秋から冬に入るころ、背を起こしているのが負担になったリチャードは、フランシスとチェスの対戦をするのに、ベッドから声を出してシャルロットに指示を出すという形を取った。

彼女は駒を動かし、フランシスの指し手を口に出して伝える。

しばらくはそうやってリチャードはチェスを楽しんでいた。

冬が深まると、対戦を始めても彼は半分ほどでシャルロットに続きを任せて、駒の動きを耳で追うだけになった。

春の気配が漂う今は、シャルロットが最初から最後までフランシスの相手をして、リチャードは声によって伝えられる盤上の状態を脳裏で描いている。

リチャードの容態はどう見ても悪くなっていた。

それなのに、シャルロットに詳細が説明されることはない。医師はフランシスと話をする。

シャルロット

わたしは、妻なのですっ! なぜ教えていただけないのですか! 今どのような状態なのか、これからどうなるのか。知らないままでいることなどできませんっ

フランシス

叔父上は、あなたに心配を掛けたくないと言われている。叔父上の心を安らかにするためにも、叔母上にはいつも通りに振る舞っていただきたい。叔母上は、何かを聞けば、動揺する気持ちを隠し切れないでしょう?

心配や不安が外に出てしまうと言われた。その通りかもしれない。

彼女が心配するのをひどく嫌がるリチャードは、無理をしても起き上ろうとするから、フランシスの判断は間違っていない。

いつも通りにしていてほしいと本人からも言われると、浮いたり沈んだりする気持ちを宥めながら傍についているしかない。


咳をしたリチャードを気にして立ち上がったシャルロットは、彼の様子を伺うために、ベッド横に立って上体を軽く倒す。

リチャードの厳格な雰囲気が、今はとても薄い。

――痩せてしまわれた……。

気は急くが、心配しているという気配を極力出さないよう気を付けてゆっくり尋ねる。

シャルロット

お苦しいですか? ご医師を呼びましょうか? リチャード様

咳を抑えるためなのか、口元を軽く手で覆い、目を閉じていたリチャードが瞼を上げる。

藍色の瞳が細く覗いたので、彼女はほぅと小さく息を吐いた。


シャルロットと同じような姿勢でフランシスが横に立っている。


二人を眺めたリチャードは少々掠れた声で言った。

リチャード

すまないな、勝負に水を差してしまった。……シャルロットの勝ち、かね?

シャルロット

はいっ。……何とか

思い切りの笑顔を見せる。

うんうんと満足そうに頷いたリチャードは、再び目を閉じてしまった。

掠れた声が聞こえる。

リチャード

シャルロット、殿下をお見送りしてくれないか? 私はここで失礼させていただく

フランシス

叔父上。また来ます

微かに頷いたリチャードに軽く頭を下げてフランシスが動き出す。

シャルロットはそのあとに続いて部屋を出ると、できる限り音を立てないよう扉を閉めた。

長い廊下を無言で歩いて玄関ホールへ向かう。

けして隣を歩こうとしないシャルロットを振り返って、フランシスが言葉を掛けてくる。

フランシス

叔父上の心臓疾患は幼いころに見つかったそうです。今まで普通にしてこられたのが奇跡のようなものだ。特にここ数年は楽しそうにしておられた。叔母上が傍にいらしたからでしょう。あなたがおられるから、どういう状態になっても叔父上は心の平安を保てるのです

いつの間にか廊下の床を見ながら歩いていたシャルロットは、ぱっと顔を上げる。

見開いた眼でフランシスを見上げているうちに、とめようもなく目尻に涙が滲んだ。

シャルロット

わたしの方こそ、リチャード様にたくさん助けていただきました

シャルロットにとって、家族のすべてがリチャードだ。両親のシーモア男爵夫妻は、彼女が十二歳のときに列車事故でこの世から去っている。

兄弟も、親しい身内も誰もいない。


涙でゆらゆらと揺れる視界の中で、フランシスが心配そうにこちらを見ていた。

シャルロット

……そういえば、王太子位についたとはいえ、強力な後ろ盾であるリチャード様はもう王宮へは行けないんだわ。不安なのはわたしばかりじゃない

右手の甲で目元を擦ったシャルロットは、決意を滲ませた視線でフランシスを見上げる。

シャルロット

わたしはいつも通りに、普通にして、リチャード様のお傍についています。こちらは大丈夫です。フランシス様はご自分のことを優先してください

ふっと彼の眼が見開かれる。
すぐに貫かんばかりに視線がきつくなった。

いつもそうだが、こういうふうに見られるとシャルロットは怖さを感じ取ってしまう。


一瞬で優しげなまなざしに切り替わるのが常だったのに、そうはならなかった。

フランシスは、彼からは聞いたことのない詰まったような声を出した。

フランシス

純粋で一途でひたむきで……そして強い。叔母上にはいつも驚かされる

フランシスの右手の掌で頬をふわりと包まれて、シャルロットは近づきすぎているのに気が付いた。

慌てて一歩下がって彼の手から逃れる。


触れられた頬が熱い。熱を持っているのを自覚すると、もっと熱くなった。


フランシスは宙に浮いた手をぐっと握りしめると目線を下げて踵を返し、彼女を廊下に残して行ってしまった。

シャルロットはその後ろ姿を、ぼんやりとした面持ちで見送る。


春の息吹がすぐそこまで来ている。

シャルロット

リチャード様。今日は暖かいです。窓を開けましょうか?

リチャード

そうだな……。開けてくれ

公爵家当主の寝室は二階にある。

シャルロットは南向きの窓を開けて、身を乗り出すようにしながら外の空気を吸った。

シャルロット

気持ちがいいですね

ベッドで横になるリチャードへ向かって、にこりと笑う。

リチャード

春の花は、まだ咲いていないかね?

シャルロット

まだですね。でも数日中には咲きそうです。こんなに暖かな陽射しですもの

シャルロットは窓から中庭の花壇を眺めると、つとめて明るく答えた。

リチャード

おまえの母親は春の小花のようだった。同じように可憐だが、おまえは雪の中でも咲く花だな。そう、……雪割草という名前だったか……

聞きそびれてしまいそうな小さな声だ。

――母親? リチャード様はわたしのお母様をご存じなのかしら。

尋ねたいと思ったが、目を閉じたリチャードの眠りを妨げたくなくて、そっと歩いてベッド横の椅子に座る。

そこが彼女の定位置だ。話し相手もすれば、眠りの番もする。


できる限りリチャードの傍にいる。

世話そのものは近侍やメイドたちがしていても、シャルロット自身でお茶も淹れるし、窓も開ける。

そうやって動いていなければ叫びだしてしまいそうだ。


いつもたくさん話をした。

その夜もとめどなく話をしてから、シャルロットは自分の寝室へ引き上げた。


夜は一人で眠りたいというリチャードの希望を優先して、誰も付き添わない。

このごろは、あまり大きな声が出ないようだったが、その夜もいつもと同じで苦しげには見えなかった。

そうして次の朝、リチャードは眠っているような安らかな顔で息を引き取っていた。

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