光に包まれた。胸のあたりが最初に光り、じんわり徐々に体が包まれる。

え……?

 春めいた暖かな陽気の土曜日。両親は仕事に行っているので一人だった。そしてこの土曜日の昼食は、俺にとっては特別なものだった。
 なぜなら、我が両親は料理というものにまるで無頓着だからだ。
『え、大根って皮あんの? それ剥かなきゃだめなの?』
『コンビニ弁当こそ至高にして究極にして高効率!』
とか平気で言う。というわけで、俺が篠丸(しのまる)家の台所を任され、三人分の料理をいつも作っているわけだが、この土曜日の昼食だけは、自分のためだけに料理ができる特別な日なのだ。
 高価で少量の食材を使い、舌を転がすように味わって、食す。味が分からない両親にはもったいない。
 今日も、愛媛県直送の車エビをふんだんに用いたトマトクリームパスタを作り、一人、味覚の悦楽に溺れ果てるつもりで、今さっき、ようやく準備が終わり、料理を前にして座ったところだったんだけど……。

え、ちょ、何!? 何これ!?

 光である。いつの間にか体を全て包んでしまっていた。心なしか自分の声が遠くに感じる。意識がうっすらとして、自分という器から、意識が離れていく感じ。
……あれ? これ死ぬんじゃない? 
俺、天に召されちゃうの? ちょっと急過ぎじゃない?
 確かに最近、『あぁ、この十七年間の人生で、ほとんどの物を食い尽くしてしまったなぁ』とか悟ったこと言ってたけどさ。順序ってものがあるじゃん。トラックに轢かれたとかなら分かる。
俺、『いただきます』って言っただけじゃん。
 ……ああ、あれか。
『うまい物を食うために俺は生きている』とかいつも言ってたからか。確かに、他の生命を食しているんだから、いつ自分が食されてもいいとか思ってたけどさ。……でもこれ違うじゃん。

大体、タイミングが……悪すぎるだろ……!

 光の中に下半身が飲み込まれる。感覚として下半身は残っているが、視覚的に存在しない。
 でも、そんなことはどうだっていい。
 俺は……、

車エビのトマトクリームパスタが食べたいんだああああぁぁ―――ッ!

 手を伸ばすが、届かない。ああ、俺の車エビ。今にもピチピチ動き出しそうなほどに新鮮な車エビ。一分一秒でも早く食べた方がおいしい車エビ。
 酸味のきいたトマトクリームをたっぷり絡めたパスタの上に車エビを乗せ、口の中に運ぶ。瞬間、風味が口の中を抜け、ぷちっとしたエビの触感と共に――

あ、ああ、あああああああぁぁぁぁぁ―――! 一口だけでも食わせてくれえええええええぇぇぇぇぇ―――――ッ!

 俺の叫びはしかし、虚しく部屋に響き渡るだけ。
 成す術もなく、俺は光の中に吸い込まれた。

 浮遊感。それが、最初に得た感覚であった。
 このまま天まで昇るのか――天使とかいるのかな。可愛い子がいいなぁ。

あれ?

あ、ちょ、あぶな――――ッ!

 だけど、既に着地姿勢に入っている俺からすれば、邪魔なだけである。声をあげるが、もう間に合わない。

きゃああああああああああ!

 女の子も悲鳴を上げる。
 ――もうダメだ! そう思い、目を瞑った途端。ふわり、と体が浮く。まるで空気のクッションに包まれたように。
 しかし、これも一緒だ。急な動きで俺はバランスを崩し、地面に足はついたものの、よたよたと二、三歩動くと、倒れ込んでしまう。
 そして、倒れ込んだ先には例の女の子がいて。

おわっ

ちょっと何でこっちに――――

 どうやら俺が召喚された地形は、少し周りより高くなっているらしく、彼女ともつれながら転がり転がり転がり、そしてようやく停止する。

痛い……普通に痛い……

 足首をひねったかもしれない。あと、首。転がっている間に打った。本当、何て日だ。車エビは食べられないし、怪我はするし、車エビは食べられないし、あと車エビ。
 四つん這いの姿勢になり、首を抑えていると、俺の下に女の子がいることに気が付いた。先ほどまで一緒にもつれていた女の子だ。下ネタではない、一応。

な、なななななな、なあっ

 顔を高知県産フルーツトマトのように真っ赤にしながら『な』を連発している。
 彼女――、
 レンズのようなグリーンの瞳。現在、目いっぱい開かれているそれは、まるで人工物のように感じられた。肌の白さもそうだ。まるで作られたかのように白く、きめ細かい。

きゃうっ

 心配になって頬に触れてみると、ちゃんと血が通っているようで、人肌の体温であった。反応もしたし。なんだ、ただの絶世の美女か。安心した。そうだよね。そもそも蒼髪からして、こうやって間近で見ると、作り物でないことが分かる。

ひゃあぁ……

 ほら、こうやって指ですいてみると、一目瞭然。指の間をくすぐったくするすると抜けていく。
 それにしても彼女の格好。――いや、格好は、ワンピースにカーディガンと特に問題はないんだけど、模様。あまり現代日本では見かけない模様だ。一言で言えば、過剰なのだろうか。どこか中世ヨーロッパを彷彿とさせる、不思議な模様だった。

……いや

 いいんだよ、そんなこと。
 俺は一体何をしているんだ。森の中で、俺と対して歳が変わらないであろう少女を押し倒したような姿勢になって。流れで少女の頬をつついたり、髪を触ったりして。
 俺は自分への怒りで肩を震わせる。
 料理を食べないで放っておくとは何事か! 調理されてくれた食材に申し訳ないだろ! 女の子とかどっちでもいい!

ん……?

 心の中で叫んだその時、あるものを発見した。
 ふるふると震えている彼女の首元に一つ、不思議な植物が生えている。
 こ、これは――。
 雑草にしては太く、中身がぎっしりと詰まったように膨らんでいて、先がくるりと丸まっていた。……そう、まるでエビのように。
 匂いを嗅いでみる。

く、くすぐった……んっ……

 彼女が声を上げる。首元に生えているんだから仕方がない。少し我慢してくれ。

 その草は、青臭くなく、どこかしょっぱいような香りを発していた。こんな植物、見たことがない。食べられる野草を食い尽くした僕がいうのだから間違いない。

…………食べたい

 咄嗟に口にしていた。

え?

食べたいんだ

え、えええええええええええええええぇぇぇぇ!?

 なぜか女の子が大袈裟に反応する。この土地は、彼女の土地なのだろうか? それなら、彼女の許可が必要だ。山菜取りの基本である。
 顔をさらに赤くした彼女に尋ねる。

ねえ、食べていいかな?

 先ほどよりも、真剣さを増して尋ねる。俺の気持ちを伝えるために。

そ、そんなっ……わ、私……

とってもおいしそうなんだ。お願い、食べたいんだよ

きゅ、急にそんなこと言われても……今、会ったばかりだし……困る……

 彼女は眉を下げて、僕から視線を逸らす。
 そうか。少し、非常識だったかな。どうやら警戒させてしまったようだ。

俺は、岸辺陽介。怪しい者じゃない。純粋に、おいしそうって思っただけなんだ。一目見ただけで、惚れ惚れするようなこのフォルム。ぜひ味わいたい

惚れ惚れ、とか……そんなこと言われても……うぅ……

 泣きそうになっていた。そんなにこの植物は大切なものだったのだろうか。あたりを見渡すと、結構な数生えていた。一本くらい、くれないかなぁ。いや、分かる。この一本を大切にする気持ち。そういうのは、理解できる。だから許可なしに摘んだりはしない。

確かに君の気持ちも分かるよ。でも、俺だって本気なんだ!

だ、だめよ……そ、そんなの、だめ……

 ……そうか。仕方ない。ここまでお願いしてだめなんだ。今回は潔く諦めよう。大丈夫だ、俺ならまた、この植物に巡り合えるはず。帰ったらググろう。

あ、じゃあさ、せめて、名前だけ教えてくれないかな?

うぅ……名前?

うん。名前が分かれば探せるからね

 彼女は息を詰まらせながら、言う。

……アノレッシア・サンソン

あ、あのれっし……? え?

 あまり慣れていない発音のせいで、一度では覚えられない。

ごめん。もう一回

アノレッシア・サンソンよ。皆は、アノって呼んでる

アノレッシア・サンソン……アノレッシア・サンソン……

だから、アノでいいわよ。覚えにくいでしょ?

いや、フルネームでググらないと、こういうのは出てこないんだよ。ありがとう。アノレッシア・サンソンって言うんだね、……この植物

 僕がお礼を言いながら、彼女の上からようやくどくと、
空気が凍りついた。ピキピキという音を立てて。ものの見事に。

……ん? えっと……? あぁ、君の名前が、アノレッシア・サンソンなの?

 どうやら勘違いがあったようだ。

君の名前じゃなくてね、そこにある植物。先が丸まってるの。それ、おいしそうでしょ? 何て名前か知りたくて

 空気が絶対零度まで落ちた。
な、なんでだよ……。

んん、いや、分かってる。君にとってその植物が大事だってことはね、分かってるから。大丈夫、取らないよ

 凍りついた空気が、彼女の周辺から氷解していく。見える、僕には見えるよ、彼女の背後に鬼のような炎が燃え盛るのが。
 彼女は無言のまま、僕に近づいてくる。右手を振り上げて。おい、右手。

え、えええ。いや、あの、だから、取らないよ。どんなにおいしそうだって思っても、惚れ惚れするフォルムでも、大丈夫だから! オーケー! 取らない! 取らなあああああぁぁ――――――

 振り上げられた彼女の拳が、僕の側頭部にクリーンヒットして僕の意識はダルマ落とし的要領で吹き飛んだ。

異世界料理を制覇する

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