こんこんと扉を叩く音がする。

はっとして振り返れば、廊下側から執事の声が聞こえた。

執事

奥様。王太子殿下が王宮を出られたと先触れが来ました。特室サロンへお移りください

侍女に軽く頷けば、一人が扉を開ける。


執事はシャルロットがいつもより大人びたドレスを纏うのは知っていただろうに、微妙に目を見張ってから慌てて面を伏せて視線を外した。


どんなときにも必要以上の言葉を発しないこの執事はとても優秀だ。

シャルロットが屋敷に来て以来、彼からもたくさんのことを教えられている。


かといって慣れ合うことのない執事は、彼女の姿を見て何を考えたのだろう。

奇妙な点があれば指摘してくれるはずだから、これでいいとは思うが。

――変なところがあっても、もう直す時間はないわ。いっそ変でいいかも。
〈シャルル〉と分からなければ、それで。

思い切りもよく、スパッと決めてスパッと動く。

即断即決を身上としていなくても結果的にそうなってしまう彼女は、自己完結しがちで、時たまこけるというおまけまでついている。


自分の欠点を心に留めて今夜を乗り切ろうと胸臆で拳を握ったシャルロットは、ドレスの裳裾を綺麗に捌いて、貴賓用の応接室である階下の特室サロンへ向かった。


侍従が開いた扉から特室サロンに入る。

リチャード はすでに来ていた。

シャルロット

リチャード様。お待たせして申し訳ありません

彼女からすれば〈旦那様〉なのだが、リチャード本人から名前で呼んでほしいと言われたのでそうしている。

裳裾の端を摘まんで軽く会釈をする。このごろは貴婦人の礼もさまになってきていると思う。

二年前は自分でも分かるほど無様でぎこちなかった。


窓際に立って外を眺めていたカリィ公爵リチャードがゆっくり振り返る。

背が高く痩身だ。
濃いブラウンの髪は、動いても大して靡かない硬さがある。リチャードの堅実で厳格な性格を映したような剛毛だ。

瞳は黒色に見えるが、実は藍色をしている。


リチャードは今年五十歳になっているのに、もっとずっと若い感じがする。

細身であっても、肢体の中に鋼でも入っているかのようにしっかりとした立ち姿だ。


彼には心臓疾患という重荷がある。
その影をまったく感じさせないのは、それだけ精神が強靭なのだと思う。


近くまで来たリチャードは、微笑んでシャルロットに腕を回すと緩く抱きしめてくれる。
次には額に軽いキスを落とした。

これが妻に対する彼の挨拶だ。

熱情も束縛もなくただ包み込むような優しい愛情を注いでくれるリチャードは、夫というより父親のような感触が強い。


低く落ち着いた声が上の方から注がれる。

リチャード

待たされてなどいないよ。私は速く動くことができないから、何事も早めに完了するようにしているだけだ。気にすることはない。それより、今日はとても大人の女性を感じさせるね。フランシス殿下にお逢いするから、公爵夫人としての気構えを示そうという意図かな

当たらずとも遠からずだ。

大学都市でフランシスと出逢っていることはリチャードにも誰にも話していないが、もしかしたら、ブラウン教授から聞いているのかもしれない。

シャルロット

公爵夫人らしく見えるのなら、着付けに何時間も掛けたかいがあります。何度も鏡を見て調整しました

その答えが面白かったのか、リチャードは楽しげな表情をした。

リチャード

相変わらず一生懸命だね、おまえは。今夜も美しいよ

シャルロット

ありがとうございます

顔を見合わせて微笑み合う。

背の高いリチャードだから、小柄な彼女を見つめるためには、かなり目線を下げなければならない。

逆に彼女はぐっと見上げる形になる。こうした背丈の差も、親子のような感覚を齎すのだろう。


会話は穏やかに流れ、そうしているうちに太陽は西に隠れた。執事がやってきて、フランシスの訪れを告げる。


特室の両開きの扉が開かれた。

ドキドキと鼓動が高鳴り始めたシャルロットは、顔を上げていられなくて床を眺める。

――またお逢いできるのは嬉しいけど……怖い。
万が一、同一人物だと気づかれたら、あの少年は、実は女でしたってことがあの方に分かってしまうのね。
いきなりいなくなったのを怒られても仕方がないけれど、フランシス様に嫌われるのは……いや、かも。

自分が招いた結果とはいえ、覚悟しきれない怖さがある。

リチャードが両腕を広げて、迎え入れるようにフランシスに近づいてゆく。

シャルロットもそれに続いた。

リチャード

よくおいでくださいました。フランシス王子。いや、王太子殿下、でしたな。今夜はお祝いの席として最高の酒と料理を用意させております

フランシス

叔父上、お招きありがとうございます。王宮で散々お世話になりながら、こうしてお祝いまでしていただけるとは、恐悦至極です

リチャード

王太子としての公儀のお披露目は王宮の方で予定されているのに、少しばかり先走ってしまいましたな。そうそう、これは二年前に婚姻を成した妻のシャルロットです

下を向いてばかりもいられない。

公爵夫人となったときに付けられた家庭教師は、顔を上げてしっかり相手を見るようにと彼女に教えていた。


すぅっと顔を上げる。

数歩離れた場所に立っているのは、すらりと背の高い美青年だ。


煌めく柔らかなブロンド、透き通った湖のような青緑色の瞳。
陰影が深く、鼻梁の通った端麗な顔。
大学都市で出逢ったフランシスに間違いない。


意思の強さがありありと分かる眼力と引き締まった表情は、あのころよりも鋭さを増している。
皮肉も言えば優しく微笑むこともできる薄めの唇が少しばかり開いていた。
驚いたという顔に見えなくもない。


食い入るように見つめてくるフランシスと、シャルロットの瞳がぱちりと合う。

彼女の心臓が煩いほど狂い哭いた。

――以前より大人びていらっしゃる。
当然よね。二年近く過ぎているもの。

疾走する鼓動の音が外へ漏れてしまうのではないかと心配になるくらいだ。

フランシスは、貫かんばかりの強い視線で彼女を凝視していた。

――挨拶を、しないと……っ!

己を叱咤激励しつつ口を開く。

シャルロット

王太子殿下。お逢いできましてまことに光栄に存じます。シャルロットと申します

シャルロットは震える手でドレスの裳裾を摘まむと、深く頭を下げた。貴婦人の最上礼だ。

すぅっと頭を上げる。

訓練とは大したもので、背筋をピッと伸ばした美しい立ち姿になった。
顔はまっすぐ彼に向け、視線も揺るがせない……ように、必死で自分を鼓舞する。

固まったようにして表情が伺えなかったフランシスの口角が、すぅっと上がった。

その魅惑的な動きに、シャルロットは後ろに倒れてしまいそうになる。


綺麗な笑みだ。魔的な妖しさがある。
しかし、こういうふうに笑う人だっただろうか。


微かに開いていた薄い唇がさらに開かれて言葉を発した。

フランシス

初めてお目にかかります。フランシス・オブ・カノーファです。私のことは名前でお呼びください。叔母上……とお呼びしてもよろしいですか?

シャルロット

はい。どうぞ、お好きなようにお呼びください、フランシス様。これからもどうぞよろしくお願いいたします

言い切れたことに安堵して、シャルロットの顔に心からの笑みが浮かぶ。

――大丈夫だった。

気づかれていないことに深く安堵する。


フランシスが晩餐に来るという予定が伝えられて以来、髪型やドレスのことなどを何日も考えたのは、無駄ではなかった。

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