女の子は、可愛くなければいけない。
女の子は、可愛くなければいけない。
笠原さんってさあ、中間テストの結果どうだったの?
ああ、あの人また十三位だったんでしょ? すごいよね、ゆるふわ系なのにガリ勉で
優秀すぎてはいけない。男の子のプライドを折ってしまうほどに優秀ではいけないが、話題が合わせられなければいけないので、ある程度は出来ないといけない。
それは、学業も運動も、という意味だ。
えー、なんかキツい感じ。あたし、笠原さんには話しかけらんない
なんか、孤独を愛しちゃってる感じするよね
あ、それわかる!
他の出来ない女の子と戯れると自分の価値が下がるから、極力友達は選ばないといけない。男の子なんてもっと慎重で、結婚相手の候補に出来ないのなら、友人関係を持ってはならない。
友達が出来たら、親に会わせなければならない。
それが、我が笠原家の家訓だった。
見定めてるんでしょ、人のことモノサシで測ってんの
感じ悪いよねー
なんか中学の時、教師の指導が悪いってホームルームでキレたらしいよ
うわ、怖!
その家訓を、あたしは心底くだらないと思っている。
甘口キャットフード
思い返せばその日は朝から気分が重くて、あまり人と接することができるようなコンディションではなかった。
それでも、どうにか愛想笑いを振り撒きながら、クラス内のガールズ・カーストの中で揉まれて、どうにか自分の居場所を守っていた。
ちょうど中間テストの前後だったから、余計に気を遣った。たかが各教科の採点如きで、その人自身の価値が左右されると思ったことは無いけれど、現実的にはテストの結果次第で優劣関係が生じていると思われてしまうのが、学力テストという物だと思う。
笠原家の都合上、どうしたって良い点数を取るしかない私はいつも、優秀な男子生徒には敵わないけれど、そこいらの人よりは出来る、という中途半端な位置をキープしている。これがあまりにも露骨なため、クラスの女子からは煙たがられるのだ。
その結果、表面的には仲良くするけれど、陰口を言われ、なんとなくクラスの輪から迫害され『気味』という、喉につっかえた餅のようなポジションを与えられている。
あ、笠原さん。悪いけど今日、日直お願いしていい?
日直……って、帰りの掃除のこと?
うん。ちょっと今日は、親に呼ばれててー、終わったらすぐに出ないといけないんだよね
…………別に、良いけど
まあ、十中八九、日直をさぼりたかっただけなのだろう。もしくは、あたしに対する当て付けなのか、どちらかだ。
あ、もしもしミキ?
教室を出るなり携帯電話を開いて、親に掛ける電話ではないことを証明して行く彼女。……もう少しマシな嘘を吐け、と脳内では思いつつ黒板を拭く。
やっぱり、あたしに対する当て付けだった。
八十点女。
……それが、周囲のあたしに対する評価だ。勉強も運動も八十点。なんでも、本当はそれ以上取れるのに、ちょっとドジを意図的に踏んでいる、と思われているらしい。まあ当たらずとも遠からずなので、ここに反論するつもりはない。
品行方正に括弧を付けて『笑』まで入るので、基本的に学校の仕事は私に任せておけば良いと思っているようだ。
あたしだって普通の人間なので、小馬鹿にされれば腹も立つ。それでもあたしが彼女等に言い返さないのは、万一喧嘩になってしまったら、親に何を言われるか分からないからだ。
だから、黙っている。親に言い返せない、自立していないあたし自身が情けなくて、あたしはあたしが嫌いだ。
いっその事、泣ければどんなに楽か。悲しいかな、この程度の事なら人間、時間が経てば慣れてしまうものらしい。別に上履きを隠されたり椅子に画鋲を入れられたりはしないので、まだ程度をわきまえていると言うべきかもしれない。
……やれやれだ。
教室の掃除を終えると、校庭に出る。六月の空はどんよりと曇っていて、空気も湿っぽい。……これは、一雨来るかな。出掛けに予想して、自転車を置いて来たのは正解だったかもしれない。
運動部男子はこんな日でも、実際に降られなければグラウンドで練習をしている。
インターハイ、近いんだっけ。運動部だった事が無いからよく分からない。
テニスコートで暴れ回る男子を見て、柵の向こう側で女子がはしゃいでいた。携帯電話を向けている所を見ると、あれはカメラを使っているんだろうか。
最近の携帯電話は画面がタッチ出来るようになったとかで使い方が変わって、もはやあたしには喧嘩を売られているようにしか思えない扱い辛さだから、よく分からない。
……ね! カッコ良いよね!
きゃあきゃあと、黄色い声を上げている。
あたしも、あんなのに混ざることができれば、少しは女子と話せるようになるんだろうか。
…………
想像が付かない。
帰ろう。
○
しまった。
自転車を置いて、肝心の折り畳み傘を忘れるなんて。あたしはアホか。
咄嗟に公園へと駆け込んで、屋根付きのベンチに逃げ込んだは良いけれど……まいったなあ。六月の雨は豪雨ではないけれど長いから、このまま降られてしまったら親を呼ぶしかなくなる。
あんまり、親の助けを借りたくない……けれど、傘を差さないで帰ってしまったら、それこそ何を言われるか分からない。
どうしよう。
…………あーあ
結局こういうところで親を頼らなければならないのが、子供なんだなあ、と思う。
アルバイトをして家を出られるようになったら、この家の呪縛から逃れられるのに……と思ったけれど、我が家に限ってそれは無いか、と思い直した。今時珍しい程に箱入り娘だから、きっと仕事を始める時には、それなりの何かが待っていると考えるべきだろう。
面倒だ。漠然と、そう思う。
もしかして、笠原さん?
わひゃいっ!?
背中から声を掛けられて、思わず仰天してしまった。
あっ、ご、ごめんなさい……!!
私が驚いてしまった事に驚いて、頭を下げる彼。
身長は百七十五くらい。痩せ型だけど、筋肉はしっかりしている……ふわふわとした茶髪で、目なんかはカラーコンタクトでも入れているのかと思える程に茶色い。……でも高校ジャージのままだから、きっとコンタクトレンズでは無いんだろう。
たぶん、運動部だ。
あれ。どこかでこんな顔、見覚えがあるような……どうにか、記憶の中の存在と照らし合わせた。
さっきの、テニス部の?
…………いや、一応、同じクラス、なんだけど
思い出した。ってさっきから、随分と失礼な事になってしまっているけれど。
ご、ごめんなさい。小森くん、だよね
結局、疑問形でしか名前も言えないあたしだった。
小森(こもり)祐太(ゆうた)。テニス部のエースで、帰宅部まっしぐらのあたしとはおおよそ対極に居るような人だ。ミステリアスイケメン枠? だとかなんとかで、クラスで一時期話題になっていたのをよく覚えている。
今でも隠れファンは多いとか何とか……主にあたしの事を批判している人々が言っていたのを、どこかで聞いたような気がする。
傘、持ってないの? ……送って行こうか?
ナチュラルに傘を差し出しているけれど。……随分と、大きい傘だな。あたしぐらいのサイズなら、すっぽりと収まってしまいそうだ。
……いやいや、いいよ。ちょうど今、親を呼ぼうかなーと思ってた所だったし
いや、そんな。こっち側に居るってことは、家近いんでしょ? 放っておくのも悪いかな、と思って
ふーん。随分と、スマートな対応だった。……やっぱりイケメン様はこういうの、慣れているんだろうか。
でもこれ、相合傘だけど。いいの?
俺の傘大きいから、別に濡れないよ
いや、問題はそこではなく。
…………あっ!? い、いや、別にそういうつもりで誘ってるんじゃなくて……
遅っ。
そうか。ミステリアスイケメン、と呼ばれる理由がなんとなく分かって来た気がする。ちょっと、どこかズレているのかもしれない。
不思議な雰囲気を持っている人だ。どこか眠たげな印象を受ける。睡眠時間、ちゃんと取っているんだろうか。
でも、この様子だと下心なんてなくて、本当にあたしを心配して言ってくれているんだろう、というのは、何となく分かる。
分かるけどさ。
小森くんと相合傘、バーサス、親に電話して車で迎えに来てもらうコース。
じゃあ、お言葉に甘えようかな
前者だな。
親にはコンビニで傘を買って帰った事にして、送って貰った事は伏せよう。と、人知れず決意するあたしだった。
うん、おいでおいで
…………おいでおいで、って。なんか、ペット呼んでるみたい。思わず赤面してしまうあたしだったが、小森くんは当然のように気付いていない。
変な人だ。
○
しんしんと、雨は降り続く。朝は晴れてたけれど、小森くんはちゃんと傘を持って来ているんだな。あたしも朝のニュースで降らないと言ったから持って来ないんじゃなくて、ちゃんと降水確率を見てリスクを取る事にしよう、等と下らない事を考えていた。
小森くん、部活だったんだよね?
うん、雨降ったから中止になって。そしたら、笠原さんを発見したからさ
よく見付かったね。あの屋根のベンチ影になってるから、外からだとよく見えないでしょ
大丈夫だよ、笠原さん見付け易いし
…………そう、なのか?
あたしは背も低いし、別にこれといって変わっているアクセサリーを身に着けている訳でも無いし。
ああ、あれか。髪がもっさりしているからか。
小森くんはさ、変わってるよね
へ? どこが?
いや、別にクラスでも大して話とか、してなかったから。あたしに声掛けるの、緊張とかしなかったのかなあ、って
あー……
何故、そこで苦笑するんだろう。
……うーん。何を考えているのか、いまいちよく分からない。
飼ってた猫に、なんか似ててさー
思わず、呆然としてしまった。
……文脈的に、あたしが、だよね。……一体、何を見てそんな事を言っているんだろう。
ものすごく恥ずかしい事を、さらりと言う人だった。
いつも雨降ると、どっかの屋根の下に隠れてるんだよね。そのせいで、今でも見ちゃってさ
そう言う小森くんの目は、どこか優しげで。過去を、振り返っているようにも見えた。
なんとなく、彼がどれだけ、その猫のことを大切にしていたのか。その片鱗が、少しだけ見えたように思えた。
そのせいで、今日も笠原さんを発見――――――――
小森くんがあたしを見て、会話を中断した。
……
…………ごめん、なんかまずい事、言ったかな
ううん、気にしないで
ふと、思ってしまったのだ。
――――いいなあ。
その猫は、小森くんにきっと、すごく愛されているんだろう。きっとあたしみたいに、親の体裁の為だけに働いて、やりたい事も出来ない生き方はしていないはずだ、なんて。
猫と比べても仕方がないことなんて、自分が一番よく分かっている事ではあるけれど。小森くんがとても隙が多い人だというのは分かったから、きっとのびのびと暮らしているんだろう。
あたしとは正反対だ。
今はいないの?
そう問い掛けると、小森くんは寂しそうな顔で笑った。
猫アレルギーだって判明してさ、俺。寄って来るたびにくしゃみするんじゃ可哀想だから、別の人に引き取ってもらったんだ
話しているうちに、雨はどんどんと強くなっていく。小森くんの傘は大きかったけれど、それでも肩が濡れてしまうくらいには、本降りになっていた。
それきり、あたしと小森くんは何も喋らず、道を歩いていた。猫の話題が途切れてしまって、あたしと小森くんを繋ぐ話題は、それ以外に何も無かったからだ。
…………家、学校から近いんだね
結局、話題に困った挙句、あたしから飛び出した言葉がそれだった。小森くんは何かを思い出していたのか、ふと我に返ったようになった。
……良かった。会話が無くても、気まずくならないタイプか。
ああ、笠原さんもね
小森くんとの会話はゆっくりとしていて、独特のテンポを持っていた。あたしは、そのゆったりとした雰囲気に少しずつ、惹かれ始めていたのかもしれない。
そうでなければ、あたしの方から何かを話し掛ける事なんて、日常では殆ど無い事だったから。
あたしは、そもそも電車ってあんまり乗らせて貰えないから
え、そうなの?
信じられる? 今時、電車に乗るにもICカードなんて持たせて貰えなくて、使った切符を提出する義務があるの。どこで何をしてきたか、レシートまで見せないとぐちぐち言われるんだよ
そりゃ、すごいね……
まあ、その代わりにお金は全部、親が出してくれるんだけどさ。そもそもお小遣いという制度が無いので、親にねだらなければ何も買って貰えないし、遊びにも出られない。
あたしはまるで、檻の中に閉じ込められているようだ。散歩で一時的に外には出られるけれど、それだけ。目新しい景色や自由気ままに旅をする事なんて、考える事もできない存在。
うちは、親が殆ど居ないからね。なんだか新鮮だなあ、そういうの
でも、小森くんはそんなあたしの境遇に引く事なく、ゆるい雰囲気のままで笑った。
え、そうなの?
どっちも働いていて、会社では重要なポストだったりするから。父さんと母さんの休みも合わないし、大体テーブルの上にお金が置いてあるだけだなあ。まあ、たまに会うと幸せそうだから、これといって文句を言う事も無いんだけど
だけど、そう言う小森くんの顔は、どことなく寂しさを伴うそれに変化していたように思う。
雨のせいだろうか。それとも、猫の話をした後だったから、勝手にあたしがそう思った、というだけの話なんだろうか。でも、なんとなくあたしには想像できてしまった。
家に帰ると、当然のように誰もいない。朝になると既に親は居なくて、テーブルの上にお金が置いてあるだけの生活。
――――どんな事を、感じて来たんだろう。今まで、たった一人で。
なんか、対照的だね、あたし達
降りしきる雨の中、大きな黒い傘を二人で差して、歩きながら。あたしは、呆然とそんな事を考えていた。
あたしの辛さとは違う。でも、小森くんもきっとどこかでは、辛かった筈だった。寂しかったのではないかと思えた。若しかしたらそれは、親が鬱陶しいとぼやくあたしなんかよりも、遥かに大変な想いだったのかもしれなくて。
なんか、新鮮だな。俺、笠原さんの事はお嬢様な人なんだと思ってたけど、中身は案外サバサバしてるんだね
サバサバ? してないよ。それより小森くんの方が、なんか一人で生き慣れてる感じ。もっとあったかい家庭なのかと思ってた
あったかい家庭、ねえ。むしろ、憧れるな
あたしは、小森くんの話していた、居なくなった猫というのが、小森くんにとってどれだけの、心の支えになっていたんだろうかと。
そんな事も、考えていた。
なんか雨、強くなって来ちゃったね。夜には止むって言ってたけど
…………そうだね
笠原さんの家、ここから遠いの?
うん、もう二十分くらい歩くかなあ
…………二十分? それって、電車に乗った方が早くない?
そうなんだけど、電車に乗ったら切符がめんどくさいからね
ああ、そうか……そうだったね……
まあ、いつもは自転車なんだけどね。最近雨続きだから、こんなかんじ
十字路の交差点に差し掛かった所で、小森くんは立ち止まった。信号機は赤の表示だったけれど、あたしにはそれ以外に、小森くんには立ち止まる理由があったように思えた。
案の定と言うのか、小森くんからあたしに、ある提案が来た。
うちは近いんだけど、もし良かったら雨宿りしていく?
そう言って、あたしの家とはまるで違う方角を指差して、小森くんは言った。
え、でも、いいよ、悪いし
いや、うち誰も居ないから問題ないよ。雨止んだら、チャリで送るし
それが悪いと言っているんだけど。
普通は男の子の部屋になんて、まして家族が居ない状態なら、絶対に行ったりしないだろう。あたしだって見知らぬ男の子の家に易々とお邪魔するほど神経は太くないし、馬鹿でもない。
でもきっと、小森くんはそういう下心があって、あたしに声を掛けている訳ではないんだろうなあ、というのは、これまでの話の流れで何となく理解していた。
…………あっ、別に変な意味で誘ってる訳じゃないから、帰りたかったらこのまま家まで送ってもいいよ? なんだったら傘、持って行っても良いし――――…………
この、遅れた気付きからの焦り具合を見ていると、つい微笑ましい気持ちになってしまう。
猫の居なくなった小森家、か。どんな雰囲気なんだろう。小森くんと言えば、何を考えているのか分からないというのが定説だったし、運動部で分野もまるで違ったから、今まであたしは彼に興味を持つ事なんてなかった。
でも、それでも、あたしは。
ありがと。……じゃあ、お言葉に甘えようかな。家に電話していい?
あ、うん。……いいの?
見てみたいし、小森くんの家
…………初めて話した男の子の家で雨宿り、か。親が知ったらものすごく言われるんだろうな、きっと。
それでも、今まで当たり障りなく、言われた通りにやってきたのだ。
たまには嘘をついてのんびり帰っても、良いんじゃないだろうか。
○
小森くんの家は、あたしの想像していた以上に、かなり大きかった。
中、入って。タオルとか使う?
ううん、そんなに濡れてないから大丈夫だよ
あたしよりも、小森くんの方が遥かに濡れている。どうせ、あたしが濡れないように気遣ってくれたんだろう。靴を脱いで部屋に上がると、あたしは廊下を歩いてリビングに出た。
着替えてくるから、適当にくつろいでていいよ
明るい部屋だ。
フローリングは存在を主張し過ぎない薄めの色合いで、カーペットはシックな雰囲気のある臙脂色。テーブルはメープルの軽いもので、高い天井から吊り下げられた照明が可愛らしい。
生活の匂いが、あまりしない。どこかピンぼけしていてモノクロで描かれたような、不思議な家。
でも、どうしてだろう。
何故か、その部屋からは懐かしい香りがした。……まるで、ずっと前からここに居たかのように。
あたしはソファに座って、小森くんが戻って来るのを待った。
…………そういえば、小森くんと初めて会った時も、そんな雰囲気を感じていた気がする。
まるで、ずっと前から一緒に居たような。
ざあざあと、雨は降り続いた。
お待たせ…………
たぶん、小森くんがあたしにそう言う言葉のうち、あたしは半分くらいしか頭に届いていなかったと思う。
ただ、ここ数日は学校の関係でも家の関係でも、悩まされる事が多かったからか。
どうにも来たことがあるような気がした小森くんの家が、あたしにとって居心地が良すぎたからなのか。
あたしは、ソファに倒れ込むようにして、そのまま眠ってしまった。
洗いざらしの、シャツの匂い。
外から運ばれて来る、雨の匂い。
少し埃っぽい、でも木材の香りがする、古い家の匂い。
誰かの匂い。
○
いつから、あたしの親はあんな風になってしまったんだろう。
小学校を出る時は、まだ普通だったように思う。それが、段々といつからか厳しくなって、ルールが増えた。それはあたしだけでなく、家族全体のルールが増えて行ったのだ。
誰かが何かをすると、誰かが文句を言う。だから、そんな文句が出ないように、新しいルールがひとつ、増える。きっとあたしの家は、そうやってルールを増やして来たのだ。
でもそれは、決して生き易くなるような類のモノではなかった。きっと、そういう事だったんだと思う。がんじがらめにルールは人を縛り、やがて人の人格も変えてしまった。
それ程に、環境によって左右される生物なんだろう、ヒトというものは。
きっと、誰もが望んでいるんだ。あたしだけではない、家族の中の誰もが、こんな不愉快なルールは取っ払って、自由気ままに生きてみたいって。でもそれは、誰かが先行してやっていかないと変わらない。
暗闇の檻の中に、あたしは一人。そこに物音はしないし、あたしの目の前には幾つもの鉄格子があって、あたしはこれを取り払えない。
そんな鉄格子の向こうから、手を伸ばしてくる人がいる。
――――――――誰。
…………あっ……
目を覚ました。
自分が眠っていたのだという事に気付いてから、現状を把握するまでには数分以上の時間が掛かった。元々、低血圧なのだ。寝起きは生活時間の中でも、最もあたしの動きを鈍くする。
それでも、どうにか身体を起こして辺りを見る。あたしは膝を枕にして眠っていたようで――――…………膝?
ひー…………!!
どうにか声を押し殺したけれど、掠れたような音が出た。
どうやらあたしは、小森くんの膝を枕にして眠っていたらしい。事もあろうに、殆ど初対面に近い男子の家にお邪魔したばかりか、殆ど初対面に近い男子の膝を枕にして眠ってしまった。……どういう状況だ、これは。
しかも、小森くんまでソファに座ったまま、すうすうと寝息を立てている。
あたしは制服のままだ。
まあ、この人に限って、何かの間違いが起こるなんて事は無いだろう。……今もこうして、間抜け面のままで眠っている事だし。
時刻は十八時を回っていた。あたしがここに来たのが何時だったのか覚えていないけれど、そろそろ帰らないといけない。親には図書館で勉強して帰ると言ってあるのだ。
んー…………
大きく伸びをしても、小森くんは起きない。……あたしのガードが緩んだのかと気にもなったけれど、この家に唯一暮らしている彼がこの様子では、緊張も解かれるというものだと思う。
独特の時間が流れる場所だ。まるで、物語の中の世界に来たみたい。
でも、不思議と居心地は悪くない。
雨は止んでいた。
あたしは、部屋の隅に置いてあった鞄を手に取った。
…………あれ、もう帰るの?
うん、そろそろ帰らないと、親が心配するから
いいなあ。
小森くんの猫は、こんな時間を過ごして来たんだ。
ゆったりとしたメトロノームのようなリズムで、時計の秒針の音さえはっきりと聞こえるような、静かな場所で。
同じように穏やかで、ふわりとした雲のような主人と共にいた。
ごめん、俺も寝ちゃったみたいだ。……送るよ、家まで
いいって、いいって。もうここからは、大した距離じゃないし。ありがとね、雨宿りさせてもらって
軽く手を振って、そのままで良いと促す。小森くんは少しだけ申し訳なさそうな顔をしたけれど、あたしはお礼を言うべき状況だ。
たぶん、こんな事はもう二度と無いんだろうけど――――…………
…………また来ても、いい?
あたしの口から、そんな言葉が飛び出していた。
小森くんは、まるで数年前から会っていた友人の顔を見たかのように、少し愛嬌のある笑顔を私に見せた。
もちろん。いつでも来てよ
小森くんがあたしを見付けたとき、飼ってた猫に似てたから、と言っていた。
あたしはそれなら、小森くんの猫になってみたい、などと思ってしまった。
ゆったりとした時間の中で、それでも変わらずに、ただ幸福な時の中に沈んで、包まれてゆく。
またね、小森くん
そんな空間でも、時間の止まっていたあたしにとってはきっと、密かな前進の一歩なのだろう。