八億円、である。


僕が通っている学校の、生徒会予算総額の話だ。


八億円といったらちょっとした会社の年間予算に匹敵する。
我が校の実態を知らない人に言っても最初はなかなか信じてもらえない。
姉に話したら「桁いくつ間違えてんの?」と笑われた。

でも、中高一貫のマンモス校で、総生徒数は八千人、クラブの数は三百を越え、体育会系も文化系も全国大会常連クラスの部をいくつも抱え、さらには一部の施設の維持費も生徒会予算でまかなわれている─と説明すると、「むしろ足りないんじゃないの?」と心配してくれた。

実際その通りだ。

個人として見れば気の遠くなるような額だけれど、うんざりするほどたくさんの部活動と委員会活動に振り分けていけばあっという間になくなる。

五月になると、委員会と部活の代表者どもが好き放題な額を書いた予算申請書を持って生徒会室に殺到する。
それらをすべて勘案、吟味、審査、嘲笑、無視して年度予算を組み上げているのは、驚くべきことに、たった一人の女の子である。

手分けしてやらないの? と訊いてみたこともある。

ひとりの方が楽だから

彼女は、僕の方を見もせずにぼそりとそう答えた。

頭の悪い人たちと話し合っても決まるのが遅くなるだけ

だだっ広い生徒会室の奥の壁には扉が五つ並んでいて、その左端が彼女の部屋だった。


薄暗い中にぶうんというファンの音が充満し、六面のモニタの放つ青白い光が、真ん中の椅子に体育座りした小さな後ろ姿を不気味に照らしている。


肩までの長さの広がり気味でぎざぎざの髪、だらしなく二の腕までずり落ちたブレザー、暗がりに響くぱりぱりかたかたという音。


彼女はいつも左手でもくもくとスナック菓子をむさぼり、右手で膝の上のキーボードを叩いている。
僕が部屋に入っていっても気にも留めない。


聖橋(ひじりばし)キリカ。
この学園すべての金を握る女だ。


咳払いしてから、その背中にそっと声をかける。

牧村ひかげ

陳情書もらってきたけど……交通課と、図書委員と、中等部寮自治会から。
ええとごめん、いま忙しいのかな。
ここ置いとくよ

聖橋キリカ

読んで

ぼそりとそう言われ、僕は面食らう。

牧村ひかげ

読んで聞かせろってこと?
だって作業中だろ?

聖橋キリカ

あなたの声はふにゃふにゃしてて耳障りだから、なにしててもちゃんと頭に入る。いいから読んで

ほめてんのかけなしてんのかよくわかんないけど─いや、たぶんけなしてるんだろうけど、言い返してもしかたがないので僕は書類をめくった。

牧村ひかげ

じゃ、図書委員のから。第四図書室の可動書架がみんな老朽化してて、全面改修におよそ八百万─

僕が読み上げている間にも、打鍵音とポテトチップスを噛み砕く音がずっと続いていた。

ひととおり読み終えるとキリカは僕の鞄を指さした。

聖橋キリカ

ついでに五月の試験範囲も読んで

牧村ひかげ

それ生徒会関係ないよね? 僕の仕事じゃ

聖橋キリカ

早く読んで

僕はむっと口をつぐみ、陳情書の束を置いて、鞄からノートを取り出した。


キリカは授業に一切出ない。
僕のクラスメイトでしかも隣の席なので、よく知っている。
保健室登校ならぬ生徒会室登校の不良生徒なのだ。

牧村ひかげ

現文Ⅰは15から16、国表は2だけ、英Rは二章、英Wは最初からCパートまで、OCはユニット2、数Ⅰは……

あいかわらず彼女は手を止めない。

ほんとに聞いてるんだろうか、と不安になるのだけれど、中等部時代から授業には出ていないくせに毎回学年ランキングに入るくらいの成績をとってきたというから、まともに勉強しているこっちが馬鹿馬鹿しくなってくる。

僕が読み終えてノートを閉じると、キリカは今度は書棚を指して言った。

聖橋キリカ

じゃあ絵本も読んで

牧村ひかげ

なんでっ? どういう話の流れだよ?

もう生徒会とか学校とか通り越して僕の人生にまったくなんの関係もないよね?

聖橋キリカ

いいから読んで。どうせあなた暇でしょ。庶務(しょむ)なんだから言うとおりにして

僕は自分の左腕をちらと見る。
紺色に金糸の刺繍(ししゅう)の入った腕章が巻いてある。


《生徒会 総務執行部 庶務》


庶務をなんだと思ってるんだろう。
トイレ掃除とか買い出しとかコーヒー淹れたりとかする役職じゃないぞ?
いや、全部やってるけど。


しかしこの女は僕の上司で、機嫌を損ねるとしばらく業務にさわるので、言うとおりにしなきゃいけない。
書棚の『ぐりとぐら』とか『バーバパパ』とかの間から、『星の王子さま』を抜き出して最初のページを開く。
深呼吸してから読み始めた。

牧村ひかげ

……僕が六歳だったときのことだ。
『ほんとうにあった話』という原生林の……

聖橋キリカ

……くぅ、……くぅ

牧村ひかげ

寝るの早ぇよ!

キリカはキーボードを抱えたまま丸まって寝息をたてていた。
ブレザーがずり落ちて椅子の尻に引っかかっていたので、僕はそっと抜き取る。


と、彼女の上半身が持ち上がった。
起こしちゃったか、とあわてたけれど、姿勢を変えただけだった。
リクライニングになった椅子の背もたれに身を預けたキリカは、顔を右に傾けて目を閉じた。


再び寝息が聞こえてくる。
その首に巻かれているのは、紺色の腕章だ。
二枚をつなぎあわせてマフラーみたいにしてある。
会計、という文字がちょうど喉のあたりに見える。


それを隠すようにして、僕はブレザーを前からかけてやった。







会計室から戻ると、いつの間にか生徒会室のデスクに人影があって、僕に気づいて立ち上がり、寄ってきた。

竹内美園

キリカさん、どうでした?
機嫌よさそうですか?

長身のモデル体型に、一目でハーフとわかる青い瞳とアッシュブロンドの髪、ただ立っているだけでどこからかCM音楽が聞こえてきそうなくらい目立つ人だった。


竹内美園(たけうちみその)さん。

ひとつ先輩の高等部二年生で、腕章に《総務執行部 副代表》と刺繡されている。
つまり、生徒会副会長だ。

竹内美園

おかげんがよいのでしたら予算折衝(せっしょう)の打ち合わせをしたいのです。
今年から完全個別面談にしようと思っていて、でもそうすると私も大変ですけれどキリカさんも

牧村ひかげ

あー、キリカは寝ちゃいました

美園先輩は目を丸くした。

竹内美園

お休みに? いま?

牧村ひかげ

たったいま

と僕は会計室の扉を見やる。

竹内美園

ひかげさんの目の前で?

牧村ひかげ

はあ。本読んでやってたら、ころっと。
また徹夜してたんじゃないですか、あいつ

竹内美園

まあ……

と美園先輩は身体を傾けて、僕の顔を下からのぞき込む。ちょっと目がうれしそうだ。

竹内美園

すごいです、ひかげさん。
あのキリカさんを、絵本読んでミルク飲ませて頭なでただけで寝かしつけるなんて

やってねえよ。どこのだれの子だ。

ひかげさんが総務に入ってくれてほんとうによかった、と美園先輩は笑う。


僕は照れくさくなって、コーヒーを淹れるためにキチネットに行った。
なんとこの生徒会室、部屋の隅が小さく区切られて台所になっているのだ。
冷蔵庫に流し台に食器棚と電気コンロまである。

竹内美園

それじゃひかげさん、スケジュール調整手伝ってくださいます?

コーヒーを持っていくと先輩がノートPCを操作しながら言った。

牧村ひかげ

完全個別面談って、本気ですか? だって予算に文句つけないとこなんてないでしょ

何百人も押しかけてくる部長だの委員長だのと一人一人話し合おうというのである。正気の沙汰じゃない。


折衝といっても、交渉の余地はほとんどないと聞いた。


予算折衝は事実上、生徒会総務執行部による「生徒総会では予算案可決してくださいね、裏切ったら来年度の予算どうなるかわかりますね?」という通達をつきつける場である。
大人数をまとめてやった方がいいにきまっているのだ。

どこかを増やそうとしたらどこかを削らなければいけないのだから、自分のところだけ勝手な要望を出すわけにはいかない、という空気が生まれて、文句が出にくくなる。

それを、美園先輩は、一人ずつていねいに説得しよう、というのだ。

竹内美園

けっきょく、不足分は部費でまかなったり我慢したりするわけでしょう。それなら納得してくれるまで話さないと

と先輩は言う。

牧村ひかげ

……手分けしてやります? 僕とかキリカも

竹内美園

いけません!

先輩はノートPCをばんと閉じて腰を浮かせ、首を振った。

竹内美園

ひかげさん胃潰瘍(いかいよう)になっちゃうから!

牧村ひかげ

んな大げさな

竹内美園

大げさじゃないです、暴れ出す人とか泣き出す人とかいるんだから。ひかげさんやキリカさんをそんな矢面(やおもて)に立たせたりしたら、私、心配で胸がおっぱいになっちゃいます

胸はもともとおっぱいだろ。

竹内美園

い、いけませんひかげさん、そんな、おっぱいなんて破廉恥(はれんち)な

牧村ひかげ

あんたが言ったんだよ!
胸がいっぱい、でしょ?

先輩はぽんと手のひらを拳で打ったが、ぜったいわざとボケたにきまっているのだ。

牧村ひかげ

いや、その、胸はともかく、ひとりでやったら先輩こそ胃潰瘍になっちゃうんじゃないですか

あきれるくらい心配性だし。

竹内美園

大丈夫です

と美園先輩はほほえむ。

竹内美園

愛するひかげさんキリカさんはともかく、一般生徒がどれだけ予算を削られて泣こうがわめこうがなんとも思いません。むしろ言いくるめるのは気持ちいいです

なんという腹黒さ……。

これが白樹台学園の聖母(マドンナ)と呼ばれている女の正体であることは、生徒会室のメンバーしか知らない。
政治ってこういうある種の傍若無人(ぼうじゃくぶじん)さがないとできないのかな、とも思う。

会計のキリカはあんなだし、副会長もこれだ。さらには─

生徒会室の入り口の扉が乱暴に開いた。

天王寺狐徹

諸君! 大勝利だ!

やかましく部屋に入ってきて正面奥の会長のデスクにどっかりと腰を下ろしたのは、長い黒髪を無造作に二つに束ねて垂らした凶暴そうな目つきの女だ。

腕章にぎらつく金文字は《総務執行部 代表》。

天王寺狐徹

今年の学園祭は音楽堂の夜間使用が許可された。
PTAも近隣住民も教育によろしくないとか騒音が心配とかごねたけど、あたしが一軒一軒訪ねてみっちり説得してやったら最後には全員ぼっきり折れた。
前夜祭でも後夜祭でもライヴができる、今からオーディションの募集をかけるぞ!

ひととおりしゃべっただけで生徒会室には台風一過の枯れきった空気が流れる。

牧村ひかげ

……ああ……お疲れ様です

僕はようやくそれだけ言えた。美園先輩はやれやれと首を振るばかりだ。


天王寺狐徹(てんのうじこてつ)。

とても女とは思えないこのものすごい名前の人物は、見ての通りの生徒会長だ。
産声で会長就任演説したんじゃないかと思うくらい生まれつきの生徒会長だ。

天王寺狐徹

今年はさすがに間に合わないけど、来年の体育祭では我が校の敷地内で生徒によるF1レースを開催するというのはどうだ

牧村ひかげ

免許どうするんですか……

天王寺狐徹

心配要らない。免許以前に、フォーミュラカーはそもそも安全基準を満たしていないから公道を走れない

牧村ひかげ

校内も走れないよ!

僕がつっこむと会長は子供みたいにむくれた。

天王寺狐徹

ぜったいに盛り上がるのに……

見かねた美園さんがノートPCから顔を上げて言う。

竹内美園

いいかげんにしてください狐徹。それより予算折衝は来週月曜に始めるから、なにか予定入れておいてくださいな。六時までぜったいに生徒会室に帰ってこないように

天王寺狐徹

どうして?

竹内美園

狐徹がいると話がこじれるからです

天王寺狐徹

うちの可愛い会計担当が二晩徹夜して作成した予算案に下々の者どもがけちをつけたくらいで、あたしが怒るとでも思ってるのか?

竹内美園

思ってますわ

天王寺狐徹

ボクシング部と空手部以外は殴らないぞ?

牧村ひかげ

そもそも殴ンな

僕と美園さんに二人がかりで反撃されてちょっとテンションが落ちたのか、会長は椅子にだらしない感じで背を預け、天井を仰いだ。

天王寺狐徹

会長のあたしには同席させないのに、庶務のヒトシには手伝わせるのか。ずるい。あたしも出たい

牧村ひかげ

いや、僕も折衝には出ませんけど。予定組むの手伝ってるだけです。あと、会長

天王寺狐徹

ん?

牧村ひかげ

僕、ヒトシじゃなくてヒカゲです。
いいかげん憶えてください

自分の名前をこうも強く言うのは恥ずかしいし、そもそもこの名前は大嫌いなのだが、会長は口を開くたびにちがう名前で僕を呼ぶのである。面倒このうえない。

天王寺狐徹

……ヒトカゲ?

牧村ひかげ

それはポケモンです

天王寺狐徹

リザード?

牧村ひかげ

進化しなくていいですから。
一文字もあってないし

天王寺狐徹

それより、ヒロシにはまた新しい仕事だ

もうどうでもよくなってきた……。

天王寺狐徹

編入生アンケートを集計しておいて。それから来年度分で追加した方がいいと思った質問事項があったらどんどん出していいぞ、ヒロシも編入生なんだから、なにか思うところがあるだろう

A4のアンケート用紙の束を前にして、僕はしばらく奇妙に生あたたかい感慨にとらわれていて、ボールペンを握った手を持ち上げることもできなかった。


広い生徒会室には、美園さんがキーを叩く音と、昼寝に入ってしまった会長の寝息だけが聞こえていた。


ふとした瞬間に何度も思い知らされる。

僕は高等部からの編入生だ。
外からやってきた人間なのだ。

この身に触れるブレザーにも、ネクタイにも、校章にも、腕章にも、言いがたい違和感が染みついている気がする。




それはもとをたどれば、この《ひかげ》という珍妙な名前のせいなのだ。

LINK 

※iOSの方のみとなります。

1│生徒会探偵キリカ 1 (1)

facebook twitter
pagetop