「助けて……」
馬鹿だ……。
黒川達に嘘をついておきながら助けを求めるなんて。
黒川達は昼過ぎに帰ると言っていたから、早くて後二時間。
逃げなくちゃ。
肩に乗せられた手を振り払って、全速力で走る。
後は屋敷の何処かに身を潜め、黒川達が帰って来るのを待ち続ければ……。
でも、恐怖で全身が固まって、体が思うように動かない。
駄目だ。
二時間も引き伸ばせない……。
閉じていた目をさらに固く瞑った。
「ジャージーちゃん。
目を閉じたってことは、OKのサイン?」
ピアスの男の声が耳元で聞こえる。
目を閉じればOK?
何が?
……まさか結婚?
嫌だー!
何処のしきたりだー!
思い切り首を横に振ろうとしたけれど、体が固まって振れたかどうか分からない。
「た、助けて……。黒か……」
「その手を放してもらえるか?」
声を振り絞るのと同時に、聞き覚えのある低い声がした。
そっと目を開くと、隣に黒川が立っていた。
「く、黒川……」
黒川は涼しげな顔で笑みを浮かべているけれど、目の奥は全く笑っていなかった。
黒川が怒っている……。
滅茶苦茶怒っている……。
死!
「ハァ? 誰だ? お前」
ピアスの男は私の肩を掴んだまま、黒川に向かって言った。
「黒川だ。
聞こえなかったか?
今すぐその手を放してもらおうか」
「黒川?
だから誰だよ?
どうせ執事か何かだろう?
執事が主人の遊びにいちいち口を挟むなよ」
「俺はコイツの執事ではない」
「黒か……、エ……?」
そうなの?
そうだったの?
私は爺ちゃんの本当の孫ではなかったの?
この屋敷で過ごした時間は何だったの……?
「私は誰?
ここは何処?
明日から、何を信じて生きていけば良いのでしょうか」
「お嬢、どうした?
大丈夫か?」
「私は爺ちゃんの本当の孫ではないのでしょう?
……もしかして、父さんや母さんの娘でもなかったのですか?」
「お嬢、何を言っている」
「だって、黒川は私の執事ではないって……。
私はこの屋敷のお嬢様ではないのでしょう?」
「お前は爺さんの孫だ。
だが俺はお前から一円も貰っていない。
だからお前と俺に主従関係は成立しない」
あ。
そういう意味かー。
納得。
「でも、黒川。
爺ちゃんから貰っていた給金の中に、私の分も含まれていたのではないでしょうか?」
「残念ながら、一円も含まれていない」
「嘘だー。
一円ぐらい入っていますよ」
「あのさー。
二人とも、今の状況を忘れていない?」
ピアスの男がため息をつきながら言った。
すっかり忘れていた。
私はピアスの男に肩を掴まれて、体が固まったままだ。
「……。
その手を放してもらおうか」
……。
黒川も忘れていたようだね。
「屋敷の前にタクシーを呼んでいます。
その薄汚い手を放して、大人しく帰っていただけませんか?」
いつの間にか、白石と青田が部屋の扉の前にいた。
「……チッ!」
ピアスの男は黒川を睨んだが、妖しげに笑う黒川を見て私の肩から手を放し、舌打ちをして、白石達と一緒に部屋から出ていった。
黒川は黙って私のベッドに腰を掛けた。
黒川、怒っている……、よね?
「……黒川」
「何だ?」
「怒られるのを覚悟で言います」
「……」
「黒川達がいない間……、怖かったです」
「馬鹿」
「……ごめんなさい」
その言葉を口にした瞬間、涙が溢れた。
「……。ここに来て座れ」
黒川が、腰を下ろしているベッドの隣を軽く叩きながら言った。
「黒川……。
そちらに伺いたいのは山々ですが、恐怖で体が固まって動けないのです」
「……」
黒川は黙ってベッドから立ち上り、私に近付いて来た。
ヒィ!
もしかして殴られる?
「黒か……、ギャー!」
黒川は私の体を抱き上げ、そのままベッドに放り投げた。
ガチガチに固まった私の体が、スプリングベッドの上で跳ねた。
「見て、黒川。よく跳ねます」
「馬鹿」
「……はい。馬鹿です」
黒川は再び私のベッドに腰を掛けた。
「お前、
本当に体が固まっているんだな」
「はい」
「フッ……」
黒川が小さく笑った。
「黒川……」
「何だ?」
「もし黒川達が助けに来てくれなかったら……。
今頃私はどうなっていたのでしょう」
「さあ?
何処かに売られていたんじゃないか?」
「え」
「だが買い手がつかなくて、お前の食費ばかり嵩むから、そこら辺のジャングルに捨てられて」
「えー」
「数年後、お前は動物たちを従えて、ジャングルの王に君臨していそうだな」
「……」
「……で。たまたま俺と奇跡の再開を果たすが、お前はすっかり人間の言葉を忘れて……」
「黒川……。
よく私でそんな壮大なストーリーが思い浮かびますね」
「フッ……」
黒川は、硬直した私の体の上に布団をかけた。
「黒川……」
「何だ?」
「本当に怖かったです」
「……」
「男の人と付き合うって、こういう事なのでしょうか?
触れられるたび、恐怖で体が固まって……。
毎回こんな思いをするのなら、私は一生恋愛などしたくはありません」
「相手によるだろう。
本当に好きな相手の前なら、お前も自然体でいられるんじゃないか?」
「でも怖い。
今回の事は全て私が悪いけれど……。
もう二度とあんな目に合いたくない」
ベッドの上で仰向けで固まったままの私の涙は、拭うこともできず、頬をつたって耳の中に流れ込んでいった。
黒川が私の顔を覗き込みながら、頬に触れようとした。
「……!」
咄嗟に私はぎゅっと目を閉じた。
「……フッ」
黒川は、私の涙を拭おうとした手を止め、静かに笑ってベッドから立ち上がった。
「黒川、違う……」
「昼飯の仕度をしてくる。
準備が出来たら呼びに来てやるから。
それまで大人しく寝ていろ」
黒川はタンスの引き出しからタオルを出し、私の目の上に乗せて部屋から出ていった。