かわいいやさん そのいち*いち

……最悪だな

あの角を曲がれば、もうすぐ自宅。それなのに、ここに来て一段と雨脚が強くなってきた。
バケツをひっくり返したような雨、という表現も生ぬるいくらいだ。
シャツの襟足からも、ぬるい水滴が忍びこんでくる。
肌をなぞるような感覚に、ぞっとした。

今日は厄日か

一条幸馬は、深くため息をついた。

眼鏡のレンズに、水滴がびっしりだ。
前髪からも雫が滴りおち、不快で仕方がない。

しかし、今の最悪な気分は、なにも突然の悪天候のせいだけじゃなかった。

この世のなにもかもが、自分にとって悪いほうへ悪いほうへ転がっていってるんじゃないかと、ろくでもない被害妄想まで抱いてしまいそうだ。

職場でのことを思い出すと、足をぬかるみに取られるような心地になる。
しかし、こんな大雨の中立ち止まり物思いに耽るほど、幸馬は感傷的な性格でもなかった。

こんな日は、さっさとシャワーを浴びて、ビールでも飲んで眠るに限るな……

マンションの入り口は目の前だ。
駆け出そうとした幸馬は、ふいに気がつく。
ブロック塀にもたれかかるように、蹲っている少年がいる。

……少年、じゃない。
猫の耳が……?

う…ん……っ

面倒なものを、見つけてしまった。
雨で視界は濁っている。どうせなら、あんなものに気がつかないくらい、なにもかも見えない状態になってくれていたらよかったのに。

蹲っている”それ”は、十代の少年に見える。
しかし、彼についている猫の耳が、人間ではないことを教えてくれた。

幸馬も、そうたびたびお目にかかったことがあるわけじゃない。

なにせ、”あれ”を所有できるのは、一握りの人間だけだ。

雨に打たれて弱々しく、儚く見える”それ”の横顔は、愛くるしいとしか形容のしようがない。

持ち主は、いったいどこにいるんだ!?

幸馬は、辺りを見回す。
しかし、自分たち以外に人影が見当たらない。

”こんなもの”が、ひとりでほっつき歩いているはずがないのに

……っ、く……

”それ”は、苦しげに息をついていた。
顔は赤く、もしかしたら熱でも出しているかもしれない。

限りなく人間に近いが、人間とは異なる生き物。
"それ"は、そういうもののはずだ。

う……っ、こほっ

”それ”に纏わる様々な風聞が、幸馬の脳裏をよぎった。
関わったら、絶対に面倒なことになる。
そう思っていたが、目の前で咳き込まれ、幸馬はつい立ち止まってしまった。

おい、大丈夫か

幸馬は、"それ"を抱えるように助け起こす。

……っ

雨の中、抱え上げた体は、びっくりするほど熱かった。

これでは、ますます放っておけない。

俺は馬鹿だ

他人に、親切心なんて出したって、なにひとついいことはない。
それを、今日、いやというほど学んだはずだ。

……ああ、それでも

抱えあげた小さな体は熱く、その軽さが胸を打った。

関わらないほうが、利口だ。
こんなの、絶対に訳ありに決まっている。
そう理性は囁きかけてくるが、このまま知らない顔を決め込むわけにはいかない。

幸馬は無言で、抱きあげた”それ”と一緒に、自宅へと急いだ。

つづく

かわいいやさん そのいちーいち

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