担任の小林先生は、僕を見上げてため息をついた。七月の暑さに混じって、空気を揺らし、僕の頬を撫でた。
教員数百余名のこの高校は、職員室が他の学校に比べてまあまあ広いと思う。その職員室で、僕は叱られていた。正直ちょっと泣きそう。だって豆腐メンタルだもの。
図書室の鍵が無くなってしまったらしい。
僕はただ目を逸らすことに専念し、後ろで組んだ指で手悪戯をする。
お前は一体何を考えてるんだ。もうちょっとしっかりしろ……頼むから。こっちも鍵がないと困るんだよ。ったく……
担任の小林先生は、僕を見上げてため息をついた。七月の暑さに混じって、空気を揺らし、僕の頬を撫でた。
教員数百余名のこの高校は、職員室が他の学校に比べてまあまあ広いと思う。その職員室で、僕は叱られていた。正直ちょっと泣きそう。だって豆腐メンタルだもの。
図書室の鍵が無くなってしまったらしい。
僕はただ目を逸らすことに専念し、後ろで組んだ指で手悪戯をする。
――と、もうこんな時間か。いいか、図書館の鍵が見つかるまで使用禁止だからな。それじゃあ、もう帰っていいぞ
はい、失礼しました
一時間も拘束されちゃった。早く妹に原稿の感想を伝えないといけないのに。とりあえず心の中で、担任の髪の毛が一日一本ずつ生えなくなる呪いをかけておいた。
この高校の図書室は、図書委員が解錠し、所定の位置に鍵をかけることになっている。そして、放課後、最後の利用者がその鍵を職員室に返すのだ。
僕が昨日の、最後から二番目の利用者である。断じて最後ではない。最後は、ルナだ。
僕が二年三組に足を運ぶと、ルナが椅子の背を前にして、そこに顎を置き、面倒くさそうに雑誌をめくっていた。
ルナ・ラヴクラフト。生粋のイギリス人である。癖のある金髪がその特徴だ。両親の仕事の都合で、日本で生活している。日本生活は長いらしく、外見以外は本当、日本人らしい。だって、柿の種が好物だし……。今も、お徳用の透明なボトルが机の上に置いてある。たまに手を突っ込んでは取り出し、ぼりぼりと食べている。
ルナ
ああ、有葉(あるは)っち。ちわっす
常に半分閉じている眠そうな瞳が僕を捕らえる。噂によると一日最低十二時間は寝ないと物凄く機嫌が悪くなる。ナルコレプシーを名乗っているが、実際はただ寝たいだけの人である。理樹くんに謝れ。
……何読んでるの?
言っても分からないと思いマスが
中身が英語というところからして、もう僕には理解不能だ。恐らくは、論文誌なのだろう。彼女は物理と数学のエキスパートである。自らも論文を発表したことがあるらしい。正直、僕には全く想像できない世界だ。いわゆる天才少女なのである。そして、その影響か知らないが、制服の上にいつも白衣を羽織っていた。白衣があるから油断しているのか、ブラウスのボタンは結構大胆に開いている。
前に何で白衣を着ているか尋ねたことがあったが、
知と痴を外見で表現してみました
らしい。それから僕は転んだ拍子にブラウスの中に手が入ってしまわないかと、非常にたのし……危惧している。
図書室の鍵、知らない?
……ああ、昨日のことデスか。いつものところにかかってなかったので、そのまま帰ったデス。忙しい身デスから
……そっか、分かった
図書委員の人がどこかへやってしまったんじゃないデスか?
だろうねー
…………いや、そうじゃなくて、そう先生に言いにいけばいいじゃないデスか
考える。
先生に言いに行けば、図書委員の人が呼び出され、怒られるだろう。きっと、鍵を紛失してしまったことに本人は気付いているはず。反省もしているだろう。それなら、先生に怒られる必要はない。僕が怒られることで全てのカタはついたんだ。あとはこっそり鍵を戻しておいてくれればそれでいい。
言いにはいかないよ
そう言うと、ルナは不快さを含んだ視線を容赦なく投射してくる。
……そういうところ、有葉っちはあるデスよね。自分が何とかすればそれでいい、みたいな
ああ、まあな
生返事をする。別に考えを衝突させる必要なんてない。
僕は、正しい選択をする。困惑した時こそ理性的に、何がベストなのかを考える。その時持っている能力を最大限に活かして、その時できる最善の選択をしてきた。今回の選択も、正しい。
それじゃ
僕とルナの関係は普通のクラスメイトだ。そこまで仲良くもないため、話題を早々に切りあげる。ルナはあまり親しい友人を作らない。それは、忙しくて作れないのかもしれない。
あ、有葉っち。妹ちゃんが来てたデスよ
撫子(なでしこ)が?
僕の妹、橘撫子。一つ下の学年であり、僕と同じ高校の一年生である。がんばり屋で、勝ち気で、少し我が強いけど、純粋な、兄想いの良い子だ。背が小さく、少し顔に幼さが残っているけど、整っている。兄として鼻が高くなる自慢の妹である。可愛い。可愛過ぎない? ねえ、可愛過ぎませんかね?
有葉っち、声に出てマス
あっ
…………シスコンなんデスね
あー、たまんねえわその蔑む目。もうね、最高。思わず涙が出そうになるもの。
あのね、確かに僕は妹を愛してるよ。でもね、シスコンじゃない。家族愛だよ。健全ですから
じゃあ、両親と妹さん、どっちを取り――
妹
…………
元々半目がちな彼女の瞼がさらに水平になり、僕をじっとりと見つめる。僕はつい本音が出てしまった気まずさから話題を元に戻す。
……それで、撫子は何だって?
そう言えば、今日、一緒に帰る約束をしていた。それなのにわざわざ僕を訪ねるなんて。
――まさか。またなのか。
今日は一緒に帰れなくなったと言ってたデス
なん、だと……
最近、彼女は僕と一緒に帰ってくれない。撫子はいつも、
『撫子、一緒に帰ろうぜ』『嫌よ』『…………』『……で、どこで待ち合わせ?』
という見事なツンデレで快諾してくれるのだが、最近はその快諾後に、急に予定が入ることが多い。委員会や仕事関係、友人と一緒に帰る――なら納得できる。涙を飲むけど納得できる。
しかし、一緒に帰っている相手は群青ソラさん。僕の隣のクラスで、蒼い瞳と長い睫毛が特徴的な、神秘的な印象を受ける少女。見る度に、いちいち仕草が一枚の絵画のように感じてしまう。いつも教室の隅で文庫本を読んでいるイメージがある。
撫子とは学年も違うし、特に接点らしい接点は確認できていない。友達とは判断しにくい。
普通ではない何かが起きているような予感がした。
シスコンも行き過ぎると犯罪デスよ
あー、家族愛熱いわー。心温まるわー
僕はごまかしつつ自分の席に着く。教室で撫子の書いた小説の原稿に全て目を通しておくことにした。
家に帰ると、すぐに撫子の部屋に行った。彼女が書いた原稿、『無能探偵タダヒト』の感想を伝えるためだ。
が、その前に。
お兄ちゃんは撫子に大事な話があります
……何?
彼女は回転椅子を回し、足を組み、ベッドに座っている僕を見下す。うわー、意味もなく不機嫌そうな撫子も素敵ー。
だがな、今日の兄は譲る気はないぞ。
どうして急に群青さんと一緒に帰るようになったんですか。お兄ちゃんはとてもとても気になります。学校でも親しげな様子はないし。今まで全然接点もなかった。どうして突然こんな――
別にいいでしょ? 何? だめなの?
視線が突き刺さる。
あ、いや、ぜんじぇんいいです
……よし! 今日はもうこの話は終わり!
で、有葉。感想は?
一瞬で本題に入る。即物的な妹であった。
……ん、まぁ、いいんじゃない、かな
僕はA4の紙に印刷され、右上をダブルクリップで綴じられた百二十ページの原稿をベッドの上に置き、表紙を何ともなしに見つめた。
何それ、何か適当じゃない? ちゃんと読んだ?
疲れた目を癒そうと目頭を押している僕を見据えて軽く溜め息をつく。僕はそこから不機嫌度フェーズ三を感じ取り、冷や汗一瞬、言い訳を開始した。
読んだ読んだ! 穴が開くくらいに読んだ。むしろ何で穴開かないのかなって不思議に思うくらいに読んだ
撫子が目を細めて訝しむ。僕は俯き加減に目を逸らした。あれ、顔に汗が。どうしてかなぁ、この部屋エアコンついてて涼しいのになぁ。
……つーか、あれじゃないっすかね。僕の意見なんか聞かなくても撫子には担当編集さんがいらっしゃるんですし……
別にいいでしょ? たくさんの人に読んでもらうのが大切なの。それとも私の話、つまらなかった?
そんなことないよ! もうね、撫子は天才。うん、本当、超おもしろかったから。アルティメット銀河おもしろかった。こんな小説書いちゃうなんて僕の妹は自慢の妹……です
彼女は眉間にしわを寄せる。あ、聞こえたよ。お兄ちゃんには
あん?
っていう重低音が聞こえた。
僕はひやひやしながら彼女の顔色を窺うが、今は自分の原稿に視線を落としているようだった。
う~ん、どこが駄目だったのかな
と唸っている。だからおもしろいって言ってるじゃないですか。兄への信頼\zero。
彼女は高校一年生にして小説家である。既に中二の時には新人賞を取ってデビューしていた。ミステリ作家なのだが、十代の読者へ向けて青春テイストのミステリを書いていて、それが割と売れている。バカ売れ、とまではいかないが、レーベル売上の二十位以内には入る。
その撫子なのだが、何故かたまにプロット(物語の大筋)を書いては僕の所へ持って来る。そして僕が一番おもしろそうと言った物語を書き、出来上がると必ず僕に読ませてくるのだった。そんなやり取りは、客観的に見れば微笑ましいのかもしれない。
しかし、僕には良いアドバイスをできる器量などないのだった。兄としては心苦しい。
……もっと何か感想ないの? 有葉の思ったこと教えてよ
撫子は、いつから僕のことを名前で呼ぶようになった。たまに、本当にたまに、機嫌が良い時に
お兄ちゃん
と呼んだりもする。
そうだなぁ……この主人公タダヒトの無能っぷりはウケた。頼んだジュース買ってこれない辺り好き。コーラ頼んで紅茶って、ふふっ
そんなことはプロットの段階から分かってたでしょ?
あ、はい
空気がとげとげしくなってきた。
まぁ、うん、その……主観を排すれば面白かったぜ
…………
ずい。
な、なんだろう。撫子が椅子から乗り出して僕を睨んでいる。
そうじゃないわよ。私が求めてるのは有葉の感想。主観の感想なのよ
主観か。そうなると、うん。ああなってしまいますよね。何とかオブラートに包んだ表現を脳内検索する。その間に僕の思考を悟ったのか、撫子が視線で釘を刺す。
短くため息をつく。仕方ない。正直に言おう。
まあ、おもしろくなかった
はあ!? 掌返し過ぎよ!
まず、青春テイストなのに人が死に過ぎじゃない? タダヒトの兄が真犯人だったっていうのもいただけない。清水さんが犯人だと思ったら、そいつ兄に操られてたとか、そんなんアリなの?
そう。本当は現地ガイドの清水さんが殺人犯だったのだ。しかし、それもタダヒト兄の精神的操作の結果。真犯人はタダヒト兄だった。衝撃の展開である。
あれ? 有葉、『後期クイーン的問題』知らないの?
知っているに決まっている。むしろ、知らないやつがいるのだろうか?
王女様は三十代後半になるとエロくなる、みたいな話だろ?
ぜんっぜん違う!
オーバーリアクション気味に頭を振った。おいおい顔赤くするなよ。初心だなぁ。
おじいちゃんに習ったことあるでしょ? 簡単に言えば『犯人が操られてるだけで真犯人が別にいた』ってことに焦点を当てた問題のこと。論争になったのよ。逆に言えば論争になるくらいの常套手段ってこと
犯人とは別にそれを操ってる人が出てきてもアリってことか
そう。他には?
ん~、そうだな。やっぱ無能なのに探偵って無理がある。それに出だしが暗くて物語に入りにくい。それと、やっぱ読後感がね。もっとスカッとする感じじゃないと
ミステリに爽快感を求めないでよ! 馬鹿!
だ、だって主観で感想言ってって言うから……
涙目にならなくても……。
……はあ。分かったわ。この話、担当さんにも止められてたのよね
じゃあなんで書いたんすか
…………
そう言うと彼女は黙ってしまう。担当に止められていたのに書く理由。
僕が、彼女が持ってきたプロットの中で面白そうと言ったからだろう。
なあ、撫子。あくまで僕の意見だ。そんな気にするなよ。僕より父さんや母さんの意見を聞いた方が参考になると思うぞ
…………
なおも黙る。ショックを受けたように俯いてしまった。
何故、僕ばかりに作品を読ませ、その度にダメ出しをさせ、そのくせ落ち込むのだろう。
誤字とか、その他細かい点は原稿に赤入れしといたから。総評も裏に書いてある
僕が原稿を手渡すと、彼女はさっそく裏の総評を見る。
分かった。…………馬鹿
髪をくるくるといじり、覇気のない悪態をついた。
はいはい。それじゃ、僕は部屋に戻るよ
……うん、分かった。また………………読んでね
撫子は『読んでね』のタイミングで僕を一瞥する。睨まれるかと思ったが、その視線は単純に僕の様子を窺っているようだった。
僕は深くは考えず、そのまま部屋を後にしようとドアを開ける。
有葉
? なんだい、妹よ
僕のふざけた調子とは異なり、彼女はまるで告白するかのように体をこわばらせ、
……小説、書いてよ
と、言葉を絞り出した。
………………………………………………………………………………………
思わず三点リーダーを無駄使いしてしまった。
それくらいに、予想外の一言だった。
僕は数秒考えて、
気が向いたらな
そう言って僕は妹の部屋を後にした。
彼女はデビューしてから何作か僕が面白そうと言った話を書き、編集に無理を通して出版した。そしてその本は大体にして往々、売れなかった。
つまり、僕のアドバイスはまるで役に立たないのだ。
――当然だ。
僕と撫子の姓は橘(たちばな)である。祖父は橘恒彦(つねひこ)。文学作品からエンターテインメントまで自由自在に書き連ね、本格SFからラブコメまで型なしの物語を作り、小学校低学年からお年寄りまでの心を掴んだ。世界中が知っている伝説の小説家である。
そんな僕のじいちゃんであるが、半年前に亡くなった。
僕の父と母は同じく小説家である。つまるところ、橘一家は全員小説家である。
――否、僕以外は。
僕と撫子は生まれた時から本で遊び、時には本で殴り合い、そして本を読んで育った。同時に物書きとして祖父に育てられ、小学校高学年の頃には形だけの長編小説が書けるようになっていた。
明らかに僕は祖父に期待されていた。僕はいわゆる速筆家であったのだ。長編小説を月に三本コンスタントに書くことができる。妹からは
どれも似たような話だし、どこかで見た事あるような話。それにご都合主義過ぎる
と言われていたけど。
そして、年月が経ち――僕が中三、撫子が中二の時だった。
じいちゃんから指導を受けた後、撫子が
いいアイデアが思い付いた
と言った。僕もその時は、自信のあるアイデアを思い付いていたので、そう伝えた。
僕と撫子は、作品を書き終わり、別々の出版社の新人賞に応募した。
とんとん拍子で最終選考まで行き、僕等は喜んだ。
――でも、ある日。
『盗作なんじゃないんですか?』
出版社からそう電話がかかってきた。二つの出版社に、同一の審査員がいたのだ。それによって、僕と撫子の作品は設定やキャラ、展開が似通っていることが明らかになった。
『ご家族らしいですね。どちらがどちらを盗作したんですか?』
もちろん僕も撫子も、盗作どころか、お互いがどんな物語を書いているかすら知らなかった。じいちゃんから同じ指導を受けていたからなのか、よく二人で話し合っていたからなのか分からないが、その時、僕と撫子は奇跡的に同じような作品を紡ぎ出していたのだ。
必死に考えた。これは、貴重なデビューの機会だ。
正直に本当のことを言う――それが真先に浮かんだ。しかし僕は却下する。下手をすると、二人共デビューできなくなるからだ。
慎重に、間違えないように、その時持てる全ての能力を使って、何度も考えた。
結果。
『僕が盗作しました。別にいいじゃないですか。まあ、バレたならしょうがないっすね』
僕が出版社にそう電話した。僕は選考対象外となり、撫子はデビューを決めた。
その日から、僕は小説を書いていない。
もちろん後悔はしていない。僕に後悔はありえない。
いつも注意して、冷静になって、最善だけを選んできたからだ。そうすれば必ず最良の結果が得られる。僕の選択は――正しかった。
だからこそ妹は、僕の希望の星なのである。
やめやめ、気分が暗くなる
僕はベッドから起き上がり、とりあえず机に向かってみる。
暇である。三年間、暇じゃない時がない。
何か熱意を注ぐものがあった方が健全だよなぁ。執筆をやめてから、僕は何にも打ち込むことがなかった。今だって帰宅部だし、勉強もやろうという気は起きないし、彼女だって作ろうと思わない。つ、作ろうと思わないからいないだけだかんねっ! 勘違いしないでよ!
僕のツンデレとか誰得だよ……
僕は鍵のかかった机を開け、中からB6サイズの縦書きのメモ帳を取り出した。開くと、そこには僕の考えた物語のネタがびっしりと書かれている。いわゆるネタ帳である。
結局、僕にはこれしかないのかねぇ……
僕は暇な時、こうやって自分の想像力に任せてネタ帳に書きなぐる。内容は世界観の設定であったり、キャラの決めセリフであったり、掛け合いであったり、とにかく思い付いたことをつれづれなるままに書き連ねるわけだ。
ああ、暇つぶしだ。そしてストレス解消だ。
結局はネタ止まり。僕はもう二度と小説を書くことはない。
ふと、思い出す。
『のう、有葉。ペン一本で世界を変えたいと思わんかね?』
これがじいちゃんの口癖だった。僕が執筆を止めてからも度々僕にそう言った。
そりゃあ、変えたいさ。
だけど、じいちゃん。僕はもう精一杯やったんだぜ。
別に盗作騒動だけが問題じゃない。あれがなくとも、僕は執筆をやめていた。
妹が二か月で一本小説を仕上げる間に、僕は六本書いていた。どれも自分では最高に面白いと思う傑作だ。一つでも、一文でも妥協したことがない。
新人賞に応募し続けた。……しかしまるで通らない。
誰も読んでくれない。誰もおもしろいと言ってくれない。
そんな小説は、この世にある意味がないんだよ。
せいぜい趣味、自己満足でとどめておくべきなんだ。
そして僕は自分のためだけに物語なんて書けやしない。小説一本、約十万字。熱意がないとそんな分量書けるはずがない。僕の熱意、それは『これを読んだ人に面白いと言ってもらいたい』、それだけに向いていた。
ああ、そう言えばじいちゃんはこんなことも言っていたっけ。
『百人がつまらないと言っても、たった一人が感動し、一生傍に置こうと思う小説を書きなさい』
ははっ。そんな小説が書けたらな。
僕はポケットサイズのネタ帳に何気なくじいちゃんの名言を書く。
が、しかし、
あれ? ……インクがないのか
文字が汚らしく擦れてしまう。ちなみに僕は万年筆を使っている。何故万年筆かというと、……まぁ、かっこいいからだ。
…………
他に理由はないよ?
机の一番上の引き出しを無造作に開ける。中に代えのインクがあったはずだ……が。
ん……?
見慣れぬ木箱が入っていた。縦十八センチ、横八センチ、高さ四センチ程の大きさ、さほど重くはなく、くんくんと嗅いでみるとヒノキの香りが森林を思い出させた。
何も書いていないので、とりあえず開けてみる。
……万年筆、か? なかなか良さそうだな
漆黒の光沢があり、まるで宝石のような模様が施してある。ウン十万としそうな高級感が漂っていた。それでいて非常に軽い。
ペン先の感じから、使われた後のようである。
じいちゃんのお古、かな? 何かの記念品とか。深味と貫録を感じさせる。
箱の底を見ると、何やら紙が折りたたまれて入っていた。さっそく開いてみる。
『にゃんぱすー! 有葉くん、元気かな? (のんのんが面白くて仕事が全然進みません。今日はもう四周もしています)有葉くんがこの手紙を読んでいる頃、多分お父さんは部屋で仕事に追われています。担当編集の植松さん怖いからね……仕方ないんだよ。(植松さんは独り身三十代前半の女性です。恋愛がうまく行かないからといってお父さんにあたるのは止めてほしいですね)この前なんて――』
なんの手紙だよ! かっこが多すぎて読みにくいわ!
どうやら父からの手紙のようだった。無駄に長いので飛ばして重要そうなあたりを拾って読む。
『――というわけで、おじいちゃんの遺言でこの万年筆《源》は有葉くんの物です。今まで渡すのを忘れていたお父さんをどうか許してください。こんな大切なことを忘れるなんて……忘れるのは〆切だけにしたいですね。怒られるのが怖くて、有葉くんが学校に行っている時にこっそり机に入れておきました。それじゃあ、大切に使いなさい。にゃんぱす』
どんだけ好きなんだよ。
『※なお、この件に関してのいかなるお問い合わせも受け付けておりません。聞かれても知らない振りをするのでご理解ご協力、よろしくお願いします』
秘技、散千裂片(サウザンドスクラップ)!
読み終わると同時に、僕はその手紙をバラバラに千切り、ゴミ箱にねじ込んだ。父はこんな性格をして純文学を書くから恐ろしい。しかも強面だし。ギャップ狙ってんの?
にしても……おじいちゃんの遺品、か
それなりに嬉しかった。おじいちゃんが僕を指名して、これを受け継がせたということだからだ。何故、僕にこれを託したのだろう――
…………
万年筆を見つめる。このペンから幾多の物語が、人々の心を震わせた物語が紡ぎだされたと考えると、何故か目頭が熱くなった。
分かっている――。
あくまでネタ帳だ。ストレス発散の手段だ。
そう自分に言い聞かせ、僕はプロットを書くことを決意した。
――僕だって、書きたいよ。
ベン一本で、世界を変えたい。
もしかしたら――もしかしたら、このペンなら――
この三年間、思い付いてネタ帳に書いてそこで留めていた話。ストーリー。小説。
僕はネタ帳を開く。
『異世界ミステリ』、違う。『SF』、これでもない。
B6のサイズにしては非常に分厚いメモ帳を僕はめくる。めくってめくる。
そして見つけた。
『異能バトルファンタジー』
そう、これだ。新しいページを開き、そしてペンを走らせた。
☆設定
ある日、高校の校庭に隕石が落ちてきて突き刺さる。主人公は困惑する中、世界中で尖った隕石が降り注いだことを知る。それはソロモンと呼ばれ全部で七十二本降った。その日から主人公は異能に目覚める。異能に目覚めたのは主人公だけではなかった。多くの人間が目覚めていたのだ。そして同時に、同じような異能を使う異形、《鬼》が世界に溢れた。
世界にソロモンが降った日、ソロモンからは《魂素子(ソウルエレメント)》という物質が放出された。それが人々の体内に入り、能力の源となっていたのだ。《鬼》はその《魂素子》の結晶が暴走した姿である。
ソロモンは、《魂素子》を集めて触れると、何でも一つ願いを叶えることができるという絶対的力を持っていた。《鬼》達は、《魂素子》を集め世界を滅ぼそうとする《鬼神アバル》というリーダーの下、組織的に行動するようになる。それに対抗して《光護隊(ナイト)》という組織ができあがり、主人公もこの一員である。
《鬼神》率いる《鬼》達と《光護隊》の、異能者達の戦いが繰り広げられる異能バトルファンタジー。
☆キャラ
主人公:―――
―――――
―――
こんなもんかな
僕は取り敢えず湧き上がるままに筆を動かし、スピードが落ちてきたあたりで万年筆を置いた。とりあえず設定とキャラについて少しだけ書いてみた。
――王道だな。
普通の高校生が異能に目覚め、悪の敵と戦う。僕がよく書く物語のパターンだった。努力、友情、勝利の鉄則に則って僕は物語を作る。
これが一番面白いと思うからだ。僕が一番好きな物語の形である。
そこには、絶対的な悪が存在するから。
現実のような、報われない――悪になりたくないのに、演じなくてはいけない者はいないから。そんな、間違ったことは起こらない。全てがきちんと整理されて、分かりやすくなっている。
このままストーリー進行についてのプロットを書こうかと思ったが、僕の場合、こういう時は一度頭を冷やした方がいいと経験則で知っている。
僕はベッドに身を預ける。そのまま沈んで溶けてしまう様な錯覚に陥った。久々にこんな高速で筆を走らせたから疲れたのかな。
アイデアというのは思い付いた瞬間が一番新鮮でおいしい。だからその瞬間に書き起こすのが一番良い。
僕は、曖昧になった境界で、まどろんだ意識をそのままするりと手放す。
そう――手放してしまった。
はっ
起き上がる。息が荒い。鼓動が早く大きい。何か嫌な夢を見ていた気がする……。
時計を確認すると午後十時だった。
お腹が鳴った。あー、晩飯食べてないや。起こしてくれてもいいのに。
僕は両腕を上げ、背中を逸らせる。背筋が伸びて気持ち良い。頭もスッキリした。
このまましばらく執筆しようか。眠る前に考えたアイデアを書きとめておかないと。
僕は先ほどと変わらない机の上の原稿に少しだけ書き加える。
ふと、撫子のことを思い出す。彼女は、僕が筆を置いてから何かと僕と小説を関わらせようとしてくる。
『小説、書いてよ』
ぼそぼそとした彼女の声が蘇った。まるで、押さえていた何かが滲み出てしまったかのような声。
プロット……見せたら喜んでくれるかな。
僕は万年筆とネタ帳をポケットに突っ込んで妹の部屋へと向かう。ただ雑談の中で、プロットを書いていることをぽろっと言うだけのつもりだった。
おーい、撫子
コンコン、と部屋をノックするが反応がない。
……? 入るぞ?
そっと部屋を開けてみると、真っ暗だった。電気を点けてみると、当然のようにそこには妹の姿がなかった。
あー、あれか。さっそく担当さんと打ち合わせに行ったのか。あいつは行動が早いからなぁ。そのうち帰ってくるだろう。
とりあえ――
え、ええ、えええええ。
え――?
何だ?
部屋を出るときにふと窓の外を見た。何かよく分からないものが目に映る。
僕等が住んでいるのは住宅地で、通っている高校も近い。窓から見える距離だ。だけど、見慣れない風景――風景と呼んでいいのだろうか、物体がそこにはあった。
僕は窓に近づき、なおも変わらない物体を見て窓を開ける。
おい――
あれは――、なに、なにが、あそこに――
岩が、地面に突き刺さってる……のか?
あろうことか、その岩はライトアップされていた。
何だあれは――?
細長いひし形の岩が、高校の校庭に突き刺さっている。学校は三階建てであるが、それよりも一・五倍くらい高かった。
咄嗟に思い出すのは、隕石。
いやいや、これは僕が書こうとしている小説の話だ。しかもまだ設定段階だし、隕石にするかどうかはまだ悩んでいる最中である。
な、なんだよこれ……
――夢か?
ほっぺをつねった。痛い。でも夢の中でも痛みって感じることあるし……。
でも、分かる。頭がはっきりしている。思考を妨げるものが何もない。夢の中では複雑的な思考ができないが、実際今はできている。
つまり、ここは夢ではない。
と、なると目の錯覚……?
目を擦るが、外の景色は消えない。
何が、どうなっている?
僕は窓を閉め、早足で部屋を出て階段を下りる。とりあえず何か、確認。確認だ。
居間には誰もいなかった。晩御飯の後の食器は片付けられていない。何かどんぶりものだったのだろうか? 三人分のどんぶりが出ている。
母は筆がノっている時は家事を後回しにする癖がある。今がまさにそうなのだろう。そういう時は父が家事を行うのだが、……父も今筆がノっているのか。というか、三人分ということは、晩御飯の後に撫子は打ち合わせに出かけたということになる。こんな夜遅くに……予定がよっぽど詰まっているのだろうか。
……?
ふと、不自然なものが目の端に映る。
居間の隅に小さな黒い――仏壇? じいちゃんのか。
今まで出していなかったのにどうして急に出してきたんだ……?
違和感。この世界に対する懐疑心が膨らむ。
いや、今はそんな思考は置いておこう。現状確認が一番だ。
確かめよう。この目で。――学校まで行って。
あの突き刺さった『岩』を見に行こう。