竜也

なんなんだ、一体

ここに来た途端に何故これほどまでに信頼を置かれるのか。竜也はその答えがわからないまま、残されたお菓子の山から一つせんべいを取り出した。現代社会の典型のような核家族の一世帯の家で、お菓子はたいてい贈答品のクッキーやらパウンドケーキやらが多かったせいか妙に焦げた醤油の香りは特別感があった。

自慢ではないが、人間として一高校生として生活していた頃は期待どころか小さな頼みごとも滅多にされなかった。

面倒事を頼まれることもないが、重要な役を任せられる喜びもない。スクールカーストの中の下というのはそんなものだ。

ひたすらにクラスの空気と一体になりながら下の人間と入れ替わらないように立ち回る。ただでさえ竜也は天使の存在を信じている妄想癖があると周りから思われているのだ。それについて弄られたことも少なくない。顔に仮面を貼り付けて道化を演じ、本音を隠すことでどうにか空気の位置にしがみついていられる。標的となってしまえば簡単には覆らない。

いや、あるいは既に竜也は標的に落ちていたのかもしれない。ぼんやりと死を選んでしまいたくなるほどには心を使い切っていたのだから。

竜也

そう考えればここは居心地がいいな

タナシアは竜也が天使の存在を信じていることを知っていた。恐らく他の二人も、それからイグニスとキスターも知っているはずだ。それでも貶すことなく竜也と向かい合ってくれる。それはもしかすると天使の存在以上に竜也が欲していたものかもしれない。

いつの間にか眠ってしまっていたらしかった。空の色が変わらない天界ではそこからどのくらいの時間が経ったかをうかがい知ることは出来ない。

フィニー

タナちゃんのお部屋はこの廊下を行った先の左側ですよ

ふと先ほどに聞いたフィニーの言葉が思い返される。

竜也

行って、みるか

行ったところで何か言うことが見つかっているわけじゃない。出会い頭に追い返されるかもしれない。たださっき眠りに落ちる前に思ったことが本物か。それを竜也は知りたかった。

ベッドから体を跳ね上げる。もうここに来てから二日以上は時間が経っているだろうが、体に少しも汗が滲まないことに違和感を覚え始めた。そもそも体は人間界に置いてきているのだから当然なのだが、汚れない体がこれほど不安を煽ってくるなんて思ってもみなかった。

シャワーを浴びたい、と竜也はふと思う。新作のゲームやアニメのDVDボックスを買ったときにはそのわずかな時間すら惜しむというのに、今はあの体にこびりついた何かを洗い流すものが恋しかった。

真っ黒な空と対照的な白い石畳の上を歩いていく。この色が途切れたら、たとえ辿り着かなくても引き返そう、と竜也は心に決めた。今日イグニスとキスターに連れられていった真っ黒な床は思い出すだけでもすぐにも奈落に吸い込まれてしまいそうだ。この古城のようなレンガの壁も向こう側にはただ黒の空間が広がっているだけ。フィニーの話を聞くにそういうことだろう。天界の全体がどのような形を為しているのかは竜也にはわからないことだが、この壁もどこかの空間を仕切っているだけのものに過ぎない。

音のしない石畳にようやく慣れてきた頃、まだ続く廊下の左手に確かに扉が見えてきた。真っ黒な窓のような小さなものではなく、きちんとドアノブのついた竜也が見知った扉だった。

竜也

これ、か?

誰もいない空間に問いかける。もちろん答えは返ってこなかった。

扉を三度叩いてみる。

竜也

寝てる、ってことはないのか? というか死神は寝たりするのか?

不安を喉の奥に溜め込まないように思ったことをそのままに流し出す。やはり答えは返ってこなかった。

竜也

戻るか

そういえば一人で天界を歩いたのは初めてか、と思い出す。なんだか少しずつこの世界に馴染み始めた自分を見つけて、竜也は少し嬉しくなった。そうだ、これだけでも出歩いた価値はあった。

言い訳と安心を半分ずつ並べる竜也の背中にふいに声がかかった。

タナシア

用があるんならとっとと入ってきなさいよ

竜也

あ、タナシア。いたのか

タナシア

そりゃいるわよ。ここ私の部屋なんだから

竜也

そりゃ、そうだよな

一つやりきった気持ちだった竜也は目的に一歩近付いたはずなのにどこか調子を外されたような気持ちでタナシアの誘いに従った。

タナシアの個室は竜也が想像していたよりもずっと近代的だった。ここはフィニーの趣味で古城のようなメイド服の似合うデザインになったと聞いていたが、さすがのタナシアも自分の部屋は自分で決めたらしい。

寝室と書斎を組み合わせたような部屋で、明かりは蛍光灯。二組の本棚にはところどころ空きがあった。ベッドも簡素で竜也のクラスメイトもこのくらいのもので寝ている奴もいるだろうというほど安っぽい。壁も天井も日本の新興団地によくあるプレハブ住宅のようでくすみ一つ見当たらない。

屋根があることを除けば中庭を間借りしている竜也とそれほど変わらない、あるいは天蓋付きの身の丈に合わないものに寝ている分竜也の方がいい生活かもしれない。

竜也

なんていうか、普通だな

タナシア

悪い?

竜也

いや、そんなつもりはないが

今までもタナシアは何かやっていたらしく、スタンドライトがついた書斎の椅子に腰掛けた。その椅子だって家具屋で安く買えそうな一品だ。言葉よりも豪奢なもの当然のように持って来るフィニーと比べて意外とタナシアは庶民派のようだ。

タナシア

最初は他の部屋と同じだったのよ。でも石を組み合わせた壁なんて見てるだけで寒気がするし、オイルランプも燭台も使いにくいし、あとフィニーが用意した机大きすぎるし

だから全部使いやすいように変えたのよ、とタナシアは自慢げに話した。人間のことが嫌いで仕事にも行きたくないというくらいの割りに、フィニーよりよっぽど現代の生活様式を知っている。不思議なものだ。

タナシア

それで何の用? 答えによっては死んでもらうけど

竜也

物騒だな。特に何かって訳でもないんだが

タナシア

試験のこと?

言いあぐねる竜也の心を察したようにタナシアが言い当てる。

竜也

そうだな

タナシア

別に受けてあげてもいいわ。ここでアンタが床に頭を擦り付けてお願いします、って言うんならね

どう? としたり顔でこちらを見ているタナシアは少し楽しそうだ。一度言ってみたかったセリフが言えた、そんな風にも見える。竜也にだって自分には絶対に似合わないとわかっているからこそ言ってみたい言葉を何個も胸の内に抱えているからよくわかる。

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