チッ、チッ、チッ……。


 時計の針は、夜の10時を指していた。

香織

尾崎さん。
まだ帰らなくてもいいんですか?


 香織が帰り支度をするために、
デスク上の書類を整理しながら言う。

尾崎

んー……。
いやさ、この間の報告書
早く出せって
課長に怒られちゃってね……


 尾崎が眠そうな眼で、
頭をボリボリと掻きながら気だるく書類をまくった。


 それを聞いた香織が、
少し呆れた様子で席から立ち上がる。

香織

ええっ!
その報告書、
まだ提出して無かったんですか?

尾崎

俺が報告書を溜め込むのは
いつものことだろ?


 悪びれもせずに答える尾崎に、
香織は諦めたようにため息をついた。

香織

コーヒー淹れましょうか?


 尾崎の机を見やりながら、
香織はコーヒーメーカーの前へ行く。

尾崎

いやあ~、香織さんは気が利くなあ!
一杯よろしく!


 香織に自分の惰性を指摘されて罰が悪いのか、
尾崎はそう言っておどけて見せた。


 その子供の様な笑顔に、
香織も小さな笑みを零す。


 そうしてコーヒーを淹れながら、
香織はつい先日の事を思い出していた……。

香織

(たまに尾崎さんと真理子さんって、
夜遅くまで残ってる事があるよね……)


 真理子というのは、
香織よりも先にこの部署にいた女性だ。


 尾崎と真理子はとても息が合っているようで、
まるで親友のようにいつも行動を共にしている。


 二人で食事の約束をしている場面を見た人間もおり、
付き合っているのではないかと噂されているほどだ。


 もっとも、本人たちはそれを否定しているのだが。

香織

(この前も二人で残ってたっけ。
二人きりで何してるんだろう……)


 そう思ったとたん、
香織は自分自身の心の声に赤面した。

香織

(何考えてるんだろう、私。
尾崎さんと真理子さんに限って、
オフィスで変な事するわけ
ないじゃない!)

尾崎

香織さん、どしたの?

香織

きゃっ!


 気づかない内に背後に来ていた尾崎に、
思わず声を上げてしまう。

尾崎

あ、ごめん。
驚かせちゃった?

香織

はい、ちょっと……。
いきなり後ろに
立たないでくださいよ……

尾崎

いやあ……。
コーヒー淹れたままボーッとしてたから、
どうしたのかなって思ってさ

香織

私、ボーッとしてました?

尾崎

うん。
何か遠い目をしてた


 そのまま尾崎は、
香織がコーヒーを淹れたばかりのカップを二つ持って
隅にあるソファーへと向かった。

尾崎

ほら、香織さんもココ。
座りなよ?


 コーヒーカップをテーブルに置き、
ソファーに腰掛けた尾崎が向かい側を指差す。

香織

えっ、でも……。
尾崎さんの報告書は……


 香織の『報告書は書かなくていいんですか?』
という言葉を飲み込ませるかの様に、

尾崎

いいから

と言って、ソファーに座るように促した。


 言われるままにぎこちなく座った香織は、
目の前にあるコーヒーを一口だけ飲む。


 そんな香織を見て、
尾崎が急に真剣な眼差しで香織を見つめた。

尾崎

香織さん……


 香織はその吐息混じりの声に、ドキッとした。

香織

(尾崎さん、急にどうしたの……?
さっきと違って急に真剣な顔になった。
オフィスに二人きりってこと、
急に気になってきたじゃない……)


 あれこれと考えを巡らせていると、
尾崎がおもむろに口を開いた。

尾崎

何か悩み事があるんじゃない?

香織

……え?


 尾崎の唐突な言葉に、香織は目を丸くした。

香織

あ、ありませんけど、別に……

尾崎

そうかなあ。
それならそれで良いんだけど、
香織さんって最近
ボーッとしてる事が多いから

香織

……そうですか?
そんなつもり無いけどなあ

尾崎

ほら、
さっきコーヒーを淹れてた時みたいに、
物思いに耽ってるって言うのかなあ……


 しっかり者の香織にしては、
とても珍しいとでも言わんばかりに
尾崎が首をひねる。

香織

そんなにぼんやりしてましたか、私?
疲れてるのかな


 あはは、と誤魔化すように
香織が乾いた笑いをした。

尾崎

……それに香織さん、
初めて会った頃みたいに
何か言いたげな顔で
俺を見ている時があるから、
すごく気になってたんだよ


 尾崎にそう言われたとたん、香織はハッとした。


 自分は無意識の内に、
そんなにも尾崎を見つめていたのか、と……。

香織

違います!
悩み事なんてありません!
ただ……

尾崎

ただ?


 尾崎が優しい目で、先を促す。

香織

ただ……。
尾崎さんの事が気になって、
自然と目が行っちゃって……


 香織は自分の口から思わず出た言葉に驚き、
慌てて手で覆った。

香織

(いきなり何言ってるんだろう!
尾崎さんに変に思われちゃう!!)


 今すぐこの場から逃げ出したい気持ちになって、
香織は恐る恐る尾崎の表情をうかがった。

尾崎

…………


 思った通りに尾崎は、
鳩が豆鉄砲をくらったような顔で香織を見ている。

尾崎

えーっと……香織さん。
それって、どういう意味かな

香織

あ、あのっ!
変な意味じゃなくて!

尾崎

う、うん

香織

私……。
今まで尾崎さんに一杯助けてもらったから、
いつかは尾崎さんみたいになりたいって
思っていて……

香織

そういう意味で
気になっちゃうんじゃないかな?
と、思います


 それを聞いて納得したのか、
尾崎の顔から驚きの表情が消える。

尾崎

なんだ。
そう言う意味ね、はは……


 そう言うと尾崎はソファーを立ち上がり、
コーヒーを手にしたまま自分の席へと戻った。


 尾崎が肩を落としているように見えるのは、
気のせいだろうか。












 そうしてから二人が仕事に戻り、
どれ程の時間が経っただろう。


 書類の整理を終えた香織が、
何気なく尾崎の方を見ると……。

香織

(尾崎さん、寝てる……?)

尾崎

……すぅ、すぅ


 そこには尾崎が机に突っ伏したまま、
静かな寝息をたてている姿があったのだ。

香織

尾崎さん?
……尾崎さん!


 起こそうと声をかけても、反応が無い。

香織

(ここ最近ずっと、
営業で駆けずり回って、
相当疲れてたみたいだもんな……)


 香織が自分のカーディガンを
そっと尾崎の肩に掛けた。


 そんな多忙な状況においても、
香織の事を心配したりと
自分以外の人間に常に気をかけている……。


 尾崎らしいといえばそうなのだが、
香織にはそれが少し寂しく感じた。

香織

私ってまだ、
尾崎さんから見たら頼りないのかな


 と、思わず独り言を呟いた瞬間に、
尾崎の手が伸びて香織の腕を掴んだ。

香織

尾崎さん……?

尾崎

契約、取りましたぁ~……


 間の抜けた声で尾崎がそう言った。


 起きているのかと思い顔を覗き込むと、
依然として瞼を閉じたまま寝息を立てている。

香織

夢の中まで仕事してるんだ……


 尾崎という人間は、
本当にこの仕事を愛しているのだ。


 改めてそう思うと、
なんだかそれがとても微笑ましく思えてきた。


 愛しい我が子の寝顔を見守るかのように、
香織が尾崎の顔を再び覗きこむと……。

尾崎

うわっ!


 寝惚けた尾崎が、
机の上のコーヒーカップを倒してしまった。


 その衝撃と音に驚き、
目を覚ました尾崎が反射的に顔を上げると……。

尾崎

……んっ?!

香織

んんっ!


 不意に近くにあった香織の唇と、
尾崎の唇とが重なり合ってしまったのだ。


 尾崎と香織は慌てて顔を離し、
お互いに何か声をかけようとした。


 だが、目が合った瞬間に、
ふたりとも言葉を失ってしまった。


 相手の瞳を見つめているだけで、
胸の奥にずっとしまいこんでいたものが
溢れ出しそうになり
何ともいえない気持ちがたかぶってくるのだ。





 身体が硬直して何も言う事が出来ず、
ただそのまま見詰め合っている二人……。


 その時、香織の胸にはこんな言葉が浮かんだ。

香織

(もう一度、キスしたい)

尾崎

…………


 口に出したわけではないのに、
尾崎に自分の気持ちが
伝わってしまったような気がして
香織は赤面をしたまま背中を向ける。

香織

じゃ、じゃあ帰りますね!


 そう言ってコートを取ろうとすると、
その腕を強引につかまれた。

香織

尾崎さ……んっ!

尾崎

…………っ!


 尾崎に強く腰を引き寄せられて、
唇を押し付けられた。


 身を焦がすような強引なキスに
香織は何も考えられなくなってしまい、
コートを床に落とす。





 時計の針は、すでに12時を指していた。


 秒針が動き出すと同時に、
二人の中でも何かが動き出していた。

ヨルノオフィス

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