室内に響いた、遠慮がちなノックの音。
すぐにそれがアーニャのものではないと気付いた僕は、無言で『そいつ』と自分を遮る古ぼけた扉を眺めている。
室内に響いた、遠慮がちなノックの音。
すぐにそれがアーニャのものではないと気付いた僕は、無言で『そいつ』と自分を遮る古ぼけた扉を眺めている。
再び繰り返されたノックから察するに、諦める気など毛頭無いのだろう。
――リドル
続けて、扉の向こう側から遠慮がちな声がした。
低くて通りのいい、成人した男の声だ。
……何だ
僕は溜め息をつきながらそれに答える。
時刻は未だ早朝。
奴の脳内辞書に『遠慮』や『礼儀』という言葉は無いらしい。
話があるんだ。開けるぞ
続けられたのは許可を求める言葉ではなく、もはや宣告だった。
そして僕の返事を待たずにドアが開かれる。
――いくら神妙な面持ちをしたって無駄だ。
僕は眉間に深い皺を寄せる。
――開けていいとは言っていない筈だが
あんたが許してくれるのを待ってたら日が暮れちまう
淡々と話す僕の言葉尻にかぶせるようにして男は言った。
長い前髪に隠れた眉は凛々しく吊り上がり、瞳には揺らぐことの無い決意の色が見える。
僕は男の――シドの顔を暫く眺めてから、肩をすくめた。
窓辺の椅子に腰かけたまま、再び外の風景に視線を向ける。
――今から発つことにした
静かな声で奴がそう言っても、僕は大して驚かなかった。
そうか。だったらとっとと出て行くがいい
――背を向けたまま不愛想に言う僕の態度に、少し前のあいつなら、『何だい何だい、失礼だなぁ!』と肩をすくめる筈だった。
しかし奴は何も言わない。
暫く黙りこくった後、口にしたのはこんな言葉だった。
――どこへ、とは聞かないのか?
奴の言いように僕はフン、と鼻を鳴らす。
思いあがるな。
お前ごときの動向に興味を持つような僕ではない
見下ろした朝の街に、行き交う人は未だ少ない。
しかしすれ違った人々は皆一様に笑顔で挨拶をかわす。
今にもここまで声が聞こえてきそうだ。
僕はそれを何となく、ただ本当に何となく眺めている。
暇だから。
退屈だから。
理由はそんなところだ。
それ以上でも以下でもない。
ピライエ山脈に向かうことにした。
そこに、もしかしたら『希望』があるかもしれない
シドが口にしたのは、遥か南にそびえるというきりたった山脈の名だ。
僕は奴の言う『希望』についても詳しいことは聞かなかった。
何せ僕は『人間』に興味がない。コトラの民に害を為し、口を開けば不平不満ばかりの人間になんて――……。
……有難う
男は確かにそう言った。
ゆっくりと振り返ると、腰をほぼ直角に折り曲げながら、自分より一回りは年少の僕に深々と礼をするシドの姿が目に入る。
無礼な真似をはたらいて本当にすまなかった。
気を悪くするどころの騒ぎじゃあなかったろう。
しかしそれでも、あんたは俺に情けをかけてくれた
男はそう言ったきり押し黙る。
僕は暫く考えて口を開いた。
――何のことをいっているのかわからないな
そう言ったきり両腕を組んで、男のつむじをじっと見つめる。
……わかって欲しくて言ったわけじゃないさ。
ただ、言いたかった、言わなきゃあならんと思っただけで
シドはそう言うと、顔を上げてへにゃりと笑った。
あんたは忘れてくれていい。
哀れな男が一人、あんたの住処に乗り込んできたことも、無茶な願いを口にしたことも、全部、全部
その言葉に、僕は昨日の夕刻から起こった出来事を頭の中で思い返してみた。
街の人間の罵声、コトラを騙る奇術師、そして、三人で囲んだ食卓で湧くにぎやかな笑い声。
――そうだな。早々に忘れることにしよう
僕はそう言って、再び男から視線を逸らした。
――しかし昨日のチキンソテーは、特別美味かった。
……そのことはしばらくの間、覚えているかもしれない
部屋の隅、何もないところをじっと見つめる僕に、シドはそれ以上何も言わなかった。
ただふっと、何ともいえない柔らかさで破顔して、再び僕に一礼する。
――本当に、有難う。
……いつか。いつか、必ず、また会おう
シドはそう言ってきびすを返した。
……おい!
その背中に、僕は思わず声をかける。
振り返ったシドに一言、問うた。
ニヤリといかにもニヒルな表情で笑って見せながら。
――僕に願うのは諦めたのか?
コトラの力にかかれば、恐らくその『希望』とやらもたやすく手に入る
シドは両目を見開いた数秒の後、こらえきれずといった感じで噴き出した。
ひとしきり笑ってから、清々しい表情で僕に告げる。
……わかったんだ。
誰かを悲しませながら願いを叶えても、結局誰も喜んじゃあくれないってことがさ
それは宣誓にも似た誠実さで、静かに僕の鼓膜を震わせた。
それじゃあ、という一言と共に、男の姿が室内から消える。
パタンと閉じたドア。
次いで僅かに聞こえる階段を下る足音。
僕は窓の枠に頬杖をつきながら、誰にともなく呟いた。
忘れろと言ったりまたと言ったり、頼むと言ったり『いい』と言ったり……矛盾しているだろうが
そう、人間という生き物は、かくも矛盾をはらんでいる。
生きたいと言った口で死にたいと言ったり、好きだと言えば嫌いだと言う。
全くもって理解不能だ。近寄りたいとも思わない。
嘆息しながら窓の外を眺めていると、白銀の鎧を身にまとった男が死角から現れる。
笑いながら手を振っているのはアーニャに対してだろうか。
全く、僕の朝飯の用意もせずに、ふざけたメイドだ。
何度も何度も振り返りながら、最後にはちゃんと背筋を伸ばして、前を向いて歩き出す。
一歩、また一歩と踏み出すごとに、鎧はカシャンカシャンと硬質な音をたてている筈だ。
迷うことなく、見つかるとも知れない一縷の希望だけを頼りに。
不意に男が立ち止り、振り返った。
二つの瞳がこちらを仰ぎ、ふっと細められる。
唇が形作ったのは、何という言葉なのか。
僕にはわからなかった。わからなかった、筈なのに。
……っ……!
その瞬間、喉の奥でぐっと息がつまるのを感じて、僕はたまらず窓を開いた。
シドの瞳が驚きに見開かれているのがわかる。
当然だ。僕だって自分が何をしているのかわからない。
――柔らかに吹き込む風。
生い茂る緑と、温められた朝食の匂い。
この窓を開いたのは、生まれてこの方これが初めてだった。
なんだ。
どうしていつも指をくわえながら、ガラス越しに眺めていたのか。
世界はこんなにも、こんなにも。
――“花よ”!!
僕は窓の外に向かって右手を突き出すと、厳かにそう口にしていた。
……あいつに『コトラの力』を見せつけてやる為だ。
二度と偽物なんか騙れないように、この圧倒的な力の差を。
その為だ。その為だけだ。
僕の掌からあふれるように、色とりどりの花が舞い落ちる。
慌てた男がそれを受け止めようと走り回った。
しかしとても拾いきれない。何せ花は大量だ。
ピンク、白、黄色、紫。
鮮やかに舞うそれらは色こそ違えど、みな同じ花弁の形をしていた。
ミリアの花。
学名ミリア=ラ=フィーネ。
――花言葉は『祝福された門出』だ。
ははは……あははははっ!!
くるくると走り回る男の姿を見てひとしきり笑った後で、僕はゆっくりと歩き出した。
朝食の用意をさぼっているメイドに喝を入れて、一足先に卓についてやろう。
あいつには良いプレッシャーになるはずだ。
用意ができたらトレイを並べ、ゆっくりと朝食を頂くのだ――勿論二人で。
窓を開けたまま、ゆっくりと部屋の扉を閉める。
その瞬間、紫色のミリアの花が、風のいたずらで一輪、ふわりと迷い込んだ。