明日のバレンタインが憂鬱だった。
今年は貰える心当たりがないからだ。
俺の青春は終わったも同然。今はもう、何もかもどうでもいい気分でだらだら過ごしている。
女子で最近まともに会話をしている相手は、同じ科学部の後輩、野路なずなだけだった。
そしてその野路ちゃんはバレンタインデーにかけらも興味などないらしい。
明日のバレンタインが憂鬱だった。
今年は貰える心当たりがないからだ。
俺の青春は終わったも同然。今はもう、何もかもどうでもいい気分でだらだら過ごしている。
女子で最近まともに会話をしている相手は、同じ科学部の後輩、野路なずなだけだった。
そしてその野路ちゃんはバレンタインデーにかけらも興味などないらしい。
野路ちゃんって誰かにチョコとかあげんの?
いいえ
利益が元手を上回らないと判断しているので
予想してたけど、つまんねえ答えだな……
それよりも、私
現在は惚れ薬を研究しているんです
……惚れ薬?
はい
難波先輩も、興味ありますか?
いや、そりゃあ……
そもそも俺が、科学部という堅そうでマイナーな部活に入ったのには理由がある。
去年の秋、俺は小学生の頃から続けていたサッカーを辞めた。慢性的に痛めていた左膝がいよいよ誤魔化し利かなくなって、医者に止められて、辞めざるを得なかった。
できないとわかるとサッカーを観るのさえ嫌になって、スパイクもボールも処分した。交友関係もやっぱりサッカー繋がりばかりだったけど、仲のいい連中がこぞって腫れ物に触るみたいに接してきたから、こちらから距離を置くようにしたらこれ幸いとばかり疎遠になってくれた。
十年も熱心に打ち込んできたものを失えば、誰だって投げやりにもなる。
毎日をどうでもいい気分で過ごしていた俺を見かねたのか、担任が言った。
『何でもいいから、今からでも部活に入ってみろ』
しつこく言われてうんざりした俺は、膝に負担のかからない文化系の部活のうち、一番楽そうで暇そうな部活を選んだ。
それが科学部だった。
ただなあ……
科学部は科学部で、やる気ない奴ばっかなんだよな
活動日の度に集まるのは俺と野路ちゃんだけ
そしてやる気があるのは野路ちゃんだけ……
難波先輩が私の研究に興味を持ってくださるなんて、初めてですね
ああ、まあそうかもな
いつもは校庭の植物の観察だったり
学校近くの用水路の水質調査だったり
野路ちゃんがどこからか調達してきた鉱石の観察だったり……つまんねえのばっかだし
かも、ではなくて確実にそうです
今、先輩の瞳孔が開いたのを確認しました
はあ?
そんなの、見てわかるのか?
はい
人は物事や他者に対して興味を覚えると瞳孔が開くものなんです
すげえな野路ちゃん
でもあんま見ないでくれる? 恥ずかしいし
失礼しました
野路ちゃんもなあ……
俺の好みじゃないって言うか、かなり変わってんだよな
機械みたいって言うか
そう言や笑ったとこ見たことないし……
女の子と話してるってより、異文化交流してる気分になるよ
難波先輩は、もし惚れ薬が実用化できたら使いたいですか?
まあな
彼女でもできたら、人生ちょっとは楽しくなりそうだ
野路ちゃんこそ、惚れ薬研究なんてするタイプには見えなかったな
使いたい相手でもいんの?
今のところはいません
将来そういう人が現れた時の為の研究です
へえ
可愛いお嫁さんになりたいとか、野路ちゃんでも思うのか
やはり安定した生活には憧れますからね
なるべく収入のいい方と結婚したいです
か、可愛くねえ……
好きな相手を振り向かせたいから、とかじゃないのか
いいんです、可愛くなくて
だからこそ私は科学の力で勝利を手に入れるんです
ところで、先輩
『吊り橋理論』という言葉をご存知ですか
何だよそれ
危険な吊り橋の上で異性と接触すると
何もない安定した場所で接触するよりも恋に落ちやすいという学説です
それは揺れる吊り橋に対する興奮、緊張、心拍数の上昇を恋愛によるものだと錯覚することが原因だとされています
……ああ
なんか聞いたことあるかも
つまり本当に効果のある惚れ薬を作るなら、その吊り橋と同じ状況を薬で作り出せばいいわけなんです
もっともらしく聞こえるな
ですから現実的に有用な惚れ薬に必要なものは、動悸、心拍数を高める効果
それだけです
あとは誤解をされやすいように二人きりの状況を作り出した上で、隙を見て相手に投与すればいいんです
でもそれだと確実性はないよな
吊り橋理論ってやつも百パーセントではないんだろ?
もちろんです
ですが自分が相手の心拍数を上げる――つまりどきどきさせることができるというだけでも、何もない状況よりは有利だと思いませんか
自信ありげだな、野路ちゃん
何の根拠もないってわけじゃないようだ
心拍数を高める薬って、例えばどうやって作るんだ?
既に現実にあります
例えば強心剤です
……それ、どう考えても素人が投与したら駄目なやつだろ
そうですね
そうですね、じゃねえよ……
何だよもう……
ちょっと信じかけた俺が馬鹿だったよ
どうして落胆するんですか、先輩
だって普通に実現不可能だろ
相手と二人っきりになっていい雰囲気になったところで強心剤なんて打ってみろ
恋に落ちるどころか通報されて一気に加害者と被害者の関係だぞ
私は、その為の合法的な薬を作り出してみせます
野路ちゃんは俺の落胆が理解できないのか、食い下がるようにそう言った。
でも一度なくなった興味はそうそう取り戻せるもんじゃない。きっと今、俺の瞳孔は萎んでしまっていることだろう。
もういいって
さっきも言ったけど、そもそも吊り橋理論とかいうやつが当てになるかわかんねえんだし
信じられませんか、先輩
鵜呑みにする気にはなれねえな
要は勘違いだろ? 一時的なもんじゃん
惚れ薬だって似たようなものでしょう
一度飲んだら永久に体内に残って作用する薬なんてあり得ません
要は最初の誤解を、その後の進展にいかに活用するかということです
うわ、面倒くせえ……
それをどうにかすんのが科学の力じゃねえのかよ
わかったよ
じゃあ野路ちゃんの研究が上手くいったら教えてくれ
話を打ち切ろうと俺があくびをしかけた時だ。
信じられないのなら、試しに実験してみましょうか
実験……って、何の?
吊り橋理論のです
現実に起こり得るかどうか確かめれば、先輩も惚れ薬の実用化に興味が持てるはずです
行きましょう、難波先輩
科学部員として理論を証明してみせます
は? いや、ちょっと待てって
どういうことだよ
俺が慌てて、膝に負担がかからないよう席を立つと、野路ちゃんも既に荷物をまとめ始めていた。
訳もわからず困惑する俺に、いつものような笑みのない顔で言い放つ。
これからお互いに心拍数が上がり、どきどきするようなことをするんです
……とんでもないことを言われた気がする
野路ちゃんが場所を移したいと言ったので、俺達はひとまず下校することにした。
生徒玄関から外へ出ると、グラウンドから練習をしている掛け声が聞こえてきた。なるべくそちらを見ないようにして、とっとと校門をくぐる。野路ちゃんは一足先に校門の外で俺を待っていた。
で、どこ行くんだ
二人きりになれる、あまり騒がしくない場所がいいです
前に水質調査をした用水路、あの途中に橋がかかっていましたよね
あそこへ行きましょう
ああ
俺は頷いた。
野路ちゃんも顎を引くと、少しゆっくりめに歩き出した。フィールドワークと称して校外へ出る時、野路ちゃんはいつも歩くのが遅かった。
……今日は膝が痛むな
野路ちゃんは歩くの遅くて助かるよ
……
しかし……
これから何をするのか知らないが、野路ちゃんは例の実験のことをどう考えてるんだろ
もし仮に吊り橋理論ってやつが劇的な効果を発揮してしまったら、どうなるかわかってるだろうに
……
野路ちゃんは、実験の相手が俺でいいの?
他に頼める相手がいないんです
難波先輩、お願いします
けどこの実験が成功したら、俺が野路ちゃんを好きになっちゃうかもしれないだろ
もしくは逆、両方ってこともあり得るな
どうする? 俺達がうっかり恋に落ちちゃったら
その場合は『吊り橋理論を活用して始まった恋はどこまで持続するか』という実験に移行します
え……いや、そうじゃなくて
俺でいいのかってことなんだけど
先程も言いましたが、他に頼める相手がいないんです
はあ……
野路ちゃんがいいなら、いいけどな
やっぱこの子、変わってる
さすがに俺も、野路ちゃんと恋に落ちるのはないな……
やがて俺達は用水路の橋へと辿り着く。幅六メートル、深さは二メートルほどの用水路にはゆっくりと水が流れていて、橋の上から見下ろせば俺達の影が水面に映った。
とりあえず辺りには人気がなかった。用水路の片側は延々と続く防風林、もう片方は冬の田んぼに民家が点在しているだけで、水音がはっきり聞こえるくらい静かだった。
俺は橋の欄干に寄りかかり、周囲を見回す野路ちゃんに声をかける。
橋ってここだよな
で、ここで何すんの?
お話ししていた通りです
ここで、私と先輩がお互いに心拍数が上がるようなことをします
それってまさか……
いや、相手は野路ちゃんだ
普通のことをするはずがない
具体的には?
……先輩
かばん、持っててもらえますか
えっ? 何してんの、野路ちゃん
見ての通りです
橋の欄干に……よっと、上るところです
野路ちゃんはもたもたと欄干の上に足をかけ、不安定な姿勢で登った。
そしてそろそろと慎重に起き上がったかと思うと、両手を広げた彼女が欄干の上に立った。
はあ? いや、危ないだろ!
今からこの欄干の上を歩いて、橋の向こう側まで行きます
野路ちゃんは俺の方を見ずにそう言った。
彼女の膝の辺りで、制服のスカートが風に揺られてはためいた。寒そうなふくらはぎの白さになぜかぞっとした。
野路ちゃん!?
本当は吊り橋がよかったんですが、この辺りにはないので
先輩、見ていてください
な、何言ってんだよ
危ないっつってんだろ!
危ないからこそ意味があるんです
これはそういう実験です
俺の制止も聞かず、野路ちゃんは欄干の上でバランスを取りながら一歩踏み出した。
途端に広げた両手ががくんと大きく傾き、彼女がいきなりよろける。
……わっ
だから言ったろ馬鹿!
欄干の上から今にも落っこちようとしていた野路ちゃんの腰を両腕で抱えるように掴み、力ずくで橋の上へ引き戻す。
優しく受け止める余裕はなかった。
それ以前に膝が限界だった。
野路ちゃんの身体の重みがこちらへかかった瞬間、左膝に酷い痛みが走り、俺は彼女の下敷きになって橋の上に尻餅をつくのがやっとだった。
うぐっ……
自分の口から情けない呻き声が出る。橋の上で打ちつけた腰よりも、膝の方が遥かに痛く軋んでいた。思わず目をきつく閉じると涙が滲んでくるのが癪に障った。
……難波先輩
すぐ近くで野路ちゃんの声がする。こんな時でも無感情な声の彼女は、まだ俺の胸の上にいた。
膝痛いのに、どうして止めたんですか
まだ実験中ですよ
どうしてじゃねえよ……
何でお前はそんなに冷静なんだよ
人が必死になって痛い思いしてまで助けてやったっていうのに……
かっとなった俺は痛みも涙も追い払うように目を見開き、上に乗っかる彼女を振り落とす勢いで上体を起こした。
何なんだよお前は! 馬鹿か!
そうして怒鳴りつけると、俺に振り落とされたばかりの野路ちゃんものろのろと起き上がった。
怒ってるんですか、先輩
当たり前だ!
こんな危ないことして、橋から落ちて怪我でもしたらどうすんだよ!
落ちないつもりでした
時間はかかりますが渡りきれる自信もありましたし
さっきいきなりよろけてただろ!
何だってこんな無茶した!
……
問い詰める俺を野路ちゃんは真顔で見つめてきた。動かない表情とは裏腹に、視線が不意に逸らされた。
……先輩が興味を持ってくれたからです
……何だよそれ
俺の為に無茶したとでも言うのか
難波先輩が私の研究に興味持ってくれたの、初めてでしたから
だからどうしても実現したくて、証明したくて
……
思わず絶句した。
野路ちゃんは俺の為に心を砕いてくれていた。考えてみれば彼女は俺が科学部の活動を楽しめるよう、あれこれと研究に引っ張り出していてくれたはずだ。俺はそのどれにも興味を持てず、退屈だなんて罰当たりなことを思っていた。
でもその俺がようやく惚れ薬の研究に興味を示したから、野路ちゃんもここぞとばかりに張り切ったんだろう。無茶してでも吊り橋理論を証明してやろうと思ったのかもしれない。そうしたら俺が科学部にもっと興味を持って、活動にも熱心になってくれるだろうとでも考えたのか。
サッカー部を辞めてからというもの、俺は大勢の人間に気を遣わせてきた。元チームメイトに顧問、友達、親、先生、誰もが俺の膝を気にして同情してくれた。そういうのがストレスで煩わしくて、あえて縁もゆかりもない場所に逃げ込んでおきながら、そこでもまた後輩に気を遣わせて、せっかく入った科学部でもだらだらと投げやりに過ごして、それで筋違いに彼女を怒鳴ったりして――馬鹿なのは俺の方だと、今の今まで気づけなかった。
……ごめん、野路ちゃん
俺が詫びると、野路ちゃんは今頃になって気が抜けたみたいにこちらへ倒れ込んできた。
慌てて座ったまま抱き留めると、俺の胸に頭を預けるようにしてもたれかかる。細い肩が震えていた。
私も、ごめんなさい
先輩の膝、痛いのに……
野路ちゃんのせいじゃない
……
そう告げても彼女は首を横に振り、後は何も言わなくなった。まだ立ち上がれない俺には抱き締めていることしかできなかった。
彼女は俺の胸にぴったりと寄り添っていたから、俺の心拍数がどんなもんかも把握していることだろう。心臓がうるさいのはもちろん驚きと動揺、あるいは久々に身体を激しく動かしたせいだ。これでも吊り橋理論は効果を発揮するんだろうかと考えかけて、上手く考えられなくなっていることに気づいて、やめた。
野路ちゃんも吊り橋理論のことは、その後もずっと口にしなかった。
翌日の放課後、野路ちゃんが俺を教室まで迎えに来た。
難波先輩、昨日はすみませんでした
膝、大丈夫ですか
まあ、平気だ
……先輩、お時間ありますか
活動日ではないですけど、理科室へ来て欲しいんです
いいよ、特に予定もねえし
理科室まではお互い、いつも以上にゆっくり歩いた。
野路ちゃんが俺に合わせてくれていたのだと、今まで気づけなかった俺は相当な馬鹿だ。
……今更こんなこと言うのも、白々しいかもしれねえけど
……
科学部の活動内容とか、研究とか、もっと教えて欲しい
科学部員としてもっと真面目にやってみるよ
野路ちゃんにあれだけしてもらって、何にも覚えられない部員じゃ格好悪いしな
本当に今更だ。だからって足踏みを続けてたら、いつまで経っても今の俺のままだ。
今日はバレンタインデーだった。チョコレートは一つも貰えなかった。当たり前だ、それが俺の現在の周囲からの正当な評価というやつで、言わば自業自得でもある。
何もかもどうでもいいなんて適当に生きるのは簡単だった。だけどそのせいで大勢の人にかえって気を遣わせる羽目になった。今のままじゃどこへ行っても、誰といても、ただただ気を遣わせるだけの存在にしかなれないだろう。
だからせめて今の居場所だけでも、誰にも気を遣われずにいられるようになりたい。
私も先輩に、科学部も楽しいんだと思ってもらいたいです
多分、ずっと前からそう思ってたはずだ
もっと早く気づけばよかった……
やがて俺達は時間をかけて理科室へと辿り着いた。
野路ちゃんが鍵を開け、俺が先に中へ入る。後から入ってきた野路ちゃんは鞄を提げた手でドアを閉め、それから俺の前へと歩いてきた。
……難波先輩
今日は、昨日の実験の結果をお知らせしたくて、ここへ来てもらったんです
昨日のあれ、途中でやめたのに結果なんて出たのか?
はい
昨日からずっと心拍数が上がっているんです
野路ちゃんの?
はい
難波先輩のことを考えると、特に
それ、野路ちゃんの言ってた吊り橋理論ってやつだろ?
もちろん、そうです
昨日も言いましたが、吊り橋理論は誤解や錯覚を利用するものです
でも大切なのは、その誤解を今後の進展にどう活かすかなんです
それでその……
これ、先輩に、チョコレートです
俺に?
はい
昨日ああ言っておいて何ですけど……お返しは要らないですから
お詫びと、あと贈りたかったから、差し上げます
それで、できればでいいです
先輩の実験結果も教えてください
野路ちゃんが赤くなったの、初めて見た
……可愛いな
なんで急に可愛く見えるんだろうな
昨日までは好みじゃないって思ってたのに
これも吊り橋理論ってやつなんだろうか、それとも普通に好きになっただけか?
……いや
どっちでも同じことか
……俺も今、結構心拍数上がってる
正直に答えたら、野路ちゃんは真っ直ぐ顔を上げて俺を見た。
俺達ってこれからどうなんのかな。そんなことを考えながら、俺も可愛い野路ちゃんを見つめてみる。
……先輩
私の瞳孔、開いてますか?
野路ちゃんが勇気を奮い立たせるようにして尋ねてきたから。
俺は彼女にもう一歩近づいて身を屈め、その瞳を覗き込んでみた。