ぱたぱたという軽い足音に、刺繍の手を止める。
黒色の糸が見分けられないほど濃い藍色の布を膝の上に置くと同時に、重いはずの扉が意外に軽く開いた。
「リュリっ! 来たっ!」
不意の光に目を瞬かせたリュリの耳に、この家の主人の末娘サーラのあくまで明るい声が響く。もう一度目を瞬かせて目の中の煌めきを追い払うと、腰掛けているベッドの側に一足で現れた小さな影に、リュリは小さく微笑んだ。
「外! 行こ! リュリ!」
そのリュリの、まだ針を持っている手を、サーラが乱暴に掴む。そのサーラの、被り布を着けていない頭に針を持っていない手を当てると、リュリは刺繍針を慎重に藍色の布に刺した。
「大人と一緒じゃないと屋敷の外に出るのダメだって、お母様が」
サーラが興奮している理由は、リュリにも分かっている。辺境の地を支配する伯の屋敷の裏手に位置するこの部屋にも、人々のざわめきは届いていた。今日、この屋敷に現れるはずの人々と、その目的も。
子供達の家庭教師兼お針子としてリュリが住み込みで働いているこの屋敷の主が忠誠を誓っている、この辺境の地から幾つもの山や谷を越えた先に位置する豊かな平原を支配する王の命で、この家の長女が王の腹心の一人と婚約した。その王、ヴァルトの腹心が、今日、サーラの長姉マイラを迎えに来る。その準備と出迎えで、屋敷はごった返している。だが、病身のリュリに手伝えることは、少ない。幼いサーラが人々の邪魔にならないよう、見張っていることぐらいだろう。もう一度、にこりと微笑むと、リュリはベッド横の腰棚の上に置いておいた白い布を掴んだ。
「外に出たいのなら、被り布を被らないと」
リュリの腕を掴んで小さく暴れるサーラを宥めるように、白い布を膝の上に広げる。布端をびっしりと埋めた赤と緑に、サーラは暴れるのを止めて目を丸くした。
「うわっ、きれい」
サーラの賛辞が、耳に心地良く響く。
この地方では、家の外に出るときには必ず、未婚の女性は白の、既婚の女性は濃い色の被り布を被らなければならない。その被り布の端に自分の好きな花の刺繍を施すのが、お洒落の一つ。
「これ、あたし、の?」
「ええ」
濃い緑の枝に咲く赤い野薔薇が、サーラの好きな花。小さい子には少し派手かもしれないから、花を少し小さめに、緑の枝葉が目立つように。そう思いながらの刺繍を、気に入ってくれたようだ。早速無造作にサーラの頭に乗せられた白色の眩しさに、リュリは思わず目を細めた。
そのサーラの柔らかい腕を、そっと掴んで引き寄せる。
「きちんと留めましょう。外で被り布が外れたら恥ずかしいですからね」
リュリの声に少しだけ鼻を鳴らしたサーラが、それでも少しだけ俯いて大人しくなる。そのサーラを膝の上に乗せると、リュリは腰棚の櫛を取ってサーラの亜麻色の髪にあてた。
それにしても、サーラの髪を手早く梳いてまとめながら、心の中で首を傾げる。結婚する女性は、たくさんの布製品を用意するのが、習わし。しかしマイラの婚儀では、綺麗な服も、身を飾る宝飾品も、用意する必要は無いと、婚儀をまとめたヴァルト王自身からの言葉があったらしい。おそらく、先王の末子に過ぎなかったヴァルトが王冠を得ることに賛成も反対もしていなかったこの家の主に対し、人質の意味をも込めて、マイラと自身の腹心との婚儀をまとめたのだろう。マイラは、大丈夫だろうか。父親から婚約のことを聞かされて以来ずっと塞ぎ込んでいたもう一人の教え子の小さな背中を思い出し、リュリは小さく首を横に振った。考えても、仕方が無い。幸せかどうかは、マイラ自身が決めること。王の腹心だとしか知らない男性が、意外と優しいことも、あるかもしれないのだ。……そう。不意に、小柄な影がリュリの脳裏を過ぎる。あの人は、無口で、村人達からは孤立していたけれども、リュリには、……優しかった。
幼い頃、リュリはここから山一つ超えた場所にある小さな村の長の娘として、質素ながらも不自由の無い生活を送っていた。病弱な娘に、父は読み書きと計算を、そして母は刺繍を教えてくれた。そして、村以外の、外の世界のことを教えてくれたのは、ならず者から村を守るために父が雇った元傭兵が連れて来た子供、アキ。戦士である父から戦う技を叩き込まれていたアキは、小さな身体と女性に見紛うほどに整った顔立ちに似合わぬ強さを持ち、村を襲おうと窺っていたならず者達を騙して戦闘不能にできるほど頭が良かった。
野や森に咲く花々を、アキは夏も冬も、晴れの日も雨の日も、ほぼ毎日、リュリの私室の窓の桟に置いていった。病弱で外に出ることが殆どできなかったリュリが様々な花を被り布に刺繍できるのは、アキのおかげ。花の名を知った理由も、アキが、置いた花の横に白墨でその花の名を記してくれたから。
そのアキを最後に見たのは、月が少し欠けた夜。この村を、出て行く。雨戸を叩きリュリを起こしたアキが最初に口にした言葉に、リュリの胸は握り潰された。その日、突如村に現れた王都からの逃亡者、王の末子ヴァルトに付いて行く。夜よりも深かったアキの瞳の色に、リュリは頷く他無かった。そして。
「一緒に、行こう、リュリ」
アキの言葉に、首を横に振る。
「婚約者がいるの。だから、……一緒には、行けない」
偽りを口にしたリュリに、アキは微笑んでリュリに背を向けた。
その後のアキの行方を、リュリは知らない。刺客に襲われたヴァルトを庇って命を落としたとも、再起を図るためにヴァルトと共に渡った異国で病に斃れたとも、噂では聞く。リュリの方は、アキがいなくなってすぐに保護者であった父が斃れたため、僅かな婚資を妹に譲り、この辺境伯領で領主の娘達に父母から習い覚えた技を教える職に就いた。領主夫妻は、病弱ですぐに熱を出してしまうリュリにも優しい。領主の娘達も、少々甘やかされてはいるが物覚えは良い。穏やかな生活の中で、たった一つだけ後悔していることは、……アキに対して口にしてしまった、嘘。
これで、良かったのだろう。はしゃぐサーラの、ピン無しで留めた被り布の揺れに、ほうと息を吐く。たとえアキに付いて行ったとしても、身体の弱い自分は、アキの足手まといになっていた。だから。想いを心の奥底に押し込むと、リュリは、端を白の蔓草模様で処理した自分用の白い被り布を手に取った。リュリのような、どこにも嫁がないまま年を経てしまった女性が身に着けることができるのは、顔をすっぽりと隠す、飾り気のない白の被り布。この布なら、目立つことは無い。ピン無しで被り布を固定すると、リュリは部屋を飛び出しかけたサーラの腕を掴んだ。