僕の目の前で、彼女が苦しそうに眉をひそめている。
 彼女を担当する医者が言うには、もう長く持たないらしい。

せめて、最後のときまで、どうか一緒にいてあげてください

 それしか方法はないという。
 黒くてつややかな長い髪を振り乱して、元々白かった肌は今は青白く、いたるところから珠のような汗を浮かべている。ふくよかで健康的だった桜色の唇は乾き、今は人工呼吸器に覆われていて、時折、本当に苦しそうなうめき声が漏れる。必死に何かをこらえるようにきつく握られた彼女の手の爪が、両手で包み込むように彼女の手を握り締めている僕の手を鋭く突き刺す。
 彼女のその姿はとても痛々しくて、思わず目を背けてしまいそうになるのを、僕は必死に我慢しながら、僕をうわごとのように呼び続ける彼女に声を掛け続けることしかできなかった。

僕はここにいるよ! 大丈夫だから!

 さっきからこの繰り返し。彼女の苦しみを和らげることも、彼女が感じているはずの痛みを肩代わりしてあげることも、何もしてあげられることがない僕は、ただただ彼女に声を掛け続けながら、無力さを痛感するしかなかった。
 そうしてどのくらいの時間が経っただろう……。
 一分一秒が、まるで永遠にさえ感じるときの中で、さっきまで苦しそうにしていた彼女がふと声を掛けてきた。

あなた……泣いて…………いるの?

 酸素マスクに覆われた彼女の口からこぼれた言葉は、くぐもっていたけど、それでもはっきりと僕の耳に届き、僕はあふれ出る涙を拭うことも忘れて彼女の顔を見た。
 相変わらず青白い顔で珠のような汗を浮かべているけど、その表情はさっきまでの苦しそうなものと違って、どこか穏やかなものに見えた。
 もしかして、よくなったのか? そんな小さな希望にも似た思いで、慌てて医者を見れば、医者は無言で首を振るだけだった。
 その意図するところを悟ってしまった僕は絶望に叩き込まれる。
 そんな僕の顔を、すっかりやせ細ってしまった手でそっと撫でながら、彼女は言った。

ねぇ……聞いて……

嫌だ……聞きたくない……。聞きたくないよ、そんなの……

 駄々っ子のように涙を流しながら言う僕に、彼女は困ったような顔を見せる。

お願いだから…………聞いて?

 もう一度繰り返す彼女に、僕が小さく頷くと、彼女は口を覆う酸素マスクを自分で取って、微笑みながら言った。

私はね……。あなたと出会えて……、あなたと一緒に暮らせて……、子供はできなかったけど……、夫婦として時間をともにできて……、とても……とても幸せだったよ……

 目の端に涙を浮かべながら、それでも僕を何度も魅了した、ふわり、とした笑顔で彼女は続ける。

あなたがいてくれたから……、私はここまで生きてこれた……。私は……あなたに出会うために……、あなたと一緒になるために……生まれてきたんだ……、そう思えた……。だから……、ありがとう……。私に出会ってくれて……。そしてごめんね……。こんな私に……最後までつき合わせて…………

………………て…………よ……

 僕の言葉を聞き取れなかったのだろう、首を傾げる彼女の胸に、僕はすがりつきながら叫んだ。

ごめんなんていうなよ! 僕だって…………、僕の方こそ……君には助けられてばかりだった……! 君がいつも笑って僕を迎えてくれたから……僕はきつい仕事もがんばってこれた……! どんなに仕事で疲れて帰ってきても……、君があの家にいて……君が笑いながら『お帰り』って言ってくれる…………、たったそれだけのことで僕は疲れが吹き飛んだ……。僕は君がいるだけで幸せなんだ……! 他に何もいらない……! だから……『ごめん』なんて……謝るなよ…………。もう会えないみたいな……そんな『ありがとう』なんて言うなよ……

 彼女の胸に縋り付きながら泣き叫ぶ僕の頭を、彼女はまるで幼子をあやすかのように優しく撫でながら、全てを吐き出すかのように胸の裡を吐露する。

困ったな…………。こうなることは予測してたし……。覚悟もしてた……。でも……やっぱり……死にたくないよ……。私だって……もっとあなたと一緒にいたい……! あなたと……いろんなところへ行きたい……! もっと一緒に笑っていたい……! 遊びたい……! キスだってしたい……! 嫌だよ…………あなたと別れてしまうのが……辛いよ……

…………っ!?

 僕は何もいえなかった。本当は、もっともっと、たくさん言いたいことがあったのだけれど……、口を開いてもきっと、慟哭の声しか出て来そうになかったから。

でもね……

 それは、先ほどまでとは打って変わって、とても穏やかで慈愛に満ちた声だった。

何よりも辛いのは…………。あなたのそんな顔を見ることなんだ……。私は……、あなたが笑っているときの顔が好き……。子供みたいな……そんな無邪気な顔で……私を見るあなたが好き…………。だから…………そんな顔しないで……? 笑って……?

 透明な、清らかな雫を目から零しながら懇願する彼女に、僕はわがままを言うように首を横に振った。

笑えるわけ……ないだろ? 僕の大切な人が……君が目の前でこんなに苦しんでるのに……、君が死んでしまう……そう思うだけで……、胸が張り裂けそうで…………。そんなんで笑えるわけ……ないじゃないか……

……うん、……そうだね

と彼女は言う。

私だって……、もしあなたが私みたいになって……、それを私が見ていたら……きっと笑えないと思う……。ごめんね……無茶なことを言って…………。それじゃ…………私からの最後のお願い……聞いてくれる?

 最後のお願いなんて本当は聞きたくなかった。だけど、聞かなければいけない。そう思った。だから、僕はみっともなく涙を流し、鼻をすすり上げながら、ゆっくり頷いた。

ありがとう

 彼女は小さく笑ってから、そのお願いを口にする。

さっきもいったけど…………。私はあなたの笑顔が好き…………。だから……最後まで私にあなたの笑顔を見せて……? 私を…………笑顔で見送ってほしいの…………。……だめ?

 寝ているというのに、器用に上目遣いをしながら僕を見る彼女。僕は、昔から彼女にこの顔をされてお願いを言われると、断れたためしがなかった。

ずるいよ……。そんな顔で言われたら……。僕が断れないの知ってるくせに……

 そう言って、涙に濡れ、鼻をずびずびと言わせながらも、不器用に僕は笑った。きっと今の僕の顔はくしゃくしゃなのだろう。けれど、それでも笑顔を彼女に見せた。
 ふふふ、と悪戯っぽく笑う彼女。

変な笑い顔……

仕方ないじゃないか……

 おかしそうに笑う彼女に、僕が頬を膨らませると、彼女はもう一度悪戯っぽく笑ってから、再びそっと、僕の頬に手を押し当てた。

ありがとう……。私のわがままを聞いてくれて……。ありがとう…………私を愛してくれて…………

 そう言って弱弱しくも僕の身体を引き寄せた彼女は、静かに目を閉じ、僕にキスをした。
 以前のようにみずみずしいものではなかったけれど、それでも柔らかい感触と甘い香りが僕の中を駆け巡る。
 そうして、たっぷり数秒間、僕たちはそのままでいて、やがてゆっくりと離れる。
 どこか恥ずかしそうに微笑んだ彼女は、

私は……あなたと出会えて幸せでした……。あなたを……愛しています……

 そしてゆっくり目を閉じ、そのまま力尽きた。
 心電図の無機質で平坦な音が部屋に鳴り響き、医者がばたばたと動き回る。

ねぇ…………起きて?

 ゆらゆらと彼女の手を揺らす僕。

 ――彼女の反応はない

目を開けてよ……

 もう一度、今度は強く、彼女の手を揺らす。

 ――彼女の反応はない

 医者が彼女の脈がないことを確認して、彼女の目にペンライトを当てる。そして、ゆっくりと首を振ると、僕に彼女の死を宣告した。

残念ですが……ご臨終です……

 その意味をゆっくりと理解した僕の目から滂沱のごとく涙が溢れ出し、

うわぁぁぁぁぁぁあああああああああっ!!

 僕の咆哮のような泣き声が病室を満たした。


 あれから一年後。
 僕は彼女が眠る墓石の前で、彼女に静かに手を合わせていた。

君を失ってから……一年がたつけど、いまだに痛みは癒えないし、いまだに心にぽっかりと穴が開いたかのような感覚が拭えないよ。でも……、それでも元気になんとかやってるから……

 どうか心配しないでほしい、と心の中で呟いた僕は、

また来るからね……

 最後にそれだけを言ってきびすを返した。
 そのとき、一陣の風が吹き、彼女の墓石の前に置いた、彼女が好きだった白百合が小さく揺れ、ふと振り返った僕は、墓石の前に彼女が立っているような幻を見た。
 幻の彼女は、僕が大好きだった最上の笑みを浮かべながら言う。

 ――あなたを愛しています。いつまでも……

 もう一度風が吹き、目を瞑ってしまった僕がもう一度目をあけると、すでに幻の彼女は消えていた。
 気のせいだったのかもしれないし、空耳だったのかもしれない。でも、僕はふっと笑うと、彼女の幻があった場所へ呟いた。

ああ……。僕も愛しています……。いつまでも……

 そのまま僕は、もう一度踵を返して、今度こそ立ち去った

ありがとうを君へ……

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