あたしたちずっと親友でいようね。そう言ってあたしと綾は言葉を交わした。他愛ない、無欲だったあの頃だから交わせた会話だった。指切りをかわすと、綾は嬉しそうに、屈託のない笑顔を浮かべていた。

 そんな綾から屈託のない笑みが消えたのはある日突然だった。
黒髪の女性が冷たい身体で布団の上に横たわっている。上向きに伸びた長い睫毛からいつも覗いていた強い輝きを帯びた瞳はそこにはなかった。髪の毛が彼女の細身の体を守るようにまっすぐと伸びている。

 そんな身動きしない彼女の体にほそい影がゆらりと重なる。影の主は髪の毛を短くそろえた、切れ長の瞳をした女性だった。彼女のいつもは鋭い瞳には大粒の涙が浮かび、今にも零れ落ちそうだった。

美智子

綾、どうして?

 胸を切り裂くような悲鳴のような声に、心の中が抉られる。
 彼女は種田美智子といい、彩とあたしの高校の同級生だった。彼女は嗚咽をもらし、綾の体に触れている。
 そんな二人の姿が霞んできた。
 まさかこんなことになるとは思いもしなかった。
 あたしのせいなの?
 そう眠っている彼女に問いかけても、答えは出ない。それどころか身動き一つしない。
 あたしは唇を噛み締める。
 そのとき綾に触れていた彼女が体を震わせあたしを見た。

美智子

はるか。あなたはそろそろ行ったほうがいいよ。もう式に間に合わないでしょう?

はるか

でも

 分かっているけど、綾の傍を離れられなかった。
 あたしをここに縛り付けているのは
 ───罪悪感。
 それだけを言うと口を噤んだ。
 迷っているあたしに美智子が強気な言葉を投げかける。


美智子

だってもう今更キャンセルできないでしょう。他の招待客だっているんだから。 綾にはあたしがついているから

はるか

「ありがとう」

美智子

綾もそうしてほしいと思っているよ

 あたしを元気付けるために言った美智子の言葉はその罪悪感をかきたてていく。

美智子

どうかしたの?

はるか

なんでもない


 目の前の彼女はあたしと綾の間にあったことを知らない。余計なことを言いたくなく、彼女の言葉には首を横に振って答える。

美智子

今度、綾の喪が明けてからお祝いするね

はるか

「ありがとう。じゃ、行くね」


 床に置いてある鞄に手を伸ばそうとしたとき、遠くから無邪気な声が聞こえた。

あたしからもお祝いしてあげる


 心臓をわしずかみにされたように鼓動が速くなる。
 ──忘れるわけもない。
 あたしのよく知る彼女の声───
 鞄を手にするのも忘れ、振り返るとそこには横たわったまま笑みを浮かべた綾の姿があった。

はるか

綾。生きていたの? あたしね

 綾のもとに駆け寄ろうとしたあたしを強い力で誰かがつかむ。振り向くと、怪訝そうな顔で美智子があたしを見ていた。

はるか

今、綾が目を開けていたの。医者を呼ばないと

美智子

しっかりして。辛いのは分かるけどもう綾は助からないの。心臓も動いていないのよ

 彼女はあたしの手をつかむ力を強めた。

はるか

でも、確かに今、彼女が笑っていたの

美智子

はるかは中学時代からの友達だから、つらいのは分かるよ。でも、現実派受け入れないといけないの。だからしっかりしなさい


 もう一度綾を見ると、彼女は身動き一つせずに目を閉じている。さっき微笑んだ彼女はどこにもいない。

はるか

そうだよね

 あたしの罪悪感が見せた幻なのだろうか。そう思えなくもない。あたしは彼女を裏切り、ものすごく傷つけた。事故死だったといわれる死因を疑ってしまうほどに。

 あたしは今日結婚する予定になっていた。派遣先で働いている山田拓という人とだ。肌は適度に日焼けし、昔はスポーツをしていたらしく体つきもがっしりしている。仕事もでき、誰にでも親切で会社内の評判も上々だった。

 あたしは彼から告白され付き合うようになった。そこまでは良くある話。

 そんな折、綾から相談を持ちかけられた。彼女には付き合っている人がいて、彼の態度が最近おかしいというのだ。友達との合コンで知り合った人らしい。そんな彼女に恋人ができたということもできずに、彼女の相談に乗っていた。そして、何度か彼女の相談に乗った後、彼女から彼とわかれることになったと聞かされた。

 彼から別れを告げられたらしい。相手の男は自分の荷物を捨てていいと綾にいい、彼女は彼の荷物を処分しないといけないと言っていた。だが、顔面が青ざめ、顔色の悪い彼女を一人でさせることはできずに、彼女の彼女の手伝いをすることにしたのだ。

 荷物は幸いそんなに多くなかった。何度か一人暮らしの彼女の部屋に泊まったのか歯ブラシと、着替えがある程度だった。
 そのとき、綾の体が固まっているのに気付いた。彼女の手に握られているのは写真だ。大きな瞳には大粒の涙が浮かんでいた。

はるか

綾?

ごめんね

写真、見る?
もう捨てちゃおうと思っているから。


 彼女は指先で払うように目元を拭った。

 あたしは綾を泣かせた男に興味があって頷いた。
 顔だけはいいこと、他に女がいたことは綾から聞かされていた。
 彼女から差し出された写真を見て、あたしの心臓が大きな音を立てるのが分かった。排水溝にどっと水が流れ込んでいくような音。心臓がこんなに大きく震えるとは思わなかった。

 そこに綾と並んで笑みを浮かべているのはあの山田拓の写真だった。

 彼にあたしの前に彼女がいてもおかしくない。でも、まさかそれがあの子だとは思わなかった。

はるか

本当に顔はかっこいいね。でも、最低だと思うよ

 とっさに出てきたのは綾を一時的にせよかばう言葉だった。
 そのとき彼女に打ち明けていてばどんなに良かっただろう。何度もそう思ったが、そんなのは後の祭りだった。

 あたしはしばらく悩み、彼と別れようとした。親友を裏切ることなどできなかったからだ。涼しい顔をして、また綾の隣で微笑んでいようと思った。最悪な行いだったとしても、それを知られないならかまわないじゃないかと言い聞かせていたのだ。

 でも心のどこかであの子を捨てたようにあたしも時間が経てば捨てられると思っていたんだと思う。だから、そうなる前に彼と別れようとしたんだと思う。



 別れを持ち出そうとした日、山田拓は何かを深く考えた表情を浮かべているように見えた。あたしが声をかけると、そんな暗そうな顔が一気に明るくなる。その表情を見て嬉しく思う反面、綾を一週間前に泣かせたくせによくそんな顔ができるな、と冷めた気持ちを抱くようになっていた。
 自分のことを棚にあげて本当に嫌な女だ。

はるか

話があって

俺も話があったんだ。すごく大事な話


 その言葉に胸の奥が抉られるような痛みを感じていた。綾と同じように捨てるつもりなんだと思った。言葉を模索し、先に何かを言おうと思ったけど、出てこない。あれほど彼に伝えるべき別れの言葉を捜していたのに、彼にそういわれたことで、何を言うべきか分からなくなり、次の言葉さえ見つけ出せなかった。
 うつむいたあたしの視線の先に、小さな小箱が差し出される。

これを渡したくて


 その箱を確認すると、顔をあげた。
 彼は顔を赤く染めていた。
 その箱の中に入っていたのは指輪だった。それを見て何も言うことができずに唖然としていたのだ。綾をすてた彼があたしと結婚を望んでいるとは思いもしなかった。

もしかして気に入らなかった? やっぱり一緒に買いにいったほうがよかったかな

 彼に対する憎しみに似た感情が一気に消え去る。ただ、何も知らずに彼に恋焦がれていたときのように、その突然のできごとに胸を高鳴らせていた。

 あの子の涙が頭に浮かばなかったわけではない。だが、何かを考える前にそれを受け取り、指にはめてみる。サイズはぴったりだった。

はるか

ありがとう。うれしい

 彼もあたしを見て、笑顔を浮かべていた。
 そのとき、あの子のことよりも自分の幸せを選んだのだ。

 今から考えるとその後でも彼女に言えばよかったのかもしれない。万が一、彼女に罵倒されても、叩かれても彼女を思えば口にできたかもしれない。あのとき謝れば、今とは違う結果になっていたのかもしれない。でもあたしは逃げたのだ。彼女に直接彼の話をすることはなく、ただ前からつきあっていた人と結婚するとだけ言った。

恋人がいたんだ。羨ましいな。幸せになってね

 何も知らない彼女はまるで自分のことのようにはしゃぎ、微笑んでいた。

 そのお詫びとして神社であの子に素敵な彼氏ができることをお願いしておいた。奮発していつもなら絶対に入れないような額を入れておいた。そんなことで嘘を取り返せるような気分になっていたのだと思う。
 彼女にはいつものようにすぐに新しい恋人ができ、そのときに本当のことを切り出そうと思っていた。つきあい始めが気持ちの最高潮になる彼女であれば、少し怒るかもしれないが、受け入れてくれる、と。
 だが、その望みは届かなかったのだ。


 結婚の前に友人を招いて彼を紹介した。あたしはそのときに綾も呼んだ。そのとき、彼女が急病で来れないといいと思っていたが、そんな願いが通じることもなく、彼女は笑顔であたしの家にやってきた。
 拓を目にした綾はその場に固まり、ただ目を見開いてあたしたちを見ていた。
 彼も綾の存在に気づいたようだったが、何も言わなかった。
 でも彼女は何も泣き言を言わなかった。悲しそうな顔さえも見せなかった。

はじめまして

 そう拓に挨拶をし、軽く言葉を交わすと、最後に笑顔を浮かべていた。

幸せに

 悪意のないあどけあに笑顔に、彼女は分かってくれたのだと思っていた。
 彼女に何も言わずに逃げ続けたあたしを許してくれたのだと思っていた。

 さすがに披露宴の挨拶などは綾には頼めず、大学時代の友人に頼んでいた。

 それから半年、久しぶりに会ったのは変わり果てた彼女の姿だった。あたしがあのとき、拓の指輪を受け取らなければ彼女は死ななかったのではないか。そう思わずにいられなかった。



 大丈夫か?

 結婚式の後、拓の声で我に返る。

 顔をあげると、端正な顔立ちをした彼の顔が目に飛び込んでくる。
 あたしはうなずくことしかできなかった。

 そんないつもと違う様子から何かを感じ取ったのか、目線を足元に落とすと、息を吐く。

綾のこと、何と言っていいか


 感情の乱れをごまかしているのではないかと思えるほど、淡々とした話し方だった。
 彼の気持ちを感じ、あたしは目を逸らす。
 今日の挙式の前に拓には綾のことを告げた。あたしの言葉を聞きながら、彼の表情が凍りついていくのにあたしは気づいた。
 彼もどこかで後ろめたい気持ちがあったのか、あたしの話の後に彼から昔、二人が付き合っていたことも聞いた。
 やっと喉から言葉を押し出した。

はるか

綾はあたしたちのこと恨んでいるのかな

あいつはそんなやつじゃないと思うよ


 拓が喉から絞り出すようにそう告げた。
 あたしもそう思っていた。
 彼女はそんな子ではないと互いに思おうとしていたのだろう。果たしてそう考えたのは
 彼女のため? それとも自分たちのため?
 自問自答しても答えなど出てこない。

綾の分も幸せになろう

 拓の手があたしの手に触れた。
 彼の手は誰よりも温かく、その声も聞く人を安心させるような声だった。
 綾の分まで幸せになろう。
 あたしたちはそう心に誓った。勝手にそう決めたのだ。

 幸せになることがせめて彼女に報いることだと決めたのだ。

 彼女がそんなことを望んでいたかどうかなんて分からないのに。

 あたしと拓はマンションの前で車を降りた。送ってくれた姉にお礼を言う。彼女は今日はゆっくり休むようにと言い残すと、去っていった。

 あたしたちは数日前からここで暮らしている。これから二人で過ごす、新居となる場所だった。

 五階まで行くと、エレベーターを降り、あたしは家の鍵を開けた。
 薄いカーテンから漏れるように光が入ってきて、目の前にさらっとした髪の毛をした女性が立っていた。少女といっても過言でない、あどけなさの残る可愛い女の子。

お帰りなさい


 彼女は笑顔でそう答えた。
 今の状況が理解できなかった。

はるか

何であなたがここに


 だが、すぐに言葉を飲み込んだ。今日のできごとを思い出し、これは幻なのだと思い出したからだ。見えているのはあたしだけ。
 きっと彼の視線は綾じゃない別のどこかを見ているはず。そう思い、あたしは拓を見た。 だが、拓の視線はまっすぐ綾に向けられている。拓の唇が震え、そこから聞きたくなかった名前が漏れた。

綾、どうしてここに

 これは幻でないとそう悟った。
 綾は拓の手を握る。彼の顔が次第に青ざめていく。

うれしい。久しぶりにそう呼んでくれたね


 彼女は笑みを浮かべ、その手を頬ずりするように頬に当てた。

 ねえ、飲み物入れてよ。たあくんが飲みたいんだって


 綾は明るい声であたしを呼び、頬を膨らませる。いじけたような子供のような笑顔だ。何度その笑顔を可愛いと思ってきただろう。
 せかす綾に逆に尋ねる。

はるか

何が飲みたいの?

……コーヒー


 浮かない顔で拓が答えた。彼はあの幸せになろうと誓った日から笑うことはない。その気持ちは分からなくもない。彼女が命を落としたあの日から、あの子はあたしたちと一緒にいる。大げさな表現でもなく、本当に彼女は一緒にいるのだ。

 彼女がその気になれば、お風呂に入っているときも夜眠るときも昼間買い物に出かけたときも拓が仕事をしているときも彼女はあたしたちの傍にいる。
 傍で子供のような愛らしい笑顔を浮かべて。

 そんな時間だけではなかった。たまに綾が姿を消す。どこかに出かけたのかと安堵し、あたしはベッド腰を下ろす。やっと解放された。そんな気持ちで満たされ、体から力が抜けた。
 このまま眠ってしまおうかと思ったとき、拓があたしの隣に座ってきた。

 拓が大きな手をあたしの頬に這わせた。
 あたしは目を閉じ、彼の唇が触れるのを待った。軽く触れるだけほんの数秒のものなのにこうしてキスをしたのも一週間ぶりだった。
 彼の体があたしの体の上にのしかかってきた。

はるか

綾がいるかも

大丈夫だよ

 耳元で囁くそんな声を信用したくなって抵抗するのをやめた。

 布のこすれる音がし、あたしの肌に心地よい風がじかに触れる。拓の指が肌の上をすべる。その感触に酔いしれようとしたとき、耳元で風のざわめきに同化したように聞きなれた笑い声があたしの耳に届く。



 くすっ。



 あたしの体が震える。

はるか

絶対いるよ

気のせいだよ

 拓は息を荒げながら、否定の言葉を伝えていた。
 意図せずに自然と漏れてくる吐息にそれ以上何かを言うこともできず、この感触に再び浸ろうとしたとき明るい声がベッドルームに響く。

そう、そう。気のせいだって


 拓の体が震え、その動きが止まる。彼は横のクローゼットを見る。そのクローゼットとベッドの間に綾の姿があった。彼女はベッドの上にひじをつき両手で頬杖をついていた。
 あたしと拓を交互に見ると、笑顔を浮かべていた。

あたしのことは気にしなくていいから続きを楽しんでよ

 そんな綾の言葉にあたしたちは固まったままだった。

あれ? どうしたの?


 その目は今の状況を心から楽しんでいるみたいに見える
 拓は我に返ったのか、あたしから離れようとする。綾はベッドの上に来ると、拓の頬に触れた。

続きをしていいって言ってあげているのに


 彼女はふわっと浮き上がると、あたしたちを見下すような目で見た。だが、その表情から彼女の笑みは消えない。

たあくんはいつもあたしの洋服をたくし上げて、優しい手つきで触ってきたよね。全身を撫でまわして。きっと同じようにはるかを愛しているんだろうね


 あたしは思わず拓の手から逃れ、壁に張り付く。
 拓は金縛りにあったかのように動かなかった。
 そんな拓の首に綾は蛇のように絡みついた。

だって、拓にとってあたしは空気みたいなものだったんだよね。それが本当の空気になったからって今更あたしの存在を気にしなくてもいいのよ。それよりも早く二人の赤ちゃんに会いたいな。きっとはるかの両親も拓の両親も二人の子供を見たがっていると思うのに。大人になったら、赤ちゃんにあなたがどうして授かったか教えてあげないとね


 そんな言葉を伝えてくる。

 彼女は時々姿を消してはあたしたちを油断させる。そして声をかけて欲しくないときに声をかけたり、姿を現したりする。ちょうど今みたいに。タイミングを見計らって……。

 人は何か悪いことをしてしまったとき、憎いと言って睨まるのと笑顔を浮かべられるのはどちらが楽だろう。
 今のあたしなら前者を選ぶ。だって、その憎しみの深さを知ることができるから。

美智子

遅くなってごめんね



 そんな言葉とともに結婚式が終わって二ヵ月後、美智子があたしたちの家にやってきた。やってきたのはもちろん、あたしたちが三人暮らす家。拓の隣で笑顔で綾が出迎えていた。彼女は行儀がいいのか、相手に自分のことが見えなくても、玄関で出迎える。帰るときも見送りを忘れない。そして、自分の存在に気づいてもらいたいのか遊び心なのか自己アピールも忘れない。

 リビングに通された美智子は手に持っていた紙袋を差し出す。
 それは昔からおいしいと三人でよく食べたお店で地元ではちょっとした有名なお店だった。

美智子

これ、よかったら食べて


 あたしは美智子からケーキの箱を受け取った。
 拓はあたしの隣に座り、綾は美智子の体にまとわりつくように座っている。
 綾の細くて綺麗な指先が美智子の手のひらをなぞる。美智子は体を震わせ、手のひらを見て首を傾げていた。

美智子

この部屋って涼しいね

はるか

風通しがいいからじゃない?


 あたしは嘘を吐く。一ヶ月も経てばそんなことも言えるようになった。
 別に冷房が入っているわけでも風通しがいいわけでもない。家の窓は全部閉め切ってあるのだ。
 寒い理由が彼女の隣にいる綾のせいだなんて言えない。

はるか

お皿に移すね


 あたしはケーキの箱を持ってキッチンに向かう。
 このマンションのキッチンはオープンキッチンなので、美智子の姿も綾の姿も見える。
 綾は美智子に会えてうれしいのだろう。いつもみたいに台所でちょっかいを出してこなので、危うく手足を切りそうになることもない。
 胸を撫で下ろし、ケーキの箱を開けたとき、背中に冷たいものが走るのが分かった。
 できるだけ平静を装い、高鳴る心臓を押さえながら美智子に聞く。

はるか

他にも誰か来るの?

美智子

どうして?

 ケーキの箱の中に入っていたのはケーキが四つ。普通、人の家にお土産を持ってくるときは自分の分も加えて持ってくるものだと思う。

 少なくとも美智子はそうだった。わたしたちが二人で食べるにしては量も多い気がする。

はるか

ケーキが四つあるから

美智子

え? あたしが買ったのはショートケーキにチョコレートケーキに、マロンケーキだよ


 彼女の言葉とともに、ケーキの姿を目で追う。
 でも、目の前に名前を呼ばれなかった緑色のスポンジをしたケーキの姿がある。名前を呼ばれるのを待っているような気がして、その名前を呼んだ。

はるか

あと一つ、抹茶シフォンがあるよ


 それは誰の好物だったっけ?
 そんなこと考えなくても分かる。

 美智子は本当に知らないのか、首をかしげている。ケーキを三つ買うのと、四つ買うのでは桁が違ってくる可能性も高い。
 だから、多く買ったらお金を払ったときにまず気づくはずだった。
 その彼女の瞳から迷いが消え、切なそうな表情を浮かべている。でも、ほんの少しだけ懐かしそうだった。

美智子

でもそれって綾の好物だよね。綾、どうしているのかな。生まれ変わりとかあったら綾に会うこともできるのかな。会いたいよね


 拓の顔は見えないけど、強張っているとは思う。
 綾はうれしそうに美智子に抱きつく。

美智子

後で二人で食べてよ

はるか

分かった


 無理。
 でもそんなことは口に出せずに適当に笑顔を浮かべ、ケーキと箱をテーブルのところまで持ってきた。美智子が食べたがってくれればいいのに、という願いを込めて―――。
 あたしがフォークにチョコレートケーキを載せて口に運ぼうとしたときだった。

生きているっていいよね。おいしそう


 甘えたような声。あたしは無視して食べる。いつもなら反応するが、今日は美智子もいるのだ。
 ケーキを口に含むタイミングを見計らったのかもう一度声が聞こえる。

おいしい? どんな味?

 美智子はあたしのなんらかの変化に気付いたのか、心配そうに顔を覗きこんできて大丈夫か尋ねた。

 あたしは美智子の問いかけに大丈夫と答えた。あたしと同様に綾の声が聞こえている拓は何も言わずに黙り込んでいた。

 美智子は首をかしげ、不思議そうな表情をしていたが、それ以上は言わない。

 でも、本当に美智子には綾の姿が見えていないのだろうか。あたしにも拓にも見えているのに。二人とも霊感が強いとか、そんなことは全くなくて今まで無関係だった。

 もし、見えていてあたしと拓の反応を伺っていたら。

 そんな浅ましいことを考えて、自分で自分が嫌になる。
 そのとき、目の前でガサガサという音が聞こえた。

美智子

でも、ケーキが四つにしてはやけに安かったな。千円でおつりがきたし


 美智子が鞄から財布を取り出していたのだ。白い紙を取り出して首をかしげる
 それをあたしに差し出した。そこにはさっきのケーキショップのお店の名前が記されている。

美智子

レシートには三点しか載ってないのに


 彼女から渡されたレシートを覗き込む。
 そこには合計の点数が記されていて三点とご丁寧に書いてあった。

美智子

気になるから箱の中身確認していい?

はるか

……いいよ


 テーブルの端に置いていた箱に美智子が触れた。美智子が眉間にしわを寄せる。

美智子

箱の中って空っぽだけど

はるか

そんなこと

 彼女は悪い冗談を言っているのだと思ったあたしが箱の中を覗くとさっきまであった抹茶シフォンが消えていた。あるのはケーキに入っていた冷却材だけだ。

大丈夫? はるか?

はるか

ごめん。疲れているみたい

 あたしは頭を抱え込む。真面目に考えるのが間違っているのだと言い聞かせる。

 美智子が帰った後、ケーキの箱の中にはなぜか抹茶シフォンが入っていた。もう何も考えない、何も見えないのだと言い聞かせることしかできない。でも、綾らしきものが触れたところは氷を当てたようにしっかりと冷えている。

 彼女との生活は必要以上にあたしの心を憔悴させていく。

 綾との生活に疲れ、楽になりたかった。どうしたら楽になれるんだろう。そう考えていたとき、目の前を車が走りぬける。ただそのときは運転している人にどんな犠牲があるのとか考えていなくて、ただどうしたら楽になれるかを考えていて目の前の車道に飛び込もうとした。
 足を踏み出し、もう少しで楽になれると思ったとき、体が動かなくなる。


大丈夫?


 あたしの手首と首筋を撫でるように冷たい感覚が残る。

はるか

どうして邪魔するの?


 目の前の彼女を睨んでそう言った。

邪魔なんてそんなこと。ただ、親友がこんな危ないことをするのを見過ごせないでしょう?

 心配そうな物憂げな瞳で告げた。
 でもあたしには絶対に逃がさないからそう言っているように聞こえた。

 あたしが翌朝目を覚ますと、首に冷たいものが触れていた。それが何かも確かめたくない。



おはよう


 綾が姿を現し、微笑む。

こんなところに変なものが置いてある。はるかが怪我をしちゃったら大変だね


 そう言って、彼女があたしの脇から取り出したのは鈍く光るもの。
 その想像以上のものに身震いする。

どうかしたの? 顔色が悪いね


 さっきより冷たい感触があたしの首を襲う。綾は屈託のない笑顔を浮かべている。

拓はお仕事に行っちゃったよ


 拓が仕事に行こうがどうしようがどうでもよかった。ただ聞きたいのは一つだけだ。

はるか

手、どうするつもり?


 綾の手があたしの喉に触れ、糸を引くようにすーっと冷たい感覚を残していく。それに反応するように全身に鳥肌が立つのが分かった。

なんとなく。はるかの首筋って綺麗よね


 彼女は間を置いて話を続ける。

細くて、華奢で、ちょっと力を込めたらどうなるんだろうなって思ってさ


 最後に顎からすっと下に指を這わせていた。彼女の手の冷たさが、何かの刻印を残すように、しっかりと根付くように残っていく。
 だが、それでも綾は無邪気な子供のような笑みを浮かべている。

 最初は四十九日までだと思っていた。でも半年経った今も彼女はあたしたちの家に住んでいる。彼女が去ろうとする気配もない。ただ一日を数えるような生活になっていた。だが、拓もあたしと同じような目に遭っていたのか彼の体が日に日に細っていくのが分かった。
 物音がすると絶対にそちらを見る。ちょっとした風が抜ける音さえ、反応するようになった。静かなのが嫌で見もしないのにいつもテレビをつけているようになった。

 彼女から身を守る術をあたしは知らない。誰にどう相談していいのかも分からなかった。


 あたしたちは綾が目の前に現れると、距離を置くようにもなった。どちらが言い出したかも分からない。ただ自然とそうなっていたのだ。
 今まで何を話していたのか分からないくらいに会話もなくなっていった。顔を見合わせると、互いに目をそらす日々が当たり前になっていく。

 最初にそんな生活に根をあげたのは拓のほうだった。


 綾を睨むと、強い口調で言った。

 お前が憎いのはこいつなんだろう? こいつと離婚したらこいつについていくんだろう?


 根源を無視し、あたしを綾のいけにえにしようとしている彼に言いようのない憤りを覚えていた。

はるか

あたしを裏切る気?


 あたしの言葉に拓はあたしを睨む。

だいたい、お前が綾と友達ってことを黙っていたからいけないんだろう?

はるか

二股をかけていたのはそっちでしょう? 言わなかったくせに


 あたしたちには新婚の頃のような気持ちはなくなっていた。
 会話ができなくなったあたしたちの行き着いた先は顔を合わせるだけで言い争い、互いに責任を押し付けあっていた。互いに自分だけ彼女から逃れる方法を探していたのかもしれない。


 タイミングを狙ったように、綾の言葉が届く。

憎い? そんなことあるわけないでしょう?

 彼女は微笑むと、あたしたちを順に眺める。そして、間を置いて、笑顔を浮かべる。

二人ともすごく大好きだよ


 ちょっと照れているのか、声が上ずっている。
 その十年前なら喜んであろう言葉に全身に鳥肌が立つのに気づく。



 拓も同じものを感じたのか、彼の顔も引きつっていた。

あたしのために喧嘩しないでよ。心配しなくても別居しても拓にもはるかにも会いに行くから。だから、仲直りをしてね



 また屈託のない笑顔を浮かべる。
 一生彼女につきまとわれるかもしれない。そう思った自分の考えを否定したくて、精一杯の勇気を出して、彼女に問いかける。

はるか

いつまでここにいるの?


 綾は首をかしげて微笑んだ。

どうしようかな?


 そこで一息つく。
 そしてあたしたちを順に見る。
 その瞳から笑顔が消える。捨てられた子犬のように寂しげな目であたしたちを見ていたのだ。

もしかしてここにいたら迷惑?


 態度だけではなく、言葉でも、絶対に迷惑と言えないような聞き方をしてくる。

はるか

……そんなことないよ

よかった


 語尾にハートマークでもつけてしまいそうな甘い声を出す。
 彼女の目からはそんな寂し気な気配が消え、あたしに腕を回してくる。あたしの腕がひんやりと冷たくなる。

 彼女が人間に触れることができることはわかった。だが、彼女が時々計らうように、力を込めることができるのだろうか。そう思ったとき、綾が腕を解き、右手であたしの腕を鷲づかみし、爪を立てる。まるで、実体のある人のように力強い、食い込むような感触が残る。その部分は赤い痕跡が残る。



 うめき声を出したあたしに綾は笑顔を浮かべる。

はるかが知りたいのはこういうことだよね?

 そのとき気づく。
 彼女はあたしの心の中まで読んでいるのだ。
 恐怖も。
 罪悪感も。
 戸惑いも。
 それを知っていて楽しんでいる。
 綾はあたしの耳にそっと囁く。

「あたしたち親友だもの。ずっと一緒にいてあげる。もちろん拓もね」

 彼女は首をわずかに傾げて、笑みを浮かべる。

……ずっと、ね

 静かな空間に同調するかのような静かな声。



 そして、彼女は屈託のないとても可愛い笑顔を浮かべていた。

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