翌日の朝、ホームに立つ月海は、うんざりした気分でため息をついた。

月海

……窮屈そう

整然と並んで、電車を待つ人々の列に交ざりたくない。


どうしようかと眺めていると、背後から肩を叩かれた。


振り向くと、肩から学校指定のバッグを提げ、朝から眩しいほどに爽やかな笑みを浮かべた智秋の姿。

智秋

おはようございます

月海

おはよ~

月海はというと、前日に引き続き、少しばかり寝不足だった。


初日はどうだったと心配して電話をかけてくる父親や兄達の相手をしたせいで、教材に目を通し終わったときには、とっぷり夜が更けていたのだ。

智秋

少し顔色が悪いように見えますけど?

月海

うん、ちょっと寝不足。と、それプラス、電車通勤ってのがなんか億劫で

あの無言で並んでいる集団と一緒に、狭い車両の中にギュウギュウに押し込められることを想像して、月海はため息をついた。

智秋

昨日も電車だったんですよね?

月海

いや、車だったんだ。
で、駐車場が足りないから、電車通勤にしてくれって言われた

智秋

なるほど。
……だったら、とりあえず列に並びましょう

月海

え、あれに並ぶの?

智秋

並ばないとスムーズに乗れませんから

促されて、渋々ながら列の最後尾に並ぶ。

智秋

月海さん、電車通勤ってはじめてなんですか?

月海

まあね

社長の息子という特別待遇に甘えて、新入社員の頃から自動車通勤だ。

智秋

だったら、そのバッグは前に回して、できれば両手で抱えていたほうがいいですよ

智秋は、月海が斜めがけにしていた長めのショルダータイプのバッグを指さして言った。

月海

掏摸(スリ)でもいるのか?

智秋

いえ、そうじゃなく、痴漢に間違われないためです

月海

痴漢!?

月海は、びっくりした。

月海

俺、そんなコトしなきゃならないほど女に不自由してないけど?

智秋

わかってますよ。でも、痴漢冤罪で裁判とかしてる人の話、聞いたことありませんか?

月海

あ、うん。テレビで見た

智秋

最近では、痴漢詐欺もいるらしいですし

月海

なに、それ?

智秋

触っただろうって難癖をつけて、警察には訴えないからと金を脅し取る手口らしいです

月海

……嫌な話

智秋

でしょう? だから、なるべく疑われないように、最初から自衛したほうがいいんです

バッグは女性が不愉快だと思う身体の位置から遠ざけて、手の位置は疑われないよう、なるべく人目に晒すような位置に上げておいたほうがいいとも助言された。

月海

……な~んか面倒になってきた

智秋

すぐに慣れますよ

ごねる月海に、智秋が苦笑する。


ちょうどそのとき、電車がホームへと滑り込んできた。

電車の扉が開き、スーツ姿の人々がちらほら降りてくる。


降りる人がいなくなると、今度は並んで待っていた人々が一斉に電車に乗り込みはじめる。


さっき降りてきた人数より、今から乗り込もうとしている人数のほうが明らかに多い。

月海

……あ~、乗りたくない

行きましょうと智秋に促されたが、月海はついつい尻込みした。


だが、いつの間にか月海の後ろに並んでいた人々から強引に背中を押されて、つんのめるようにして車内に押し込まれる。

月海

うわわっ、なんだよ、これ

中に入ったら、今度は後ろからだけじゃなく、前後左右あらゆるところから押されまくった。


いわゆる出勤ラッシュと言われる時間帯、満員電車の混雑ぶりは月海の予想を遥かに超えていた。

なんとかして乗り込もうとする者と、彼らに押される窮屈さに耐えかねて押し戻そうとする者との間に挟まれて、電車初心者の月海は入り口付近でキリキリ舞いするばかり。


そうこうしているうちに、智秋から腕を強く引っ張られた。


引かれるまま、少しずつ窮屈な車内の奥に進む。

智秋

月海さん、大丈夫ですか?

入り口付近より少しだけマシな場所に出てホッとしていると、すぐ側で智秋の声がした。

月海

大丈夫じゃない~

弱々しい声で答えた月海は、首だけ動かして情けない顔で智秋を見た。

月海

気持ち悪い。こんな窮屈なの、はじめてだ

見も知らぬ他人とぎゅうっと身体を触れ合わせることなんて、今までなかった。


運悪く満員のエレベーターに乗り合わせたことはあっても、肘や肩が軽く触れる程度で、他人の体温を感じるぐらいに密着したりはしなかったから……。

月海

一本見送って、次の電車に乗ったほうがよかったんじゃないか?

智秋

この時間帯は無理ですよ。――あっち、見てください

顎で示され、乗り合わせた人々の頭の間から窓の外を見る。
 

ちょうど電車の扉が閉まったところで、電車に乗りきれずに溢れた人々が、もうホームに次の列をつくっているところだった。

智秋

ね? 見送っても同じです

月海

……わかった

月海

智秋くんに声かけてもらってなかったら乗れなかったな

月海は列には並ばず、待っている人々が乗車した頃を見はからって、最後に電車に乗り込もうと思っていた。


でも、そんな悠長なことをしていたら、いつまでも電車に乗り込めずに遅刻していたかもしれない。


ショルダーバッグだって、乗り込む前に胸に抱えていなければ、もみくちゃにされたときに人の渦に引っかかって身動き取れなくなっていたかもしれないし、いま脇に立っている女性のお尻のあたりにバッグの角が当たって不愉快に思われていたかもしれないし……。

月海

助言してもらって助かったよ

月海の言葉に、智秋は

智秋

いえ

と静かに微笑む。




やがて電車がガタンと発車すると、その衝撃に月海は少しよろけた。

つり革にでもつかまったほうが安全かと見上げたが、乗客の数が多すぎてつり革は全部使用済みだ。

智秋

俺につかまってくれてかまいませんよ

なにかつかまれる場所はないかとキョロキョロした月海に、智秋が申し出た。

月海

いや、それはさすがに……

年下の男の子に支えてもらうなんて、ちょっとみっともない。


しかも、彼もまた、つり革にあぶれたクチなのだ。


支えもないのにつかまられたんじゃ、うっかりすると共倒れだ。

月海

……智秋くんだって、俺と状況一緒じゃないか。――っと

いきなりブレーキをかけられ、その衝撃で月海はまたよろけた。


今度は踏みとどまりきれずに倒れそうになって、思わず差し出された智秋の腕にしがみついてしまう。

智秋

俺、電車には慣れてますから大丈夫ですよ

そう言うだけあって、智秋は月海にしがみつかれてもよろけず、安定したものだった。

しがみついた月海の背中に腕を回して、それとなく支えてくれている。


ふと周りを見たが、月海みたいに今の揺れで影響を受けてヨタった人はいないようだ。

月海

ふらふらしてんの、俺だけか……。ああ、もう、みっともなー

電車に乗るためのスキルが圧倒的に足りないようだ。


高校生の男の子に支えられるサラリーマン。


近くに立つ女性達の目には、今の自分はさぞや情けない男に映っているに違いないと、月海はもの凄く恥ずかしくなった。

美形自慢で、普段は人から見られることが大好きな月海にとって、この状況はあまりにもみっともなさすぎる。


だがそれでも、満員電車の中、ひとりでバタバタするよりはきっとマシだ。

月海

……じゃあ、お言葉に甘えさせてもらう

あまりの恥ずかしさに、顔が上げられない。


月海は、支えてくれる智秋の肩口で顔を隠しながら、渋々ながらそう言った。

智秋

任せてください

 背中に回る智秋の腕の力が微かに強くなる。

月海

…………どうも

月海

俺が女の子だったら、智秋くんにとっては美味しいシチュエーションだったよな

身体を密着させてもエロ目的だと誤解されることもないし、むしろ親切な人だと好感を持ってもらえるだろうから……。




だが、男同士では寒いだけだ。




せめて、これ以上の密着は避けようと、月海は電車の揺れに対抗して必死で踏ん張った。

月海

なんかも~、朝からすっごい疲れた

なんとか自力で踏ん張ろうと努力してみたのだが、不意の揺れや、カーブでの長いブレーキなど、予想もつかない揺れに翻弄されて、けっきょく智秋の支えに甘えてばかり。


揺れに備えて、ずっと緊張していた足の筋肉が疲労感を訴えているし、最後の最後にギュウギュウ詰めの車内から人をかき分け脱出するのがこれまた一苦労で、駅を出た途端、一気にどっと疲れがきた。

月海

授業で一時間立ってるより、電車の二十分のほうがしんどい

智秋

そのうち慣れますよ

月海

だといいけど……。ああ、でも、慣れた頃にちょうどここでの仕事が終わったりしてな

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