シェイド

む、どこへ行くつもりだ?

中庭を抜け、ずっと見ているばかりだった廊下三本のうちの一本を進み始めたところで呼び止められた。竜也は思わず背筋を伸ばして固まった。竜也より背の高い二人の陰で見えないが、声の主はわかっている。今日、ここに残っているのはもう一人しかいない。

イグニス

いえ、少し竜也をお借りしようと思いまして

及び腰でイグニスが答えた。余裕のある微笑みも消えている。さすがのこの好青年でも殴られるのは避けて通りたいらしい。

シェイド

木野竜也の身柄はこの裁きの間下級裁判官タナシアが預かっている。勝手に借りられては困る。た、確かに職務怠慢な上に、今日は出掛けてもいるが

呼び止めたシェイドも自分の主の怠慢さはよく知っているだけにだんだんと声のトーンが落ちていく。最初の威厳のある声色はすぐに消え入るようなか細い無視の羽音のようだ。

キスター

俺がちょっと借りたくてな。タナシアが戻るまでには返す

シェイド

キスター様であっても勝手は許されません。タナシアが不在の今、私がこの裁きの間の秩序を守らねばならぬのですから

お、おう、と小娘の気迫に押され返す閻魔王とはなかなかに見られない光景だろう。ついさっきなんとかする、と言っていた。威厳は竜也の頭から軽く吹き飛んだ。この二人はただの悪友だ。そんな気がする。

キスター

ま、そういうことだからあいつらが帰ってきたら適当にごまかしといてくれ

よろしく、と片手を挙げてシェイドの横をキスターがすり抜ける。次の一言をどうするか考え込んでいたシェイドは不意を突かれて簡単に道を譲ってしまう。その隙間にイグニス、そして引っ張られるように竜也が続いた。

シェイド

待て!

怒るシェイドの声を無視してキスターとイグニスが走る。死神の怪力に引かれた竜也は半分体を浮かせながら抵抗するのも諦めてついて行くことしか出来ない。大理石の床が少しずつ黒く色を変え、どこまでが床でどこまでが空かわからなくなる。

裁きの間のデザインはフィニーが考えた。そう聞いている。つまりあの場所は古城のようにデザインされただけでこの世界の全てではない。今いる空間、物質もなくただ黒が永遠に広がっているこの視界こそが天界の本来の姿なのだ。

竜也にはもはや上下も左右もわからなくなってきたが、キスターとイグニスにはしっかりと道が見えているらしく、戸惑うこともなく時々曲がりながらも足を止めることなく進んでいく。

イグニス

天国と地獄、どちらがいいですか?

イグニスが急に振り返って、竜也に質問を飛ばした。

竜也

そりゃ、天国だろ

特別な考えもなく、思いついたままに答える。

イグニス

それでは地獄でも観光してみましょうか

竜也

そう来ると思ったよ

イグニス

まぁ、天国は我々でも簡単には入れませんからね。後からも行けませんよ

だったら聞くなよ、と言う気も失せて、竜也は肩をすくめる。その仕草に満足したのか、イグニスは真っ黒な空間で小さな窓枠くらいの少しだけ色の濃い部分に手を当てる。何かを探るように眉をひそめて三秒後、薄く光が漏れ獣の口が開くように小さな窓が扉ほどのサイズに広がった。

イグニス

それじゃあ、参りましょうか

キスター

心配するな。誰も意味もなく地獄に突き落とそうってわけじゃねぇんだ

竜也

それ、やろうと思ったけどさすがにマズイと思ったんですね

竜也の言葉にキスターが目線を逸らし、わざとらしく頭を掻く。だんだんわかってきたが、このキスターという閻魔王。地位の割にはどこか茶目っ気がある。フィニーもイグニスもそういうところがあるが、これは死神の性質なのか。

そう思って先ほど真面目に職務を全うしようとしていたシェイドの顔が浮かんできた。やはりこれは一部の死神だけかもしれない。

イグニス

ではこちらに

黒い空間の先はやはり黒い空間だ。もしかするとただからかわれているだけで、同じところを回されているだけなんじゃないか、と竜也には思えた。イグニスとキスターの後ろ姿だけを頼りにしていくらほど歩いたか、ようやく少しばかり明るいところを見つけたと思うと、その先に二人が入っていく。

イグニス

着きましたよ

視界が黒から赤に変わった。おどろおどろしい赤は上がる炎と流れる血の色だった。胡散臭いと思っていた宗教家達の言もあながち嘘ばかりではないと思えるくらいには地獄という印象に違いはない。

人の背の二倍はある剣山がそこかしこに突き出て、河原には大きな岩が積まれ、流れる川は赤い色をしている。火山が噴火して灰を撒き散らしながら容赦なく熱を浴びせてくる。

ただ一つ竜也が人間界で聞いていたものと違うところはそこにほとんど人の姿が見えないことだった。

確かに苦役についているものはいるが、どこかはつらつとしていて希望に満ちている。この世の終わり、絶望の極地のはずがその色は人々の顔からは少しも見えない。

イグニス

この状況をどう思われますか?

竜也

どうって。どうなってるんだ、これ?

イグニス

天国も似たような状況ですよ

竜也の戸惑いを待たずにイグニスは表情を崩さずにそう言った。

イグニス

人間界の発展に伴って下界帰りが年々増えているのです。地獄に落ちた人間ですら来世はきちんとやり直せると信じて苦行に耐え、天国の安穏とした生活よりも人間として努力し成功する方が楽しいと考える者が増えているのです

キスター

転生すれば確かに中身は一緒だが、赤ん坊として生まれる頃には前世の記憶なんてすっ飛んじまうのにな。それでもやり直したいと思う奴が多いってわけだ

その話を聞いて竜也はもう一度地獄の底で活き活きとした表情で自らの罰を受ける人を見下ろした。今の自分よりよっぽど楽しそうに見える。彼らがここにいるということは前世で相当な悪行を行ったのだろう。それでも彼らはまだやり直せると信じられるのだ。

それはたとえ前世が悪に堕ちたと言えども、波乱万丈の一生だったからだ。

竜也の人生は空虚だった。毎日同じ時間に起き、同じ電車で学校に行き、席に座って授業を受け、また同じ電車で帰る。中高一貫の私立進学校に通っている竜也は世間から見れば優秀な部類に入るだろう。それでも竜也はそれが誇らしいと思ったことはなかった。

平凡と言うのすら躊躇われる繰り返しの中に竜也は戻りたいとは思えない。今だって人間界に帰りたいと思う理由はあの日常を取り戻すことではなく、ここで見つけた新しい非日常を世界に訴えるためだ。あり得ないと鼻で笑った奴らを見返してやりたいだけだ。

竜也

俺にはわからないな

イグニス

まぁ、そうでしょうね。あなたはそう思っていないようでしたから

竜也の零した言葉を気にした風もなくイグニスは自らの手帳を開いて何かを書き込んでいる。どうやら竜也を連れてきたついでに視察したという報告書を作っているらしい。こんな適当な様子見程度で何もないが、今まで竜也が見てきたとおりイグニスという男は仕事熱心ではない。

いくらかの走り書きを終えるまでキスターがイグニスの言葉を継ぐ。

キスター

そういうわけで天界の霊体は数が減っていくし、人間界には人間が増えていく。こっちの仕事は増えるばかりだ。やってらんねぇよ

竜也

それが仕事なんでしょう?

キスター

お前さんだって同じ日の繰り返しが嫌で死んでこっちに来たんじゃねぇか

そう言われて竜也は押し黙るしかない。つらつらと何かを書き込んでいたイグニスが手帳を閉じて面白そうに竜也の方を見つめている。

イグニス

我々としては猫の手も借りたい状況でしてね。人間界に、少なくとも今は興味のない方はとても貴重なんですよ。必ず残れ、とは言いませんから資格だけ取っておいてください。なんなら寿命が来たら迎えに行きますので

気軽に話すイグニスの言葉には重みがない。でも道端で配られているポケットティッシュとはわけが違う。この選択は少なからず竜也の人生、あるいはその後にまで影響する話だ。首を縦にも横にも振れず、竜也は微動だにしないまま二人の顔を目だけを泳がせて交互に見た。

こんな重要な選択を迫られるのは、竜也にとって恐らく初めてのことだった。

自分の意思で行き先を決める。そんなことを自分はやってこなかった、と思う。

私立の小学校も中高一貫の今の高校も親の勧めとちょっとしたエサに釣られて深く考えずに決めた。何かを選び取るのが嫌で部活にも入っていない。友達だってほとんどいない。誰と気が合うのか、話が合うのかなど考えたこともなかった。

ただその場に与えられたものを深く考えずに手に取る生き方。幼子のまま育った竜也の身に突然与えられた選択肢は簡単に手に取れるものではなかった。

竜也

もう少し、時間をもらえますか?

イグニス

構いませんが、あなたの審判の日まではあまり時間がありません。お早めに

イグニスはさして残念そうもなく淡々と告げる。キスターは口元に手を当てて何かを考えているようだった。

断ればこのまま地獄の底に突き落とされるだろうか、と心配していたが、そんなこともなく用事が済んだ三人はもと来た道をそのまま辿って帰路につく。もちろん竜也にとっては全てが黒一色で同じか違うかはよくわかっていない。

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