夕日に向かって歩く、麻友子と達也。
ふと、麻友子は足を止めて、
もう一度森の家の方へ振り向いた。
夕日に向かって歩く、麻友子と達也。
ふと、麻友子は足を止めて、
もう一度森の家の方へ振り向いた。
あの森の家には、
麻友子が思っていた通りの真実があった。
大人たちに禁じられていた
森の家に行ってしまったことを、
麻友子は一つも後悔してはいない。
お姉ちゃん……
不安げにこちらを見上げる達也に、
麻友子は優しげな眼差しを向ける。
どうしたの、タッちゃん?
手、つなごう
うん
まゆこは達也の、
自分より幾分か小さな手をしっかり握った。
達也は麻友子を『お姉ちゃん』と呼ぶけれど、
血のつながりは無い。
麻友子が幼い時に離婚した母には、
しげさんという恋人がいる。
達也は、しげさんの連れ子なのだ。
だけれど麻友子は、
夕日を浴びながら家路に着いたこの時から
達也と本当の家族になれたように思っていた。
麻友子は森の家で会った、
あの優しい人の顔を思い浮かべながら、
新しい家族と共に歩き始めたのだった……。
話は、半年前にさかのぼる。
北国の6月にしては、
今年はずいぶんと暑かった。
麻友子が明日の準備のために、
買い物へ出掛けようとしていたところへ
突然しげさんが現れた。
……いや、戻って来た。
麻友子、母さんは?
5ヵ月近くも姿を暗ましていたというのに、
しげさんといったら何事も無かったかの様に
母の所在を尋ねてくる。
あずまの小田さんとこ
まゆこは、数十キロ離れた海辺の名を告げた。
ああ、また手伝いか。
あそこは相変わらず景気がいいな。
したら、今日は泊まりか?
しげさんの顔は、
ちょっとホッとしているように見えた。
麻友子の母・恵利子と顔を合わさずに済んだことに
安心したのだろうか。
──確か、2月の初めだった。
恵利子と揉めたしげさんが、家を出たのは。
しげさんはあまり働くのが好きじゃないようで、
勝ち気な恵利子がそれをひどく責め立てていた。
恵利子がしげさんをなじるのは、いつもの事だった。
だけれど、その日の恵利子の怒り様は
いつもより激しかった。
(たぶん、
女の人の事で揉めていたんじゃないかな)
麻友子がちらりと聞いた話からは、
そんな雰囲気がうかがえた。
じゃ、今日は帰るわ。
月曜か火曜にまた来るわ
『帰るって、どこに?』と聞きたかったが、
うん
と、だけ返事をする。
帰ろうとしたしげさんが、
一番大事な事を思い出した。
そういえば、達也はどこだ?
タッちゃんはリレーの練習で学校だよ
リレーって?
(ああ、そうか。
しげさんは知らなかったっけ)
明日運動会で、
タッちゃんリレーの選手に
選ばれたんだよ
運動会って、あの運動会か?
しげさんが、ドギマギした感じで聞いてくる。
おかしな事を聞いてくるしげさんに、
麻友子は素っ気なく返した。
あのも何も、運動会は運動会だよ
そうか、もうそんな季節か……
バトンの受け渡しが
いまいち上手くいかないとかで、
練習に行っちゃった
あいつ足速いのか?
うん、そこそこ
クラスで一番足の速い子が怪我をして、
自分にリレーのアンカーが回ってきた事を
達也は凄く嫌がっていた。
バトンの渡し方が難しくって、
先生に何度もやり直しを
させられるんだよね。
もう、やりたくないよ
達也が毎日そんな愚痴を言っていた事は、
しげさんには伏せる事にした。
もう一つ、しげさんが気がつく。
明日、弁当は?
あ、お弁当は……
ああ、そうか!
低学年だから午前中で終わりか
しげさんは『うん、うん』と一人で納得している。
麻友子がちょっと口ごもりながら、
2年生から午後も競技があって、
リレーは午後だよ
エエーッ!
しげさんが、とてつもなく大きな声をあげた。
ど、どうすんだよ弁当は。
母さんは居ないし、
婆ちゃんだって来れないんだろ?
麻友子は、ゆっくりと思い出す。
(婆ちゃんが伯父さんの所に行ったのは
まだしげさんが家に居た頃だったのか)
お弁当は私が作るよ。
だから、これから買い物に行くところ
麻友子が作るって、
お前だってまだ小学生だろうが
しげさん。私、中学生だよ?
先月で13才になったんだ
チューガクセイ?
しげさんが口をあんぐりと開ける。
それに、
お母さんからちゃんとお弁当を作る
お金も預かっているし
麻友子がそう言うと、
どういったわけか
しげさんのトーンがどんどん下がっていく。
おいおい、まゆこに作らせるって……。
といっても、俺もなあ……
しげさんは数十秒ほど考え込んでから、
再び口を開いた。
俺さあ、
ずいぶん前に札幌に行ってたんだ
サッポロ?
今度は麻友子が口をあんぐりと開ける番だった。
札幌といえば、
この北陽市から電車で3時間以上もかかる。
しかも旭川市や石北峠を越えるから、
中学生の麻友子にとっては
とても遠くに思えたのだ。
そんで、一ヶ月ぐらい前から
こっちに戻って清寿司に世話なっててよ。
明日はどうにもこうにも休めないんだわ
しげさんが札幌まで行っていた事も驚いたけれど、
清寿司(せいずし)という、
北陽市でも大きなお店にいる事にも驚いた。
(ああ、しげさんは寿司職人だったな)
麻友子、頼れるのはお前だけだ
頼れるって、何が?
明日の、達也の運動会だよ。
大人が誰も行けないんだ。
頼れるのはまゆこだけだからな、頼むぞ
自分の子である達也を、不憫に思ったのだろうか。
しげさんはいつになく真剣な様子だった。
大丈夫、まかせて。
ねえ、もう買い物に行っていい?
そう言って、まゆこが立ち上がると。
お前、背がでかくなったな。
髪も長くなったし、任せて大丈夫だな。
うんうん、大人だ大人だ
(髪の毛が長くなったから
任せても大丈夫って、
なんのこっちゃ)
玄関に鍵を掛けている間にも、何度も何度も
頼むぞ
と繰り返すしげさんと別れ、
自転車で国道を走る。
この先に、北陽市で一番大きなスーパーが有る。
そこで待っているだろう親友の麗香の事を思い、
懸命にペダルを漕いだ。
6月の北国の風が、
まゆこの髪をゆっくりとさらってゆく。
(中学に入る時、
髪を伸ばす伸ばさないで
お母さんと揉めたなあ……)
そんな事を思い出しながらも自転車を漕ぎ続けると、
東の方に大きな森が見えた。
それを目の端でとらえ、懸命に漕ぐ。
マユちゃん、こっちこっち!
麗香がスーパーの正面で、
明るく麻友子を出迎えた。
お待たせレイちゃん……
あれ、木本君?
……よう
麗香の隣りには、
クラスで一番頭がいい木本君が立っていた。
(この頃、
レイちゃんとよく一緒にいるな)
木本君は背が高くて色白なのだが、
こうして顔を合わせると
白い顔が決まって赤くなるのだ。
…………
(今日も顔が赤い。
不思議な人)
スーパーで買い物を済ませた麻友子と麗香は、
『これから麻友子の家に行こうか』などと
話し合っていた。
木本君も行く?
いや、用事があるから帰るよ
そうなんだ、またね
ああ、じゃあな
木本君の背中を見送りながら、
麻友子がふと呟く。
木本君って、
レイちゃんが好きなのかな?
はあ……あんたって人は
なに?
私じゃないでしょ、
木本君が好きなのは
え?
じゃあ誰なの?
やれやれ
麻友子の問いには答えず、
麗香は自転車を漕ぎ始めた。
ちょっとレイちゃん!
麗香の後を追いながらも、まゆこは空を見上げた。
(明日の運動会、晴れるといいなあ)
麻友子と達也の夕食のメインは、
から揚げだった。
今朝、恵利子が家を出る前に
達也が大好きなから揚げを作っておいたのだ。
レンジでチンすれば
食べれるようにしておいたから。
それから、ご飯とお味噌汁は……
わかってるよ。
早く行かないと遅れちゃうよ
そうね。
母さん泊り込みで仕事だから、
明日のタッちゃんの運動会お願いね
(お母さんはタッちゃんのこと、
自分の子供みたいに
思ってるよなあ)
ねえねえ、マユちゃん
なに?
これ全部食べていい?
うん。
もっと有るから、どんどん食べな
明日の弁当にもから揚げ入れてね!
もちろん、いっぱい入れてあげるよ
やった!
少し前までは、
この家の食卓は五人で囲んでいた。
しかし今は、麻友子と達也の二人だけである。
その理由は、
一つはまゆこの母・恵利子が、
海辺に有る観光客向けの小料理屋に
手伝いに行っているから。
もう一つの理由は、
恵利子と喧嘩をしたしげさんが
家を出て行ったから。
そして、あと一つの理由は……。
一緒に暮らしていたまゆこの祖母・絹子が、
今は伯父・寛明の家に居るからだ。
麻友子の母の恵利子と、祖母の絹子は、
二人で小さな居酒屋を営んでいた。
しげさんも恵利子の内縁の夫として、
居酒屋の営業に加わっていた。
その居酒屋は、
麻友子の祖父が長年営んでいたものだった。
祖父が死ぬと、伯父夫婦と恵利子との間で
遺産争いが始まった。
遺産といっても
妻である絹子が生きているのだから、
子供である恵利子と伯父に相続の権利は無い。
だが……。
うちの家計が苦しいのは、
前にも話しただろ?
お義母さん。
なんとかこの家を売ってもらえませんか?
その売ったお金を、
みんなで均等に分けましょうよ
そうだねえ……。
あまり気が乗らないけど、
仕方が無いかねえ
父さんが長年やってきた店を売るなんて
私は反対よ!
なあ、頼むよ恵利子。
うちの事情も考えてくれ
うちには小さな子供もいるから、
共働きもできないし……
じゃあ、私があんたらの家に行くよ。
私が一緒に住めば、
あんたらは二人で働きに行けるだろ?
その間、店はどうするんだよ
恵利子、一人でもやれるだろ?
まあ……。
バイトの子でも雇えば
なんとかやれると思うわ
なあ、母さん。
そうまでして
家を売りたくないのか?
あの人が情熱を捧げてきた店だからね。
売ってしまうのは少し寂しいかもね
でも、最近は
客も減ってきているようだし
この辺で店じまいしちゃどうだ?
兄さん!
怒るなよ。
とりあえず母さんには
うちに来てもらうとして、
家を売るかどうかは保留にしよう
もう、あなたったら
こうして絹子は、
麻友子の伯父夫婦の家へ行ったのだ。
恵利子は女手一つで店を切り盛りしていたが、
海辺に有る小料理屋の主人から料理の腕を買われて、
観光シーズンには借り出されることが多々あった。
正直、客足が減っている居酒屋の収入だけでは、
家族を養うには心もとないのだ。
そういったわけで少しの間、
この家にはまゆこと達也の二人だけなのである。
明日、バトン上手く渡せるかな……
タッちゃんなら大丈夫だよ。
ほら、もう寝ないと
明日起きれなくなるよ
うん。
おやすみ、マユちゃん
おやすみ
…………
達也が眠るのを見届けてから、
部屋の電気を消した。
そしてまゆこも自分の部屋に行き、
眠りに就いたのだった。
(明日……。
お弁当のこととか、運動会とか、
タッちゃんのこと……。
一人できちんとできるかな……)