相川

ここか……。



 某月某日某時刻、某県某市の某刑務所。
 純文学作家の私は、ある男から一枚の手紙をもらってこの殺伐とした場所へと辿り着いた。
 過ちを犯し、罪を背負い、償いの日々に生きる者達が集うこの刑務所という空間。幸運にも私に前科はなく、身内も皆身辺のきれいな者ばかりだったので、こういった場所にはあまり縁がなかった。
 手紙によると、その男はこの所内で私の本を読み、衝撃を受けたので、是非面会したいとのことだった。そしてこうも書かれていた。

是非とも貴方に、私の自伝を書いてほしい。私がこの凶悪犯罪を至るまでのその半生を、克明に記してほしいのです。執筆料なら弾みます。



 この男が私の本のどこに惹かれて、自伝の執筆などという大層な役の白羽の矢を立てたのかはわからない。たしかに私は自作に自信はあったし、なければ純文学など書かない。
 昨今の出版不況に加え元々純文学は売れづらい分野である。専業作家一本で生活しており、お世辞にも生活が豊かだと言えなかった私は、少しの興味と法外な執筆料に惹かれ、面会を前にこの男の詳細について独自に調べあげ、初顔合わせという今日の日を迎えた。



 面会室の強化ガラス越し。番号を呼ばれて部屋に入り、私の前に現れた男、あの手紙の主は、痩せた身体に少し陰のある面構え、その眼の色は、刺すような光が宿っていた。犯罪者特有の、社会を睨む眼差しというべきか。
 だがそんな犯罪者の無愛想な表情も、私の姿を認めた瞬間、打って変わって恵比寿顔に変わった。とても嬉しそうに私に話しかける。

山田

初めまして。あなたが作家の相川さんですね? やあ、思っていたように聡明な顔立ちだ。
あなたの本は全て読みました。どれも人間の精神の根幹に宿る、エゴや欺瞞を巧みな筆致で赤裸々に描き切っている。実に素晴らしかった。

相川

お褒めいただきありがとうございます。
さて、山田さん。いきなり本題に踏み込ませていただきますね。私に自伝を書いてほしいとのことですが。

山田

さすがは話が早い。ここに来てくれたということは、すでにあなたは私が何をしでかしたのかわかっていて、興味を持ってここに来てくれたということだ。



 私もこれまでに作品の執筆のため、いろんなところに取材に向かい、様々な人間と話してきたつもりだが、囚人と会話をするのは初めてだ。おどろおどろしい雰囲気に、飲み込まれかけなかったといえば嘘になる。

 私は落ち着いて、本題を再確認した。

相川

今いちど、確認させていただきます。山田さん、あなたは私に自伝を書いてほしいと。こうして刑務所に入るに至った罪、その過ちの記録を、私に記してほしいんですね。

山田

そうです。誰に頼もうか散々悩んだのですが、最早あなた以外考えられません。
これを本にして世に送り出すことで、人間が誰しも犯しかねない許されぬ罪とは何なのか、社会にはどのような悪が存在するのか、善良な人間とはどうあるべきなのか、咎人とはどのようにして生まれるのか。それを広めてほしいんですよ。
あなたの実力なら、きっとそれができる。引き受けてくれますか?



 男は身を乗り出し、私の瞳の奥を見透かしているかのような視線を投げて、問うた。私は深く息を吐くと、負けずに相手の目を見つめ返す。

相川

返事の前に最後の確認です。あなたがここに入った罪とは?



 男は不敵な笑みを浮かべ、自分の罪を口にすることが、まるで何かの娯楽、いや快楽であるかのように乾いた唇を開いた。
 男の口から告げられたその罪は……。

山田

ヤギ泥棒です。

相川

……。

山田

私はヤギを盗んだんですよ。

相川

ヤギ泥棒。

山田

ヤギ泥棒。

相川

……。

山田

ふふふ、気になって仕方がないようですね。どうして私が、ヤギを盗んだのか。

相川

いや別に。

山田

気にならないわけがない。なにせ、日本国民が大いに驚き、全メディアを震撼させた未曾有の凶悪犯罪だ。

相川

どこも震えてませんよ。一応調べてみましたが、地方紙の三面記事にちょっと載っただけじゃないですか。

山田

そうですね。すべての始まりは私が二歳の頃

相川

ずいぶん遡りましたね。というか別に気にならないって言ったでしょ。勝手に話し始めないでください。

山田

おかしなことを言う。あなたは私の罪が、私の半生が気になって会ってくれる気になったんでしょう?

相川

いや、この程度で自伝を書いてくれという人がどんな顔してるのか見てみたくて。あと、この辺は地元なのでスーパーでの買い物ついでに。ちょっと刑務所に興味あったし。

山田

ふふふ、相川さん。あなたはまだ、ヤギを盗む、盗まれるということがどれだけ深刻なことなのかまだわかっていないようだ。

相川

いや、ヤギ泥棒は立派な罪ですけれども。だからといって自伝の材料にはならないですよ。そんなネタに誰が食いつくんですか。

山田

相川さん。あなたは、この国の警察が最も憎んでいる犯罪がなんだか知っていますか。
殺人? 強姦? 詐欺? 
誘拐? はたまたテロ? 
いいや違う。それはヤギど

相川

嘘でしょ。

山田

ふふっ、相川さん。あなたはこの情報を知っても、まだヤギ泥棒を甘く見ていられるでしょうか。まだ私の自伝を書かずにいられるのでしょうか。

相川

なんですかもう。

山田

いいですか、相川さん。よく聞いてください。
ヤギは草食でおとなしそうですが……意外と暴れる。

相川

帰っていいですか。

山田

メェ~! メェ~!

相川

いや、鳴かれても困りますよ。

山田

タイトルも考えてあるんです。
『それでも私はヤギってない』。

相川

パクリじゃないですか。そもそもヤギってないってなんですか。

山田

ヤギるというのは、ヤギを盗むという意味です。

相川

じゃああなたはヤギった側でしょ。ヤギってないってタイトルはおかしいでしょう。『だから私はヤギりました』が正しいですよ。てかヤギるって言葉はねえよ!

山田

ある日、二歳の私は家族と一緒に……。

相川

おい勝手にさっきの続きを話すな。私は書かないぞ。

山田

なんでだメェ~。お前は書くんだメェ~。

相川

ヤギの鳴き真似したって書かないからな。

山田

えっ、ヤギの鳴き真似しても書かないの!?

相川

なんでヤギの鳴き真似したら書くと思ったんだよ。

山田

誰もが知りたいはずですよ。人はどれだけ善人面をしていても、誰しも結局は邪悪なものに惹かれてしまう生き物だ。
人はなぜ、人を殺すのか。なぜ犯すのか。なぜ騙すのか。
なぜ……ヤギるのか。

相川

気にならないよそこは。とにかく、私はもう帰るから。スーパーが閉まってしまう。

山田

あっ、待って。じゃあもう自伝じゃなくていいから! レシピ本とかでもいいから!

相川

誰が書くか、しょうもない。それじゃあね。

山田

ちょっ、待って! しょうもないついでに言わせて! これはすごくどうでもいいんだけど、実はヒツジも盗んだの!

相川

……それ、もっと詳しく聞かせてもらえますか。

山田

興味あるのかよ!

山田君からの手紙

facebook twitter
pagetop