットーだ。今決めたわけじゃない。
 プラスマイナスは好感度のことだ。人に何か良いことをしたらその分その人に悪いことをして好感度をゼロに戻す。
 人に対して無関心であり、人からも無関心に思われたい僕の生き方だ。
 告白。それは無関心から程遠いものである。うまくバランスが取れずに傾いてしまう。

そもそも僕のこと好きじゃないでしょ?

 彼女はきょとんとした後、右上に視線を動かしながら考える。

そんなことない……と思うけどなー

 告白しといて好きかどうか今いち分からない伊瀬。なんじゃそりゃ。

何を持って僕のこと好きだと思ったの?

えーっと、お喋りすると楽しいし、部活に来てくれると楽しいし、学校でよく一緒にいるし……

伊瀬、それは友達だよ

うぬぬ……そうかも…………

 そうかも、じゃなくてそうなんでしょ。そうだと信じたい。僕は伊瀬と当たり障りのない友達関係を築きたいんだから。

でも、なんか違うような気がするよぉ……

 彼女は難しい顔をして、天井を仰いだ。
 そして、再び僕に向き直って、

ねー、付き合ってよー

 どうしてそうなる。好きかどうか分からないのに付き合うっておかしい。そう僕は学んだ。

付き合うって一人としか出来ないんだよ? 他の友達はいいの?

 と言っても、今の彼女にそんなに友達なんていないだろうが。

一人かぁ……確かに悩むね……。二人と同時に付き合っちゃだめなの?

ダメだよ

なんでー! 好きな人が一人に絞れるわけないじゃん!

そういう決まりなんだよ

 誰かと付き合うということは、他の人を多少ないがしろにするという宣言なのだから。

んー……それじゃ、付き合うのはもう少し考えなくちゃ

 適当に告白しないで欲しい。僕も大変だ。僕は僕に同情する。同情は他人の心になることで僕は僕で自分なので、この言は矛盾している。
 僕が告白された際の対応は相手による……のだろう。自分の行動を見る限り。よく分からないけど。

えーと、じゃあじゃあ、かーなんは私の事、嫌い?

 質問を変える戦法か。
 不安げな表情を浮かべている彼女を僕は一瞥し、答える。

普通

 普通。真ん中。どっちでもいい。どうなろうと知らない。無関心。仲間外れはない。
 告白は断ると好感度が下がるし受け入れると上がる。真ん中を維持するのは結構難しい。

なんでそうやって意地悪するのー? そういうとこ嫌い。好きだけど

 どっちなんだよ。……どっちもなんだろうけど。矛盾しまくって逆に心地よい。

僕は、伊瀬のこと嫌いでも好きでもないんだよ。だったら、普通って答えるのが適切でしょ?

 僕がそう言うと、彼女は少し眉をつり上げて食い下がる。

だってだって、かーなんって結局なんだかんだ演劇部に来てくれるしさ、なんだかんだ私と一緒にお昼ご飯食べてくれるしさ。だから、なんだかんだ私のこと好きなんじゃないの?

普通だよ普通

 即答。もう即答・オブ・ザ・イヤー受賞するくらいの即答。
 胸が喜ぶ、心臓が緊張する、呼吸が焦る、指先が怒る、口の中が悲しむ。
 普通だよ、うん。

恥ずかしがり屋さんなんだなー!

 彼女はにやにやと笑い、椅子からおもむろに立ち上がったと思ったら、両手を広げる。何かを待つように。

……何?

んっ

 さて、これは何の合図であろうか。
 僕はそれを数秒眺めて、彼女が何を待っているかに気が付いた。なんだなんだ、簡単じゃないか。
 僕は思い立って立ち上がる。
 一歩、また一歩と彼女に近づき、
 ぱん。
 少し腕の間隔が広いハイタッチ。小気味良い音が鳴る。いとをかし。
 全く一体全体どうして何故急にハイタッチなど要求してきたのだろうか、理解に苦しむ。

だー! 違うっう、げほっ

 興奮したかと思えば急にむせ始めた。落ち着け落ち着け。ほら僕みたいに。すごく冷静ですよ僕、ええ本当に。めちゃくちゃとってもマジでほんまもん冷静。うわ、なんか内臓が気持ち悪い。
 僕はとりあえず咳き込む彼女の背中をさすることにした。
 何か少しいびつな手触り。ブラの紐が引っかかるのはまぁえろいんだけど、それ以外にぼこぼこする。うぬぬ。
 どういう意図を持ってハグを期待したのだろう。
 ハグ。おそらく、彼女の中での認識では『カップルがする愛情表現の一つ』、それだけの存在なんだろうなぁ。気持ちがからっぽな、単なる擬似的な行為。彼女にとって、ハグはただの皮膚と皮膚の接触に過ぎないのだ。
 はぁ。気が滅入る。人の正直な気持ちに晒されるというのは緊張感が伴うから。
 ……あ、そういえば。結局、彼女の家族構成を聞くことは出来なかったな。知りたかったんだけど。
 僕は、一か月前この土地に戻ってきた。放火事件が起きたことを知って。
 そして容疑者が失踪していることを知って。
 不幸な街仙台があり、不運な人間がいて、無の人が住んでいて、普通の僕が戻ってきた。
 お世話になっていた祖父母からの反対を押し切って、どうして僕は引越して来たのだろうか。
 自分というのは自分が一番分からなかったりする。
 僕の中に心があるから僕は僕を知ろうと思えばいつだって知れる。だけど僕はどんなにがんばっても自分の心は覗けない。矛盾している。
 連続放火事件。それに伴う容疑者の失踪。
 やったのは、伊瀬なんだろうなぁ。
 まぁ、そんなことどっちでもいいんだよ。僕は人に無関心だから。
 この事件に了の字を飾ろうなんて思っていない。
 ……じゃあ、そもそも僕はなんで仙台に戻ってきたのだろうね。知るかそんなこと。人間は感情生物なんだから理屈だけじゃ生きられないんだよ。
 そんな、どこかがぐるりと矛盾した思考を潜ませながら、僕は彼女の背中をさすり続けた。
 

壊れた世界

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