とある秋の夜、押入れの隅に陶器の壺があった。壺をのぞきこむと、小さな青蛇がいた。とぐろを巻いて、水に沈んでいる。ぴくりともうごかない。
俺は蛇が嫌いだった。手足がないにもかかわらず牙があって、もしかすると毒もあって、手足があるものよりも素早く動ける。これが恐怖の対象とならないはずがあろうか。
だから、俺は壺ごと蛇を捨てようと、陶器に手をかけた。すると、鋭い声が背後から突き刺さってきた。
とある秋の夜、押入れの隅に陶器の壺があった。壺をのぞきこむと、小さな青蛇がいた。とぐろを巻いて、水に沈んでいる。ぴくりともうごかない。
俺は蛇が嫌いだった。手足がないにもかかわらず牙があって、もしかすると毒もあって、手足があるものよりも素早く動ける。これが恐怖の対象とならないはずがあろうか。
だから、俺は壺ごと蛇を捨てようと、陶器に手をかけた。すると、鋭い声が背後から突き刺さってきた。
にいさま、だめ!
どうしたんだよ、これ
脱皮、うまくできないみたいなの。だから、てつだってあげるの
蛇なんか気色悪いよ。どっかに捨ててこいって
どうしてそんなこというの。にいさまなんて、だいっきらい!
ある日、妹がいなくなった。幼さゆえの抗体のなさから、病によって連れ去られてしまった。その報せを聞いて、俺は飛ぶように家に戻ってきた。
集落の人々が総出となって、妹を送った。ただ、俺の目には、この行列は、絵本や絵巻で見かけた狐の嫁入りのように思えた。化粧をほどこされた妹が横たわる屋根のついた漆塗りの車を、集落の男たちが曳いていく。車が回ると、黒漆ばかりかのようであった側面に、隙間に隠れていた赤漆がちらついた。横たわる妹は白無垢と綿帽子を纏い、酒や鯛といったご馳走も供されている。これはまるで婚礼のようではないか。
これが妹の願いであったと両親は言っていた。それがどういうことなのか、俺にはさっぱりわからない。
艶やかな緑が波打つ夏の水田が海であるかのように、漆の車は山へと曳かれていく。
通っている大学が新幹線を駆使した挙句に在来線まで乗り継いでようやく到達できるくらいの他県になると、帰省はそれこそ盆正月くらいになる。大学生という肩書きの俺は、その時、お盆で実家に帰省していた。集まってくる親戚の分まで夕食を作る母から、田んぼの様子を見てこいと命じられる。素人が見たところで意味ないんじゃないのと反論すれば、畦が崩れるかどうかくらいなら判るだろといわれた。嫌なら布団の準備とかビールの仕込みとかを手伝えと追撃がくる。俺は仕方なく腰をあげ、サンダルをつっかけて、集落の周りに広がる水田へと歩き始めた。
あれ、誰かな
見慣れない姿を農道に見つける。すらりとした長身で、赤みがかった黒の着流しの、眼鏡をかけた男が田んぼを眺めていた。穂の重さや葉の様子などを観察しているらしい。ゆっくりと丁寧にすべての田んぼに目を通すと、男は満足げに微笑んだ。
いくら数年はなれていたとはいえ、集落の皆は顔見知りだ。だから、着流しの男は余所者なのだろう。その割には景色に馴染んでいる。まるで昔からこの里で稲穂の実りを見守ってきたかのようだ。
あらかた水田を眺め終わったのか、男はすべるような足取りで農道を歩き始めた。どこに行くというのだろう。草履の向かう先には山があるようだった。蛇がとぐろを巻いて鎮座しているかのような姿の、緑豊かな山だ。だが、人が住むにはそれこそ適していない。まさか男はあの山にすんでいるとでもいうのか。
それに、あの山は、妹が連れられていった山だった。
好奇心に駆られてた俺は、男の背を追いかける。
夏山は蝉がにぎやかだ。下草を踏みしめて空を見上げようとするも、おいしげる木々の葉は青を目にすることを許してはくれない。葉を透かして落ちてくる陽光はやわらかく、夏特有の鋭さを削がれていたけれど、葉と葉の隙間から時折瞬く閃光は容赦なく俺の目を刺した。
蝉時雨に叩かれながら山を登る。男の姿などとうに見失っていた。いくら子供の頃から親しみのある山であるとはいえ、大した準備もなしに突入したらどうなるか、答えは明白だった。
迷った
遭難と言い換えてもいい。とにかく、認めたくはないが、俺は迷った。雲行きもあやしいし、夕立にでも遭ってしまうのだろうか。
俺の予感は的中した。大粒の雨が一滴、下草を叩いたのを皮切りに、山は豪雨に見舞われた。すぐにずぶ濡れになってしまったが、雨脚が衰える気配はない。枝葉を避けながらがむしゃらに走り回っていると、雷鳴まで襲ってきた。
樹木の隙間に茅葺きの屋根が見えた。俺は泥を弾かせながら斜面をはいのぼり、茅葺き屋根の家の板戸を叩いた。板戸が開くと、幼い女の子が顔を出した。
雨宿りをさせていただきたいのですが
唐突な俺の要請に、女の子の大きな目が瞬きを繰り返す。菱形の組合せで成る和装にたすき掛けをしているところを見るに、家事でもこなしていたのだろう。女の子の面差しに目を離せずにいると、彼女は家の中を指し示した。
かまいませんよ、おあがりください
ありがとうございます
俺の声は、それはそれは地に足のついていないものであったに違いない。ようやく襲ってきた混乱をいなしながら、土間にあがらせてもらい、滴を落とす。俺から落ちた雨粒を、土間の土が吸っていった。
どれだけの時間そうしていたのだろう。
女の子が声をかけてきた。
雨、あがりましたね。里への境まで送ります。帰り道、わかりにくいでしょうから
俺がここに至った経緯は、どうやらお見通しであるようだった。
庭先を通り過ぎ、山をおりる。その間、道のわからない俺を先導する女の子は、ずっと手をつないでくれていた。
なぁ
濡れた葉から滴が落ちるのと同じくらいの囁きで、俺はひとつの名を落とした。女の子が緊張に身を固くしたのが伝わってきた。だから、俺の疑念は確信になった。
この子は俺の妹だ。だから、幼い日のあれは幻だったのだ。家族の、集落の誰しもが妹をいなくなったものとして扱うのは無意味なことなのだ。だって、現に、白無垢を纏ったあの時の、あのいとけないかたちのままで、妹はここにいるではないか。
妹の手がするりと俺の手を抜け出した。だから、俺は妹の手首を掴んだ。
一緒に家に帰ろう
……
そこは山と里の境目で、森がなくなる代わりに農道と水田が広がる分岐点だった。緑陰の中にいる妹の手を、俺は引いた。妹の脚がもつれた。妹はころげるようにこちらに倒れかかってきた。図らずももたれかかってきた妹を支え、俺の半身が山を抜ける。里には日の光が降り注いでいた。妹の指先が山と里の境界を乗り越える。すると、妹の指からみずみずしさが失われた。七色に光る小さな爪は艶を失い、皮が干からび、肉は脆く崩れていき、風に塵と掻き消えた。隠すものを無くした指は、尖った骨を陽に晒す。
呆然と立ち尽くしていただけの俺から、妹をさらっていく腕があった。そこにいたのは、集落の水田を検分していたあの男だった。
その子を連れ戻そうとするのは、やめておいた方がいい
赤黒の着流しの袖が、妹の小さな身体を俺から隠す。
君の妹が君の思い描くようなひとのかたちをしているのは、この山にいるからだ
どういうことだよ
それは、この山が私の領域だからだ。このかたちをもっての我が妻は、こちら側にしか在り続けることができない。ゆえに、そちらに踏みこんだ途端、野晒しとなる。それが、そちらにおける、この子の在るべきかたちだからね
おまえ、まさか……
私が気にかけている限り、君の里は稲穂の不作に悩まされることはない。私が眠れば、その限りではないだろう。だが、一旦私が眠ったとて、それは次の誕生までの停止にすぎない。また生まれれば、里の豊穣は約束される。古来より、この里は、そのように廻ってきた。とはいえ、最近は豊作すぎても困ると言われてしまっていてね。どうも人の世はままらないな
俺は男を指差した。
おまえ、あの時の、脱皮の下手な蛇だろう?
男は驚いたらしく、大仰に瞠目した。そして、関心したように笑う。どこまでもやわらかく、それでいて乾いた、蛇の抜け殻みたいな笑みだ。
よくわかったなぁ
妹を、返せよ
君は誤解しているようだが、私は彼女を奪ってなどはいない。あれは彼女と私の約束だ。彼女と私との願いでしかなかったものを、集落の皆で叶えてくれた
凶作を避けることと引き換えに、か
俺は拳に力をこめた。噛み締めた奥歯が軋みをあげる。
そんなことは知っていた。とっくの昔に解っていた。ただ、腑に落としたくなかっただけだ。
そこにいるのが当然であるとおもっていたものが、ある時、突然なくなってしまったら、納得などいくはずがない。
あの日、弔問ではなく祝言をもって里と山の境を越えた妹は、すくなくとも、山においては穏やかに暮らしている。
男が声を響かせた。涼やかな水のような、穏やかな雨のような男の声は、ひどく優しく染みこんでくる。
山にはいつでも遊びに来てくれていい。ただし、ここのものを食べたり飲んだりしてはいけない。これだけが条件だ
目をあげると、皮肉っぽさと悪戯っ子のような無邪気さがない交ぜとなった、男のやわらかな微笑みがあった。
男は着流しの幕をあげる。男に送り出された妹は、山と里の境の山側で、俺を見つめた。里側で陽に晒されながら、俺は唇を持ち上げる。
また来るかもしれない。来ないかもしれない。今日のことは白昼夢か何かだって自分に言い聞かせて、なかったことにするのかもしれない
俺は乾いてひび割れたアスファルトを凝視する。樹木のきらきらしさを直視できない俺の耳を、遠い日の記憶と寸分違わぬ妹の声が、ふわりと撫でた。
それでも、わたし、にいさまに会えて嬉しかった。だいきらいなんて言って別れてしまったけれど、ずっとだいすきだったし、いまだって、とっても、だいすき
夕立が暑さを叩き落してしまうみたいに、雷鳴が平静さを吹き飛ばしてしまうみたいに、聞こえてくる声が理解していまっている現実をとろかしてくれたらどんなにかいいだろう。
その場にくずおれ、アスファルトに両手をついて俯く俺の頭を、細く硬いものが撫でた。そうだ、俺のいるこちら側は陽が満ちすぎている。剥き出しの白であるのであろう幼いままの指に撫でられながら、俺は身を折り、雨によってもたらされた土の香を肺いっぱいに吸い込んだ。
『メガネ蛇と綿帽子』(了)
南風野さきは
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