ああ……


 カーテンの隙間から朝陽がこぼれる部屋の中、私は倦怠感と共に目を覚ました。
 一瞬、会社に遅刻してしまったかと焦ってしまったけれど、横目で捉えたデジタル時計に映る日時から、今日が休日であることを思い出して安堵する。
 下半身が涼しい。衣が擦れる感触から、私は自分が上半身に襟がやや伸びてるTシャツのみまとっているだけの姿である事に気づいた。

なんでこんな格好してるんだっけ……

 
 気だるい身体を起こして、昨夜の出来事を思い出そうと記憶の糸を辿る。少しばかり頭が痛く、軽い吐き気も覚える。
そうだ。昨夜は退勤後、たしか嫌なことがあってコンビニで酒を買い込んでは、誰もいない部屋で寂しく一人酒へと洒落こんだのだった。 
 普段はヤケ酒なんてする習慣などない。自分でも思っていたより、色々と溜め込んでいたものがあったのだろう。テーブルの上にはビールの空き缶の群れと、食べ散らかした柿ピーが残っている。あれを朝食にしよう。

ああ、ひとりでヤケ酒なんて、朝食が柿ピーなんて、自分が憧れていた大人の女の姿とはあまりにもかけ離れて……


 大学を卒業して、社会人二年目。仕事にも慣れて遊びとのメリハリもつき始め、人間関係もそれなりに広がりを見せ、価値観も磨かれてきた、若輩者とはいえ憧れていた大人の姿に近づくべく頑張ってきたつもりだ。
 それが、ヤケ酒で軽い二日酔いを起こし、下半身をすっぽんぽんにして目を覚ますとは。こんな怠惰な姿は、学生のうちに留めておきたかった。
 朝はシルクのパジャマで目を覚まし、経済新聞に目を通し、一杯のスムージーで朝食を済ませる、そんなおしゃれな大人の女に、私はなりたかったのだ。

それがこのザマか……大人になるって難しいなあ

身体はもうこんなに大人なのにね

本当。いつまでたっても心が追いついてくれないというか


 当たり前のように返事を返してしまったあとで、私は耳に飛び込んできたもうひとつの声に気付いた。
 今、私は誰と会話した?
 どうして気付いてなかったのか、声の主は私のすぐ横で寝そべっていた。美女だった。知らない美女がそこにいる。

 美女は身体をシーツにくるんだまま、まるで普段からそこが自分の寝床であるかのようにおさまって、私に微笑みを投げかける。
 漏れ入る朝陽に照らされたその微笑みは、まるで上質の美人画を思わせる佇まいだった。

おはよう、いい朝だね


 美女が再び話しかけてきた。

えっと……貴女は誰?


 私の当然の問いかけに、柔らかな美女の表情はみるみる悲しげに歪んでいき、上半身を跳ね起こしてシーツを引きずった。

ひどい! 昨夜はあれだけ私の身体を求めてきたっていうのに!

身体を求……えっ?


 当たり前だけれど、私の頭は混乱していた。
 親しい友人と引越し業者以外は誰も玄関から先へ足を踏み入れたことのない部屋にいる、見知らぬ美女。
 朝。ベットで裸の二人。気だるい身体。これが意味するものを考えられないほど、私は純情ではない。でも、自分にそういうことがありえると素直に受け入れられるほど、慣れたものでもない。

えっ、私まさか貴女と……いや、でも寄り道しないでまっすぐ帰ったし、お酒だってひとりで……

あなたは私を買ったんだよ!

買った!?


 相次いで出てくる美女の言葉に、私は頭をハンマーで殴られたような衝撃を受けた。
 まさか、私は酒の勢いで『そういう相手』を買ってしまったというのか?
 たしかに、今の私に『そういう相手』はいないし、なかなか縁遠い。それでも人並みの欲求はそれなりにあるのだ。
 だからといって、お金を出してまで相手を探すほど余裕がないわけでもないし、いくら酒に酔っていたとしても、そこまで判断力が鈍るような人間でもなかったはずだ。
 しかも、買った相手が同性だとすると、ますます事態はややこしくなる。

……

あの……


 美女は瞳をうるませながら、訴えるような視線を私に投げ続けている。
 私は自分が、この美女に一杯食わされているのではないかと思ったけれど、いたって自然な振る舞いを見せる美女からはそんな思惑が感じ取れなかったし、何よりそんなことする意味がわからない。
 とりあえず、この正体不明の美女になにか尋ねないと……私は考えを巡らせてみたが、混乱もあって正しい切り出し方を見出せなかった。

えっと……いくらで?


 違う。なんだその質問は。そういうことじゃない。

6800円

安い!

違う! そういうことじゃなくて!

あ、ごめん。間違えた

そ、そうだよね。いくらなんでもそんなに安くは……


 だから違う。つっこむべきところはそこじゃないのだ。

ネット割引価格で5500円

下がるのかよ!

……ん? ネット?

あなたはネットで私を注文したんだよ。それで私はここにきて、身体で奉仕して、あなたの性欲を満たしてあげたの

性よ……!


 美女のあけすけな表現、そしてその内容に私は絶句した。

 つまりこれは、俗にいうデリバリーヘルスというものなのだろうか。私は酒に酔った勢いで彼女を買い、自分の爛れた欲求を満たしたのだと。

あ、ああ……


 私は頭痛の残る頭を抱えて塞ぎこんだ。
 昨夜、眠りに落ちる寸前までのことは全く思い出せないけれど、目の前にはこれ以上ない『証人』がいるのだ。
 ひとり暮らしの女子、防犯に気を使って戸締まりは常時しっかりしているほうなので、この美女はどこからか侵入したというわけではないだろうし、侵入してまで作り出すような状況でもない。
 だとしたら確かに私が招いたのだ。

大丈夫? 昨日はだいぶお酒入っていたようだし、お水持ってこようか?

け、結構です!


 美女の気遣いに私は頭を振った。これもサービスのうちなのだろうか。だからといって、これ以上この美女を不安にさせるわけにはいかないだろう。
 とりあえず、自分は『そういう相手』を買い、サービスを受けたのだと自覚しなければならない。だとすれば正しい対処は、『客』としてやるべきことをしないといけないということだ。

ご、ごめんなさい。実は私、その、全然覚えてなくて……と、とりあえず代金は払います

ううん、お代はもういただいたわ。カード引き落としで

あ、便利な時代ですね……いや、そうじゃなくて

あの、でしたらもうすみません、お店に戻っていただいて結構ですので

えっ、それは返品ってこと?

返品……?
いや、もうサービスは終わったんですよね? あれ、もしかしてまだ時間内?


 私が立ち上がってベッドから身体をおろすと、足が何かを蹴りつけてしまった。
 その衝撃で床を滑っていったのは、某大手ネット通販サイトの小さなダンボール箱だった。

ん? これは……

覚えてないの? 私はそれに入ってきたのよ


 美女が何か変なことを言っている。気にせずに私は箱を拾い上げて、その中に入っていた注文書を目にした。


『オルガマニア(アダルトグッズ) \5,500』


アダルトグッズ?


 その瞬間、脳の底から泉が湧き上がるように、忘れていたはずの昨夜の記憶が溢れだしてきた。
 酒の勢いで吐き散らかした愚痴、回らなくなった呂律、突然のインターホン、ドアへ向かう千鳥足、配達のお兄さん、受け取ったダンボール箱、開けた箱の中から出てきた、手のひらほどの大きさしかない棒状のそれ……。

あ……!!

ねえ、パンツはかなくていいの? 風邪引くよ



 振り返ると、私が昨夜脱ぎ散らかしたパンツを、美女が指で摘んでヒラヒラと動かしている。
 私が焦ってそれを奪い取ると、美女は意地悪な笑みを投げつけてきた。

……岩山麻子さん、だっけ。昨夜のこと、やっと思い出せた?

私ね、それなのよ。あなたが数日前に注文したアダルトグッズ。なんか目を覚ましたら、人間の体になってたけどね


 私はパンツを穿きながら、どうしてだか美女の奇天烈な言葉の意味をきっちり噛み砕く前に、裸のままシーツに包まれて朝陽に照らされる彼女の姿が、嫌味なほどに芸術的だとかなど、あらためて思っていた。




第二話に続く

第一話 私が買った美女

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