親ってのは、
どうして子供に幻想を抱くかなぁ


 自分の息子はもっとできる、やればできる。
 そんな風に、根拠の無い期待を寄せてくる。

 まぁ、有難い事だと思う。

 でも、正直キツイ。

 期待に応えたくても応えられない。
 それは、本当に辛い事だ。

 だから俺は、家を出る事を決意した。

辛い事から逃げる様で情けないけど、
そうしないと生命に関わる所まで来てたからなぁ……


 とにかく、だ。
 まずは、住む場所を探す必要がある。
 2年のフリーター浪人生活の中で結構資金は貯まっていたが、それでも考え無しに部屋は選べない。
 家賃は高くても3万以内に抑えたい。
 1Kで風呂を諦めれば充分現実的な額だろう。

 そして、俺は幸運だった。
 とんでも無い破格な物件を見つける事ができた。

 トイレ風呂付き、築7年アパートの1K。
 家賃、なんと1万円。敷金礼金不要。

ここしか無ぇ

 早速俺は入居手続きをした。

 その際、

あの……一応その……ウチ、出るから

 と大家に前もって確認されたが、別に構いやしない。
 この破格の条件で、曰く付きじゃない方がどうかしてる。

 幽霊の1体や2体、覚悟の上だ。バッチ来い。
 男の幽霊だったらどうにかして追い出す。
 女の幽霊だったら……相手次第では健全なお付き合いをする所存だ。

 そう、思っていたのだが……

あ、どうも……


 とりあえず、俺は扉を閉める。
 ちょっと落ち着いて周囲を確認する。

 手狭な1K。家具はまだ何も無い。床の上にはいくつかのダンボール。しばらく放置されていたのだろう、壁や天井、そこら中に蜘蛛の巣が張っているし、部屋全体が埃っぽい。窓ガラスは薄汚れてスモーク仕様みたいになってる。
 うん、俺が入居する事になったアパートに間違い無い。

 そして、俺が今閉めたドアは……『厠』、と言う板切れが貼っ付けられていた。
 つまり、トイレだ。

…………


 意を決して、少しだけドアを開けてみる。

 ドアの僅かな隙間から、こちらを覗く黒い瞳が見えた。

どうも


 トイレの中から、俺に向けられて放たれたと思われる女の子の声が聞こえた。
 多分、この目の主の声だろう。

…………


 とりあえず、俺は扉を閉める。

 落ち着け。落ち着くんだ。
 まだ慌てる様な時間じゃない。
 そうだと言ってくれ彰。
 あばばば……

 い、今のは、何だ。
 思わずあばばばとか心の中で言っちゃったぞ。
 声は女の子だった。最初に開けた時に見えた全体像も女の子……いや、あれは女性と表現すべきか。とりあえずそんな感じだった。
 でも、何か異様に幸薄そうだった。
 よくわかんないけど超幸薄そうだった。

 言い表し辛いんだけど、なんかこう雰囲気が普通の人のそれと大分違った。

……あれ絶対に人間じゃねぇーよ。
人型の何かだよ。
多分おそらくきっと高確率で幽霊だよ


 いや、幽霊くらい覚悟の上っつったけどさ、モノホンはちょっと……
 あれだよ、勢いってあるじゃん、勢いでの発言ってあるじゃん。

 実際さ、マジとは思わないじゃん。幽霊が出るとウワサの廃墟に肝試しに行く時にマジで幽霊出るとは思わないじゃん。思ったらまず行かないじゃん。

 それにあんなはっきり見えるとは思わないじゃん。

……いや、落ち着け。
ホントもうマジで落ち着け


 まだ幽霊と確定した訳では無い。
 可能性は色々あるじゃん……えーとほら、例えば……例えば……

………………


 ヤバい、吐きそう。

 俺、実は最近、胃のコンディションの関係で些細なストレスでもリバースする体になってんだよ。
 そんな俺にこの仕打ちは酷すぎる。

 とにかく、とにかくだ。少しずつ整理しよう。
 整理している内に見えてくる真実があるかも知れない。

 俺がこの世に生を受けたのは20年と少し前。
 姓は河屋《かわや》、名は芯助《しんすけ》。
 普通か普通じゃないかで言えば割と普通寄りの人生を歩んできた。

 高校卒業後、大学受験と就活に失敗し、高校時代からやってるコンビニバイトとしてフリーター生活突入。現在、進学も就職も2浪中。
 こんなダメな俺なのに、未だに期待して名門予備校とかのパンフレットを山のように持ってきちゃう両親。
 そんな両親の期待に応えられないストレスで胃潰瘍になり吐血。入院。
 退院後、このまま実家に留まっていたら俺はストレスで死ぬと判断して家を出る事を決意。

 そして、今日からこのアパートに入居する事になった訳だ。

 で、だ。
 早速このマイルームに入り、「あ、ってかもうバイト行かなきゃ」ってなって、ちょっとトイレでもしてから……と思った訳だ。
 荷解きはバイト終わってからゆっくりやろうとか、考えながらトイレのドアを……

 と、ここで、トイレのドアがゆっくりと開き、

あの……どうかしたんですか?

……今、考え事してるから
もうちょっと待ってくれ

あ、はい、すみません……


 静かに、トイレのドアが閉まる。

 ああ、どうやらこちらの事を気遣える子の様だ。
 悪いモノでは無い、と言う事だけは確かか。

 うん。まぁ何だ。
 落ち着いて色々考えた結果……あの白い人は幽霊である可能性が極めて高い。

 だって、ここ俺の部屋だし。
 人が生活してた痕跡は無いし、そもそも俺が今さっき鍵開けたばっかだし。
 そこに幽霊っぽい人がいたら、そら幽霊だわ。

 整理が付いた所で、とりあえずトイレのドアを3回ノック。そして開ける。

あ、あの、トイレのノックは2回が
グローバルスタンダードです


 ああ、やっぱり何か薄い。
 もうなんだろう、むしろ淡い?
 団扇で扇いだら掻き消えてしまいそうな感がある。
 やっぱ普通じゃないよなぁこの感じ……

 前髪が顔の大半を隠しているせいではっきりとはわからないが、顔立ちは整っている方だと思われる。
 多分、歳は俺と同年代か少し上くらいか。そんな雰囲気がある。
 ……胸は……寂しい感じだが、多少の膨らみが確認できる。

 うん、女の人……の幽霊。

え、ええっと……聞いてますか……?


 今気付いたが、手や足は包帯らしき物でぐるぐる巻きにしている。両手両足を均等に怪我するとは思えないし、ファッションか……?いや、『自分でやった』としたら両手両足均等に怪我してもおかしくは……
 ……ファッションだと思っておこう。

 まぁ、何だ。

 総評、不気味。

唐突で悪いけど……不気味だな

ぁう……よ、よく言われます


 ちょっとしょんぼりとする白幽霊。

……一応確認なんだけど、幽霊?


 我ながら、諦めが悪いとは思うが、まだ認めたくは無い。
 なので、本人に確認を取る。

ゆ、幽霊だなんて、そんな……
よく間違われますけど、違いますよ……?

 違うのか。
 どの面下げて言ってんだこいつ。
 聞いといてなんだが、絶対幽霊だろこいつ。

私は、トイレの神です

……神?

 ああ、そうか。
 この子がウワサのトイレの神様か。

 ああ、良かった。
 マジモンの幽霊はちょっと無理だが、神様ならどうにか耐えられる。

……先に言えよ……

いぅ……
よくわかりませんが、すみません……


 全く、幽霊あばばばしてた俺の時間を返して欲しい。

あ、そうだ。
もう時間が……


 思ったよりあばばばしてた時間が長かった様だ。

お出かけですか?

バイトだよ。コンビニの

コンビニ……この辺の、ですか?

ああ、割と近いかな。
向こうにちょっと古い教会あるだろ。
あそこの目の前

教会前……
あそこは、手狭ですが、
綺麗なトイレがありますよね


 まぁ、ウチの店舗は客がほとんど来ないから、店内の清掃は行き届いている。
 当然、トイレも。

 にしても流石はトイレの神…コンビニ情報はトイレが基準らしい。
 と言うか、コンビニ行った事あるのか、神様。そこにビックリである。

 いや、待てよ……すごく今更なんだけど……

……神様も無理だわ

え、何の話ですか?


 幽霊と神様って、色々と違うんだろうけどさ。そりゃもう色々と。その辺はなんとなくわかるよ? もう俺は年齢的には大人だからね? 色々と違いはわかるから。

 でも、どちらにしろ俺のキャパを越えてる事には変わり無いわ。

 一瞬でも「神様ならいいか」とか思っちゃったのは一体どういう心理だったんだろうか。あれか、不幸中の幸いは普段の幸いより幸福感マジヤバく感じちゃうあれか。

 ……うん、俺今、ちょっと混乱し過ぎておかしくなってる気がする。

……あれだ。とにかく、今はバイトだ

いってらっしゃい


 現実から逃げるように、俺はアパートを後にした。

おろろろろろろ……

あ、あの、帰宅早々大丈夫ですか?


 帰宅早々、俺は便器を抱きしめて、口の中に広がる嘔吐物特有の酸っぱさを味わっていた。

 あれよ。帰ってきて、やっぱりトイレの中にいた神様を見て、まぁそうですよねーとなった訳だ。
 そして俺の胃は限界を迎えた。それが全てである。

 まぁ、わかってたよ。逃げとは結局の所、決して問題の解決に繋がることはありえないと。

何か古いモノでも食べたんですか?
あ、もしかして廃棄弁当……?
あれって店員さんは気軽に食べてるらしいですが、割とマジで危ないって聞いてますけど

あ、いや……その、俺最近、胃が悪くて……
ちょっとしたストレスで吐く
デリケートストマックと言うか……

ストレス……何かあったんですか?

え、ぇーと……
ちょっと、今日は厄介な客が多かったんだ
うん


 神様とは言え、見た目は女性。そんな相手に、お前がストレスの種だなどと言える訳もない。

私でよければ相談に乗りますよ?
神様ですし

…………ああ、ありがとう……


 悪い人じゃないってのが余計にタチ悪い気がする。
 出てって欲しいと持ちかけるのがかなり気が退ける。もうその話を持ちかけるストレスで胃が弾け飛ぶと思う。

背中さすりましょうか?

……あー……お願いします


 もうアレだ。
 時間の流れが何かしら解決してくれることを祈ろう。

 背中にひんやりとした感触を覚えながら、現実から目を背け、俺は便器と向かい合うのだった。

トイレの彼女は

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