疲れた~っ!


 家に帰るや否や、私はベッドに飛び込んだ。ボフン、とスプリングが跳ねる。アパート暮らしなものだから、ほかの部屋に響いたら悪い、とは思うのだけど、今日だけは勘弁してほしい。もう、三日はまともに寝られていないのだ。私の担当する雑誌の締め切りが今日で、編集部はてんてこ舞いだった。

……今回も編集長は鬼だったな……。


普段は温厚な人なのだが、締切前になると別人の様になる。『締切前の悪魔憑き』、『編集部の鬼』なんて私や同僚達は呼んでいる。もちろん本人には知られないところで、こっそりとだが。
 ――そんな事を思いながら、足で布団をたぐり寄せる。昔から足ぐせが悪いとよく言われていたが、一向に治る気配が無い。それどころか、むしろ悪化しているような気さえする。

今日もこのまま寝ちゃいそうだな……


 まだ着替えも、メイクも落としていない。安物のスーツとはいってもシワになったら困るし、ただでさえ不健康な生活のせいでカサカサの肌がこれ以上ひどくなったら、と頭の中の冷静な自分が言うのを聞きながらも、疲れが溜まった私を甘やかしてくれる、久しぶりのベッドの優しさには勝てそうもない――。
誘惑にあっさりと負けて、ベッドから出られなくなった私は、何となく、まあいいや、という気分になる。(……すでに安物スーツの幾つかは、その“まあいいや”でシワだらけになったままだ)

 編集部に勤め始めてはや四年。こんな生活にも慣れつつあった。

 作家志望だった私が、編集部で働く事になったそもそもの原因(という言い方はヒドイのかも知れないが)は、一人の編集さんとの出会いだ。
 二十歳になり、初めて“持ち込み”をした際に、

ん~なんか文章が記事みたいなんだよね…
君、小説家なんかより報道雑誌とかの記者の方が向いていると思うよ?
知り合いが雑誌記者を探してるから、そっちの面接、受けてみる?

と言われて、今の職場を紹介された。
 幸運だったと思うし、最近では後輩もできて、充実した毎日を送っているけれど、やはり夢っていうのはそう簡単に諦められるものじゃあないらしい、今も気づけば携帯のメモ帳なんかに、それらしいものを書いていたりする。

まあ、往生際が悪いってことなんだろうけど


そう自分に苦笑して、ようやく眠りに就こうという時、遠くでチャイムが鳴った。
隣かな、とスルーしようとしたのだけれど、


 鳴りつづける音に、どうやら私の家だったらしい、と体に鞭うってゆるゆると起き上がった。
インタフォンの画面に、はい、と答えれば、

お荷物でーす

と元気なお返事。疲れた頭にはよく響いて、ズキズキと痛む。こめかみを抑えながら、今出ます、と返したものの、眠気と頭痛にかすんだ声じゃ聞こえたかどうかあやしい。

それにしたって何でこんな時間に、と思い時計を見ると、未だ9時前だった。

全然寝ておらずフラフラだった私を、編集部の人達が心配して、できるだけ早く帰らせてくれたようだ。こういうふとした温かさが胸にしみるのは……年なのだろうか。

玄関まで歩きながら慌ててスーツのシワを伸ばし(……まあ、大して変わらなかったが)、散らばった荷物を足で入り口から見えない場所に動かした。鍵を開けながら、はんこを手に取ってドアを開ける。

あ、こんばんはー!お届け物です!

……はい


もう少し静かにお願いできないもんだろうか、と内心ため息。

こちらがお荷物になります。ああ、ハンコはここにお願いしますね。……はい、有難うございました~!


 そんな定型文の様なやりとりに軽く頭を下げて、荷物を受け取る。何かのカタログで買った高いビールだった。

お、冷蔵梱包……。


 なんとなく、高級感がある気がしてうれしくなる。一方で、下手に眠りを邪魔されて、目が覚めてしまった。
 これでは編集部の人々の気遣いが水の泡になってしまった気がする。

 

んー、シャワーでも浴びるか。


 ザアアッという水の音が、何だか好きだった。嫌なものがすべて流されていく気がするのだ。雨の音に、似ているからだろうか。


――お風呂から上がって、ビールを冷凍庫から取り出す。冷蔵梱包だけじゃ物足りなかった冷たさが、急激に冷えてキンキンだ。フフッと笑みが漏れる。
顔に当てると、ヒヤッとして気持ちいい。

 プルタブを開けて、グラスに注ぐ。一気に入れると、泡の量がすごいのだけれど、それがまた良い。
こうやって注ぐのは、元々父の癖で、今や私の癖でもある。飲むと、普段のより美味しい様な気がした。

さすがは、高級ビール。


 味なんてよく分からないくせに、ちょっとほざいてみる。いいのだ、こういうのは気分が大事なのである。そのまま一息に呷る、と。

うわ、何これ、なんか眠く……あー、フラフラする……。


 思わずベッドに倒れこんだ。疲れた体には、酔いがまわるのが早いようだ。手からこぼれた缶が床に落ちて、からんと高い音を立てた。

つー……


付けたままの明かりがまぶしい。思わず腕で顔を覆って瞼を落とした。

その瞼の裏をかすめるように、長年帰っていない、懐かしい故郷の景色が頭の中を駆け巡った。

 私の育った場所は、郊外の田舎町。
両親はそれなりに名の知れた老舗の料亭を営んでいて、いつも忙しそうにしていた。
 土日も、いや土日こそ料亭は忙しい。どこかに出かける事も殆どなかった。
 友達の、遊園地に行ったとかバーベキューをしたとか、そんな話を聞くたび、友達が羨ましかった。
 一つ下の弟は、小さい頃から体が弱かったので、忙しいなりにも気にかけてもらえていた、と思う。でも、私は違った。いつも、働く両親の背中だけを見ていて、いつも――寂しかった。



――そんな私を慰めてくれるのが、本だった。
本の中には、色んな世界が広がっている。恋愛、冒険、自分が絶対に体験できない世界もあるけれど、読んだだけで私がその主人公になった様な気持ちになれた。
でも、その頃は作家とか小説家とかになりたいなんて、まるで考えてはいなかったから……転機、と呼ぶのなら、あれがそうなんだろう。


ある本のあとがきに、こんな事が書かれていたのだ。

私の家は結構有名なお店をしています。だから不自由はなかったけれどその分、なかなか親には構ってもらえなくて、“寂しい幼少期”だったと思います。
そんな中で私は本に出会い、本に救われました。


同じだと思った。私の他にもこんな人がいたんだ、と嬉しくなったのをよく覚えている。
あとがきはこう続いた。

私が作家になることの決意したのは、一人のお爺さんと出会ったからです。
 そのお爺さんは私のよく行く本屋の店長さんでした。とても優しい人で、私が家で寂しくなった時にそこに行くと、一つだけおいてあるテーブルセットに案内してくれました。
お爺さんが作家を目指していて、だけれどいろいろな事情によって、それをあきらめざるを得なかった方でした。
そして持病の悪化により、私が高校に入った年に、そのお爺さんは引っ越していきました。
その時私は、お爺さんが昔なろうとしていた作家に私がなれたら、私がお爺さんの夢をかなえてあげられればと思い、今まで、こうして頑張ってきました。

残念ながら、この本が出版される数ヶ月ほど前に、お爺さんがお亡くなりになりました。そのことは、お爺さんの親族の方が送ってくださった手紙で知りました。お爺さんは、私のことを覚えてくれていて、そして私が作家になったのをとても喜んでくれていたようで、親族の方も本のあとがきに書かせてもらいたいことを伝えると、快く承諾してくれました。

今回、私がこんな自分の過去を綴ったのは、皆さんにも夢を見つけてほしいと、夢のために努力してほしいと、改めて思ったからです。
何でもいいんです。私みたいな経緯はまれだと思うので、興味や趣味、特技など、そういう好きなものを大事にしてください。
 そして、どんな境遇でも、夢は諦めないでください。たとえ叶わなかったとしても、人のせいにはしないでほしい。周りがどうであろうと、人生を選ぶのは自分ですから。
だから、自分が選んだ人生を精一杯生きてください――


 このあとがきを読んで、私は作家になりたいと初めて思った。
作家。小説家。その時初めて、私は自分のなりたいものを考えて、そして見つけたのだった。
 一度思いついてみると不思議で、何で今までそう思わなかったのか分からなくなってしまうほどに作家になりたいと思った。作家という職業を、人生を選びたいと思った。

 その時中学生だった私は、それまで入っていた部活をやめ、文芸部にはいった。ただ小説を書くだけの、だけどだからこそ面白い部活だった。

 小説を書くのは今まで経験した何よりも楽しかった。自分とはまるで違う主人公が、自分の作った世界で動き出す。恋をして、戦って、そして最後はハッピーエンドで。
年を追うごとに、作家の夢は大きくなっていった。


 ――そして、十八歳になった時。
大学進学を理由に上京したい、と親に初めて打ち明けた。将来的には作家になりたい、とも。
結果は思った通り、だけど思った以上に、父が大反対した。

作家になんてなれる訳がないだろう!なれたとしても、それで食っていけると思っているのか!


 父は、私が料亭を継いでくれると思っていたらしい。だから“作家なんか”になるより、料亭を継いだ方がよっぽど良い、と言いたいのだろう。私も反論しようとした。したかった。でも、生まれて初めて見る父の剣幕に何も言えなくて、悔しくて唇をかんだ、その時。

父さん


と、それまでずっと黙っていた弟が、突然声を上げた。

姉さんが継がないなら、俺が継ぐ。
前々から考えてたんだ。
でも俺は体が弱いから、姉さんが継ぐんだと思って諦めてた。
でも違うなら……俺がここを継ぐ。継ぎたいんだ。
だからさ、姉さんに、上京させてあげなよ。


 弟が、私の方を向いた。

姉さんは自分の夢を追って。俺は俺で、ここを継いで、守っていくから。


 弟がそんな事を考えていたなんて、知らなかった。両親も知らなかったようで、唖然とした顔をしている。

私より一つ下の弟。ずっとうらやましかった、病弱で、弱いと思っていた弟が、実は私よりもずっと芯が強いってことに、その時ようやく気付いたのだ。
私は弟の応援に押されるように、お父さんに向き直った。

……私は、本気で作家になりたいと思ってる。なれなかったとしても、食っていけなかったとしても、責任は自分でとる

子供のお前に責任なんかとれるわけないだろう!

ッ! でも、後悔したくないから! ……後悔したくないから、お願い、頑張らせて

――クッ、勝手にしろ!


父はそういって席を立った。
その後、なんとか母の応援と説得で学費は出してもらえることに決まったのだけれど、口もきかないまま家を出て……父とは疎遠になってしまっていた。


 私は、大学で文芸サークルに入り、本気で作家を目指し物語を書き始めた。

 たまに来る母からの手紙によると、弟は家を継ぐために頑張っているらしい。
体の調子も良い様で、仕事の憶えも早いらしく、高校卒業後、本格的に働き始めるとのことだった。

 父は相変わらず頑なに、作家になるだなんて、と言っているらしいけれど、母が言うには、

一回反対した手前、いまさら認めるのが恥ずかしいのよ。
もう、変なところ頑固なんだから!


とのことだった。

 上京から一年ほどすると、弟からも手紙が来た。

姉さんへ
 久しぶり。俺の方は、まあそれなりに大変な事はあるけど、楽しくやってるよ。
 姉さんはどうしてる?
 昨日、高校の卒業式だったんだけど、その後、父さんが店を継いでいいって言ってくれたんだよ!
 もちろん、今すぐって訳じゃ無いし、もっと色々な事を勉強してからだけどね。
 あ、そうそう、父さん、もうそれほど姉さんが出てったこと、怒ってないみたい。

それで……作家にはなれそう?
 無理だったら家に帰ってこればいい、なんて母さんは言うけど、俺は姉さん帰って来たら怒るからね。

夢を簡単に諦めるな!我が家に姉さんの居場所は無い!……って言いたいところだけど、本気でつらかったら戻ってきなよ。

まあ、それでも怒るけどな( `ー´)ノ

 姉さんの最愛の弟より

 この手紙を見た時、思わず笑ってしまった。

顔文字って……


 弟は、なんだかんだ言って優しい。遠回しだけれど、きっと誰よりも人思いだ。

やっぱり、私が継がなくて正解だよ、お父さん


誰に言うでもなく、そう呟いた。

 その後、私はいくつかの賞に応募してみたものの、全て落ちてしまった。
 そしてその原因は何か、知りたいと思い、二十歳の時、ついに持ち込みをして、今に至る――。

 ……何時の間にか寝てしまっていたようだ。ほんの少し開いたカーテンから、日の光がさしている。



 ――夢を見た。誕生日に、自転車を買ってもらった時の夢。
 滅多に笑わない父が、満面の笑みを浮かべていた。
 弟が羨ましがっていた。
 弟にまわっても使えるように、黒い車体の自転車。
それに機嫌を損ねかけた私に、よく分からないくせに飴を買ってきてくれたっけ。
 私がありがとう、と言うと、優しく頭を撫でてくれた――。

その時の笑顔思い出して――愛されていたんだ、と今更ながら、私は実感する。
 あまり構ってはもらえなかったけれど、私は愛されていた。母や弟が、夢を応援してくれたのが愛情なら、父が反対してくれたのもまた愛情なんだろう。

……会いたいな


そう思った。唐突に、だけれどはっきりと。

 弟は怒るだろうか。ただの里帰りなのだから、怒らないで欲しい気持ちが半分、でも、怒ってほしい気持ちも、半分。

 ……父はどうだろう?
 頑なに怖い顔をしてみせるか、或いはもう普通に接してくれるか。
 母はきっと、優しく笑って出迎えてくれるだろう。


 私はカバンから携帯を取り出した。電話帳から、編集長の番号を選ぶ。

編集長ですか?私です。
……はい、その記事書いた奴です。

 あの、ニ、三日……出来れば四日ほど、休暇もらえませんか?あ、有給じゃなくて良いですから!
 何するんだって……里帰りです。

 いや、何時からでも構いません。……来週?四日間?ありがとうございます!

はい、失礼します。


 電話を切った後、ふう、と静かに嘆息する。


 ――久しぶりの故郷。長く帰れていない場所――。

 ふと、ベッドから起き上がり、窓の外に目をやった。

注ぎ込む陽光に目を細めて、それからゆっくりと開く、と、そこには空があった。

 当たり前の事なのだけれど、久しぶりに見たような気がする。

 ビルに囲まれ切り取られ、まるで別物だけれど、それは懐かしい、故郷の町に続いているのだ――

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