――空を、自由に飛びたい。

 真尋が空を見つめ、そう想ってすぐのことだった。

飛んでみますか?

……はい?

 校舎の屋上から空を見つめていた真尋は、その声ではっとなる。
 そして、その声が出ている場所を見つめて、今度はぎょっとする。

え、あの、どういう、こと?

ですから、飛んでみませんか?

なんで、飛んでるの!?

 絶叫なんて、何ヶ月ぶりだろうか。
 塞ぎ込んでばかりだった口から出た声に、真尋自身もびっくりする。

あっ、とと

 大声で叫んで、校庭や周囲に響いていないか不安で口を閉じる。
 すでに手遅れではあるのだが。

落ち着かれましたか?

いや、落ち着くもなにも

 眼の前の相手が話しかけてくる現実に、真尋の認識が追いついていない。
 なぜなら、真尋が話している相手は――空を、飛んでいるのだから。

あなた、いったい、なんなの?

わたしですか? そうですね、名前はありませんね~

 そう受け答えながら、眼の前の少女は背中の羽を小刻みに羽ばたかせる。
 そこでようやく真尋も背中の羽に気づいて、なるほど背中の羽で飛んでいるのか納得した、と想いこもうとしたのだが。

……いやいやいや、そうじゃないでしょ!

 彼女は羽が生えて、飛んでいる。
 少なくとも、人間ではない。

あの、あなたは……

それで、どうしますか?

え?

 少女に問いかけられるが、真尋には見当がつかない。
 見れば、自分と同じくらいに想える外見の少女。
 全身、白色で統一された少女は、かすかな微笑みを浮かべながら真尋に言った。

ご一緒に、空を飛びませんか? そう、聞いたのですよ

一緒に、空を……?

 それはいったい、どういう意味なのだろうか。
 真尋の問いかけに、少女はにこりと微笑む。

空は、自由ですよ

 白い白い、まるで蝶のような外見。
 少女は背中の羽を羽ばたかせ、青い空に向かって羽ばたく。

うわ……

 まるで映画の中のワンシーンのように、少女は青い空を舞う。
 止まることなく、流れるように、少女は本当の蝶のように世界に羽ばたいていた。

(きれい、だな)

 真尋は内心で、少女の美しさを誉める。
 そして、考える。

 ――ご一緒に、空を飛びませんか?

 少女の誘いの言葉への、返答を。

あなたは、空を飛びたそうに見えたので

わたしが?

 少し意外に想ってそう返答するが、確かに、言われてみればそうかもしれないと考えてしまう。
 なぜなら、今の足下がとても重いから、真尋はこの屋上へと逃げてきたのだから。

……あなたは、そうやって、ずっと飛んでいるの?

 少女が何者なのか気になったが、真尋が問いかけた言葉は、飛ぶことへの関心だった。
 真尋が彼女を見つけてから、その身体は常に空にあり、地上に着いたことはなかった。

そうですね、休むこともありますけど。基本的には、ずっと飛んでいる感じですね。だって、軽いですから!

 少女も真尋の言葉に、飛ぶことの楽しさを伝えるような答えを返す。
 仕草も軽やかで、まるで、この地上の束縛から解放されたかのような動きを見せる。

ずっと飛んでいるのって、どんな気分なのかな

 真尋の興味に、少女も受け答える。

そうですねぇ。とても気持ちよく、解放された気分になりますよ

解放……軽く、なる……

 うわごとのように呟いた真尋は、少女の姿を見つめた後、引かれるように頭をたれた。
 真尋は、足下を見つめながら、呟く。

それって、もう、今の重さはなくなるのかな

 その一言で、真尋の心は重く、黒く塗りつぶされる。

今、想っていることが――空を飛びたいと想った、理由ですか?

 少女は、心が読めでもするのだろうか。
 真尋は、だったらかまわないか、と想いながら口を開いた。

今ね……いろいろあって、足がとっても重いの

 記憶を振り返りながら、真尋は少女へ口を開く。
 彼女が語ったのは、今の自分の境遇だった。
 それなりの高校に進学し、それなりの日々を、静かに過ごしていた真尋。
 特に事件が起きるわけでも、格別に仲の良い友達がいるでもない。
 ただ、平穏に過ぎていくだけの日常――の、はずだった。
 ある日、好きな人に告白され、真尋は幸せの絶頂に至った。
 だが、その人物は狭い学内の中で、ある影響力を持つグループからも一方的に好かれており。
 真尋は、その者達からの誹謗中傷や陰での噂などを、真っ向から受けることとなった。
 イジメとはまではいかないものの、クラスのなかでも孤立したような状況になってしまった。
 かろうじて、親しくしていた友達も付き合いはしてくれているが、距離を置かれてしまっている。
 別クラスだった彼には、不安をかけまいと、まだ相談できていない。
 それに――真尋は、彼に対しても、不安があった。
 成績も優秀で、人柄もよく、みなに好かれている彼に――真尋自身が並べていないのではないかという、自分への不安が。

だから……どうしていいのか、わからなくなっちゃって

 真尋のか細い呟きに、少女は問いかける。

親しい方や家族へは、相談していないのですか?

 痛いところをついてくる少女の言葉に、真尋の顔がさらに険しくなる。

わたし、転校してきたから……今は、遠いところなの。心配させたくない

 真尋は、次の言葉を言うのをためらったが、口にした。

それに……父と母も、相談なんてできないから

なぜですか?

あの人達、自分のことで精一杯だもの

 ――自分のことを押しつけ合って、わたしのことも、物みたいに見てるもの。
 いつも争いばかりしていた両親が、離婚の話を期に落ち着いたのは、悪い冗談としか真尋には想えなかった。

仕方ないんだけれどね。父と母の笑った顔なんて、もう数年は見ていないし

 だから、どちらかに引き取られるはずの自分は、ここで学校から消えてしまった方がいいのだとも想えた。
 けれど――彼のことが好きだという気持ちも、確かに残っていて。
 なのに、自分はどうしたいのか、この澱(よど)みのなかで選べていない。

……学校でのこと、家でのこと、彼とのこと……疲れちゃったの

 真尋が屋上に来たのは、気分を晴らせるかと想ったからだ。
 そうしたら、こんな不思議な少女に出会うことになるなんて。

話せて、ちょっとスッキリしたかも。ありがとう

 真尋は、少女にお礼を言う。
 だが、少女の返答は、真尋の想像を越えるものだった。

やっぱり――ご一緒に、飛びませんか?

……え?

お辛いのなら――空へ、わたしと行きましょう

空、へ……

 少女は、片手を差し出して、真尋を誘う。

でも、わたしはただの人間で、空なんか飛べないわ

 すると少女は、驚いた事実を告げた。

わたしも、あなたのような人間だったんですよ

え……?

 少女が告げた事実に、真尋は驚く。

で、でも、羽が生えてるし、人間がどうして?

 真尋の疑問に、少女はあっさりとした口調で答えた。

飛んだんですよ。そうしたら――羽が、生えたんです


 ぞくり、と。なぜか、真尋の背中に寒気が走った。
 少女のその言葉は、うまく表現できない、冷たさがあったからだ。

――わたしは、嬉しいですよ。だって、一緒に飛んでくださる方が、できるんですもの

 少女は、薄い微笑みを浮かべながら、真尋に向かって手を差し出してくる。

 真尋は、少女の全身に視線を走らせる。
 白い白髪と、白い肌。細い手足と、それを覆う白い着物。そして、それらを空へと支える、二枚の大きな羽。
 あんな、白い蝶のような姿で、空を飛べるのなら。
 今、足下を重くさせている、この地上の辛さから解放されるのなら。

それも……いい、のかもしれないわね

 ゆっくり、真尋は自分の右手を彼女へ向かって差し出した。

では……行きましょう

 少女は、真尋の手をぎゅっとつかんだ。

……!

 だが、少女の手が真尋に触れた瞬間。

 その手は、温もりなど無縁な、氷のような冷たさだった。

えっ……

 動揺する真尋を無視して、少女はにっこりと笑い――羽を、ゆらめかせた。

さあ、一緒に――行きましょう

 少女が羽ばたいて、真尋の身体が空へとわずかに浮いた。
 瞬間、真尋の身体から、なにかが抜け落ちるような奇妙な感覚があった。

これから、もっと、軽くなりますよ

かる、く……?

 少女の言葉を聞いた、その時だった。

(――なんで、こんな時に)

 心に浮かんだのは、過去の記憶だった。
 時系列も、場所も、人も、すべてバラバラだった。
 けれど、そこには、熱があった。
 告白してきた彼の、不安だけれども真剣な表情。
 風邪を引いた時に、見舞いに来てくれた友達の心配そうな顔。
 そして、幼い真尋に対して優しく微笑む、両親の笑顔。
 それ以外にも、様々な記憶が、真尋の胸へと吹き出してくる。
 わずかな年月しか生きていないと想っていた真尋は、自分の中にあった様々な記憶に困惑しながら。

――イヤッ!

 知らず、少女の手を想いきり、ふりほどいていた。
 浮かんでいた身体が、地面へと落とされる。

……っ!

 衝突の痛みが全身に走るが、真尋は、その重さに安堵した。

う~ん、やっぱりダメですか

 ゆっくり、少女は真尋の様子を見つめながらそう言った。
 身をかがめて、言葉だけをその耳で聞いた真尋の背中に、また寒気が走る。
 今度は、わかった。その寒気の正体は――見知らぬ者への、不安だった。

ごめん、ごめん……! わたし、わたしは……

 動揺する真尋の口から出た言葉に、少女は微笑みながら答える。

いいんですよ。こうなるの、初めてじゃないですし

 少女の言葉は、あっさりとしたものだった。
 あまりにも軽いその言葉に、動揺が少し収まった真尋は、少女の姿をしっかりと見る。
 そこには、さきほどまでと変わらず、微笑みながら空へと浮かぶ少女の姿があった。

わたしも、昔、どこかの屋上から飛んだことがあるんですよ。もう、なんでなのか、ぜんぜん覚えていないんですけどね

 少女の告白に、真尋は聞き返す。

覚えていないの? なんで

わかりません。でも――

 少女は、少し思案するような表情の後、真尋に告げた。

――でも、想い出せないのは、わかるんです。わたしのなかに、その過去が、大事じゃないからなんですよ

そんなことって……

 真尋は、彼女の語ることを、とても悲しいことだと感じた。
 もし、さっきの真尋のような記憶がありながら、彼女が過去を捨ててここにいるのだとしたら――彼女は、どうしてそんな選択をしてしまったのだろうか。
 真尋には、理解できなかった。

そんなことって……悲しすぎる、じゃない

そうなんですか?

 あっさりとした少女の返答に、真尋が驚く番だった。

逆に私は、もう飛ぶことしかできませんからねぇ。だから、重くなっても……困るだけだと想いますよ?

 少女の言葉に、真尋は自分の言葉の意味を考えた。
 あくまで真尋の言葉は、足下の重さから出ている言葉なのだ。
 なら、もう空へとその身を移してしまった少女にとって――真尋の重さは、邪魔でしかないものなのだ。
 そして真尋は、自分の足が地面に着いていることに――安堵していることを、気づき始めてもいた。

だから、まだ、想いだせる記憶があるのなら、飛んじゃうのは早いと想いますよ~

 少女は軽く身体を一回転させ、自分の身軽さを主張するように、はばたいた。

重さがあると、いけないのね

だって、身軽じゃないと……飛べませんから

 少女の答えは、別れの言葉だったのかもしれない。
 ぴたりとその動きを止めた少女は、軽く片手を左右に振る。

お別れですね

 それから少しずつ、少女は広い空へとその身を上げていく。

ねえ、また……お話しできる?

 真尋は、少女と別れるのが惜しくなった。
 理由はわからない。同情なのか、興味なのか、自分でもわからなかった。

だめですよ

 けれど、真尋の問いかけは、あっさりと否定された。

どうして?

だってわたしは……一緒に飛ぶ相手を求めて、さまよっているだけなんですから

 真尋は少女の言葉に対して、返す言葉を持たなかった。
 自分は、少女を受け入れることができなかった。
 それだけは、わかっているから。
 真尋の様子を見てなのか、少女は、言葉を継いだ。

でも、そうですね。……わたしの手をつないで、一緒にいたいと想ってくれる時が来たら、またお話しできるかもですね

……そう、ね

 だが、少女にも、真尋にも、わかっていた。
 その日が来ることは、ないだろうと。

じゃあ、また会えないことを願って

 少女の言葉は、真尋に対する優しさだったのだろうか。
 少なくとも真尋は、最後の言葉をそう感じた。

 ――しばらくして、少女の影も見えないくらいに、真っ青な空だけが真尋の眼に映っていた。

彼女は、会えるのかな

 ぽつりと呟き、それがどんな意味があるのかを考えてしまう。
 少女が独りでなくなる時は、それは――彼女と同じような命が、空に舞った証なのだ。
 それは、彼女の孤独を解き放つけれど、新たな魂が散ったことも意味している。

 ――だけれど、と真尋は足下の感触をかみしめて、想う。

(それは、もう、わたしには関係のない話なんだ)

 自分の足下がまだ、しっかりとあることを確認しながら、真尋はその事実を受け入れた。 

空を、自由に、飛ぶ……

 真尋は、ぼんやりと呟いて、彼女の消えた空をもう一度見上げる。
 その空は、青く広く、どこまでも広がっているように見える。

わたしは、まだ、飛べない理由があるんだね

 彼女に誘われ、あの広い空へ招かれた時。
 真尋の脳裏には、残してきた人達の重さがわきあがってきた。
 心がしめつける重さに、真尋は少女の手を離してしまい、飛ぶことができなかった。
 それが幸せなのかどうか、真尋にはまだわからないが。

 はねのけてしまった右手を見つめながら、真尋は校内へ続く扉を開け、空の見えない場所へと戻っていった。

白蝶のささやきは空への誘い

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