「松田先輩。
今日は黒……、兄者と一緒に帰る約束をしているので、早退しても良いですか?」
「え? ああ……、そうだね。
お兄様が台本を大幅に書きかえるかもしれないから、今日の練習は中止にしよう。
さち子さん、帰っていいよ」
「ありがとうございます」
私は先輩達に挨拶を済ませ、急いで黒川の後を追った。
黒川の『演劇部乗っ取り』を阻止しなくてはッ。
黒川は中庭にある来客用の駐車スペースに向かってスタスタと歩いていた。
黒川。
今日は黒川の車で一緒に帰ると言っていたのに……。
あの様子は完全に忘れているな。
「黒か……」
「黒川さん」
黒川を呼び止めようとすると、女の人が黒川に駆け寄るのが見えたので、咄嗟に私は木の陰に隠れた。
黒川が女性と楽しそうに会話をしている……。
黒川、
あんな風に笑ったりするんだ……。
私の前では『フッ……』と片方の口角だけ上げて、人を小馬鹿にしたような笑い方か、目をカッと見開いて『フハハハハ!』と悪魔みたいな笑い方しかしないのに。
黒川は女の人との話を終えると車に乗り込み、私を置いて行ってしまった。
やっぱり一緒に帰る約束を忘れているーッ!
黒川と話していた女の人は、黒川の車が見えなくなるまで見送った後、嬉しそうな顔で校舎の中に入っていった。
「お嬢、何しているの?
もしかして、かくれんぼ?」
背後から声がしたので振り向くと、青田がバケツを持って立っていた。
「え?
あー……。そうです。
鬼のいないかくれんぼです」
「へぇー、面白そうだね。
僕も混ぜてもらおうかな?」
青田が私の真後ろに立って、警戒しながら辺りを見回す。
「……。お嬢。
鬼のいないかくれんぼって、あまり面白くないね」
「そうですね。
誰も探しに来ませんからね」
青田……。
鬼のいないかくれんぼが面白くないことぐらい、試さなくても分かるよね?
「ところでお嬢、演劇部の練習は?」
「今日の練習は中止になりました」
「ああ。
それで黒川君の迎えを待っているの?」
「いえ、黒川は……。
私の事を忘れて先に帰ってしまいました」
「黒川君はお嬢を忘れて帰ったりしないよ?」
「黒川の……、黒川の車が無いじゃないですか……」
私が俯くと、青田は黒川がいつも車を停めている場所を見た。
「……。分かった。
じゃあ、僕の車で帰ろう。
このバケツを片付けて来るから、少しここで待っていて。ね?」
「うん……」
青田の車で屋敷に戻ると、黒川はまだ帰っていなかった。
二階のバルコニーから外の景色を眺めていると、黒川の車が屋敷に戻ってくるのが見えた。
車を車庫に停めた黒川が、後部座席から荷物を取り出し、屋敷の中に入る途中でバルコニーを見上げた。
思わず私が目を逸らすと、黒川は何も言わず屋敷の中に入っていった。
しばらくして自分の部屋に戻ろうとすると、廊下で黒川にばったり会ってしまったので、またもや私は目を逸らして黒川の横を通り過ぎようとした。
何やってるんだろう、私……。
黒川の『演劇部乗っ取り』を阻止しなくてはいけないのに。
「痛ッ……」
黒川の横を通り抜けようとした瞬間、黒川が私の前に立ちはだかったので、私は黒川にぶつかった。
「よそ見をしながら歩いているからだろう」
「黒川が避ければ良いじゃないですか……」
「俺がお前のために道を譲ると思っているのか?」
……思わない。
でも今、わざとぶつかってきたよね?
「お嬢。今日は俺が迎えに行くと言っていたのに、先に帰っただろう」
「え? 黒川の方が先に帰りましたよね?
黒川が体育館から出た後、すぐ追いかけましたが……。
黒川、車に乗って行ってしまって……」
「あー……。
演劇部の練習が終わるまで少し時間があると思って、近くのスーパーで豆腐のタイムセールに参戦していた。
その後すぐ迎えに行って、しばらくお前を待っていたんだぞ」
「そうでしたか」
「俺が車に乗り込むところを見ていたのなら、声を掛ければ良かっただろう?」
「声なんか掛けられませんよ。
黒川、女の人とキャッキャしていたから……」
「キャッキャ?」
「……!」
言った後で後悔した。
まるで黒川にヤキモチを妬いているみたいだ。
自分の顔が真っ赤になっていくのが分かる。
「く、黒……、タ……、タタ、タイムセールの馬っ鹿ヤロー!」
「は?
あ。待て、お嬢」
私は黒川をすり抜けて、猛ダッシュで自分の部屋に逃げた。