五月中旬。
金色に輝く連休期間もすっかり終わり、各人がモチベーションの低下や五月病とも折り合いをつけて通勤通学を始めるようになっていたそんな時期。

盤上に配置された駒のように整然と戸建ての家が建ち並ぶ閑静な住宅街の一角に不愉快な叫び声が響き渡った。


おいババアァァァァーッ!

何度言わせればわかんだよ!
ハンタの載ってるジャンプは単行本が出るまで捨てるなっつってんだろうが!!



耳障りなヒステリックボイスを吐き出しているのは、ただでさえ醜い顔をより醜悪に歪ませた一人の男。
実に十三時間にも及ぶ睡眠から目を覚ました彼は自室から古雑誌がまとめて消えていることを確認し、階下のリビングで家事をしていた母親に向けて鼻息荒く怒声をぶつけていたのだった。


ご、ごめんね達也ちゃん、ママが悪かったわ……。
あとで新しいの買ってくるから……。

だから新しいのじゃ意味ねえんだよ!
何ヶ月前のジャンプだかわかってんのか!?
もう古本屋にも売ってねえんだよ!



母親の顔には疲労とも諦観ともつかないような暗い感情が浮かんでいる。
その表情から、達也がこのように彼女を悩ませているのはいつものことなのだということがありありと見て取れた。


あー、もういいよ。ネットで落とすから。
ったく…………次捨てたらマジでぶっ殺すからな……



ひと通り暴言を吐き散らしたら満足したのか、最後に違法ダウンロードの予告をすると、達也は不機嫌そうな足音を立てながら自室へと戻っていった。







息子が部屋へと戻ったあと、達也の母は沈鬱な面持ちで深く溜息を吐き、

達也ちゃんもそろそろ漫画読むのはやめて、本格的にお勉強始めてくれないかしら……



誰に言うでもなく、小さく願望を漏らした。











木場達也は現在二浪している浪人生だった。
第一志望は誰もが名前を知っている有名私立大学であり、現役時代から同じ学校を目指し続けている。

彼が『自分の人生が負のベクトルへと傾いている』と自覚したのは高校三年生のときである。




達也は高校時代に一人も友達を作ることができなかった。
学校行事や部活動に精を出すクラスメイトたちを


ふん……どいつもこいつも、くだらなくてつまらない行動に貴重な時間を浪費する馬鹿ばっかりだ。



と内心で嘲りながら、日々を勉強時間に費やしていた。
達也は当然、自分が最難関の大学に入学すると信じていたし、逆にクラスメイト達はすべからく受験に失敗すべきで、そんな奴らには定員割れしているような底辺の大学がお似合いなのだと思っていた。













しかし、達也の想定した未来は訪れなかった。
自分よりも低レベルなはずの『部活バカ』や『文化祭ブス』は次々と難関私立大学に合格を決め、逆に達也は自分が志望校としていたそれらの大学にことごとく落ちたのだ。














おい木場ぁ、お前早慶大学受験しなかったのか? 一学期の進路調査じゃ早慶の法が第一志望だったんだろ?



教室で赤本を開いている達也の元に、ニヤニヤとした笑みを浮かべながらクラスメイトの男子が近づいてきた。
体育祭の応援団長とバスケ部のキャプテンをやっていた男で、達也が不合格だった早慶大学に推薦で合格した男だった。
もちろん、彼と達也は普段から仲良く会話をするような間柄ではない。

達也の通う高校では受験した大学の合否を教師に知らせる決まりがあり、有名校に合格していた場合は教室後方の黒板に大きく大学名と名前が張り出されることになっている。
だが、一般入試の合否が発表されたあとに張り出された早慶大学合格者の欄に達也の名前が書かれていなかったため、それを問い質しに来たのだ。


ぼっ、僕はヤリサーだらけで性にだらしない私立大学なんてやめて国立大学を受けることにしたんだよ!
後ろに僕の名前が無いのはそのせいさ!



もちろんそれは嘘だった。


確かに達也は国立大学にも願書を送っていたが、それは高校の方針で強制的に受けさせられるセンター試験を活用するためであり、強いて言うなれば当たればラッキーという宝くじ感覚に近かった。
達也の志望校は高校に入った当初から変わらず早慶大学であり、それに向けての勉強をずっとしてきていたのだ。


へーえ、国立受けることにしたのか。でも、後ろに名前ねえってことはさ…………


男はさも愉快げに、ひときわ口角を上げて言った。















早慶は落ちたんだろ?














男の言葉に、達也の身体全体が薄ら寒い感覚に包まれた。

床に立っている彼は机に座っている達也を見下ろす形になっていたが、それは物理的な位置だけでなく、精神的な位置関係においてもそうであると知らしめているようだった。


こっ、ここ、これだから知識のないやつは困るんだ。
きょ、教科書の範囲しかでない国立大学と違って私立大学は学習指導要領を超えた知識を要求されるんだよ。
こ、国立の入試に向けて勉強していた僕が早慶の入試問題についていけないのは当然に決まってるだろ!

ふーん。なるほどねぇ……



クラスメイトの男は、達也が吃音症のようにまくし立てるのを聞きながらも、最後まで浮かべた笑みを崩さなかった。



















その日の夜、母親は達也が現在受験した大学の全てが不合格であるという事実から、息子の学力が国立大学に合格するまでには届いていないと感じ、受験校を妥協するように言った。

ねぇ達也ちゃん……やっぱり近くの大学も受けておいた方がいいんじゃないかしら。ほら、ウチから自転車で十分のところにある衛府乱大学なら達也ちゃんの行きたいっていう法学部もあるし……

ざけんなババア!
俺にクラスのバカどもよりも偏差値の低い大学に行けってのか?
あぁ!?



しかし、達也はそれを断固として拒否した。

友人も、部活動も、学校行事も、それらすべてを『愚かなこと』だと切り捨て、受験一本で三年間過ごしてきた自分が、その受験においてすらもクラスメイトに敗北を喫することは肥大化し続けた達也のプライドが許さなかったのだ。


でも達也ちゃん、私立一本で勉強してきたんでしょ? 残った国立大だけじゃなくて保険もかけておいた方が……

うるせえな! 親だったら息子の可能性信じろよ!



そう言って、滑り止めの受験をすることなく国立大学の入試に臨んだ達也は、当然のように受験に失敗した。


インターネット上で発表される合格者一覧に達也の受験番号は載っていなかった。何度更新ボタンを押してもそれは変わることがなく、実際に大学に行き掲示されている番号を一つ一つ丹念に確認してもやはり達也の番号はそこに存在しなかった。




達也ちゃん、やっぱり今からでも二次募集のある学校に願書出したらどうかしら……

黙れよ! 大学受験は高校受験と違って浪人するのが当たり前なんだよ! 来年は普通に赤門くぐってやるからテメーは金だけ出してろ!

 







そして、翌年も達也は受験に失敗した。


















こんなことなら幼稚舎……いや、中学からでよかったから早慶の付属を受けてりゃ今頃は……。
そうだよ、ババアが俺を公立の中学校なんかに入れなきゃ今頃は俺だってエスカレーター式に大学まで……。



部屋に戻った達也は綿の抜けた古いデスクチェアに座り、パソコンで情報まとめブログを巡りながらぶつぶつと文句を言い続けていた。
初めは母親に対する文句ばかりだったが、次第にその矛先は自身の置かれた境遇へと変わっていく。


あー、クソッ!
記憶そのままに小学生からやり直してえ!



誰もが一度は考え、そして理想の世界への鍵として用いる『強くてニューゲーム』の妄想。
たまたまそういったスレッドをまとめたページを開いていた達也は何の気なしにそう呟いた。

別段誰かに向けたセリフではない。
あえてこの言葉の対象を決めるというのであれば、それは神や仏、あるいは世界そのものに向けられた祈りであった。

しかし、そんな独り言に無個性な男の声が返ってきた。

やり直したい、ですか。構いませんよ

…………!?



自分以外誰もいるはずのない自室から声がしたことに驚いた達也は扇風機のように首を振り回す。


音源はすぐに見つかった。


この三次元世界において時間というシロモノが不可逆であるということは積み木で築城している三歳児だって弁えています。

だからこそ人は『過去を振り返らず前へと進む』ことを美徳とし、すべからく尊ぶべきものとして扱うのでしょう。





ドアの傍に黒色のハットとスーツを身に纏った男が立っていた。

面識はない……ように思えた。

なぜ無関係だと断じることができないのかというと、柔和な笑みを浮かべたその男はふと視線をそらすだけでその顔の造形を忘れてしまうような、まったく特徴のない顔をしていたからである。

無個性すぎて、逆にどこかで出会ったことがあるような気もしてくる。
例えば予備校の講習で一コマだけ授業を受け持っていたとか、一度だけ親族の集まりで顔を合わせた叔父だとか言われれば「あぁ、そうかもしれない」と空いた部分の記憶にすっぽり収まってしまいそうだ。


しかし『過去に戻りたい』というのもまた、人間が当然持ちうる欲求なのです。
攻略本を見ながらゲームを進行すればフラグを回収し忘れることなどなく、スムーズにイベントを進行させることができますからね。





男はそのまま含蓄があるんだかないんだかわからないような話を演説を続け、最後にこう締めくくった。




人生のやり直し。過去の改竄。
セーブ&ロード。世界の再構築。

どのように呼称しようと構いません。
あなたが望むのであれば、わたくし"悪魔"がそのように取り計らいましょう。

……………………アンタ、ボケてんのか?


色々と言いたいことはあったが、結局それ以外のセリフが出てこなかった。

えぇ、えぇ。みなさん最初はそうやってお疑いになるんですよ。
ですが、私の正体なんて些末なことです。悪魔ということに宗教上の問題があるというのならば天使でもアッラーでも、なんなら空飛ぶスパゲティモンスターということにしてもらっても構いませんよ。

重要なのは『あなたは人生をやり直したくて、私にはその力がある』ということ。
そうでしょう?

そりゃまぁ……やり直せるっていうならやり直したいけど……

 妙にオーラを感じさせる男に、達也はたじろぎながらもそう答えた。

Good! 契約完了です! 
それではあなたに人生をやり直すリプレイタイムを差し上げましょう!



達也の回答を聞き、男が世界を抱きしめるかのように腕を広げた。



同時に、達也の意識が遠のいて行く。視界が急激に黒く染まっていき、脳みそごと回転しているのではないかと思うくらいに頭が揺れた。










お、おい! なんだよこれ!



男からの説明はない。

しかし、吐き気がするほどの黒の中で、達也は確かにリセットボタンが押される音を聞いた。

いいですか、木場達也さん。
次に目覚めたとき、あなたはかつて通っていた小学校の校門の前で、小学一年生の姿となっています。







その言葉を最後に、達也の意識は闇に溶けた。
































でだよぉ……らいな……まぁ……せよぉ……



達也は頭上から降り注ぐ独り言の雨と頬に硬く冷たいものが当たっている感触で目を覚ました。

瞼を開くと、コンクリートの地面に倒れ込んでいる自分を見下ろすようにして男子児童が口を動かしていた。
どうやらずっとぶつぶつと何かを言っているようだが、その声は非常に小さく、断片的にしか聞き取れない。



周囲に視線を向けると、ひどく懐かしい光景が広がっていた。
達也がいまから十年ほど前に毎日通り抜けていた校門である。


あ、キミ! 大丈夫かい!?



地面に横たわったまま状況分析をしていた達也を体調不良で倒れこんでいると勘違いしたのか、教員らしき男性が焦った表情で駆け寄ってきた。


ヤバい!
小学校の前で変なことしてたら捕まる!



新聞の社会面に『アニメファンの男、小学校に侵入』という見出しが大きく載っている未来が脳裏によぎった達也は急いで立ち上がり、

だ、大丈夫です。別に怪しいものじゃあ──



怪しいものじゃありません。
そう言いかけて、達也はあまりにも大きすぎる違和感に言葉を詰まらせた。


…………っ!

──視線が……低い!!


達也の目算では教員の身長と達也のそれはさほど変わらないはずだったのだが、実際に立ち上がった達也は教員と目線を合わせるどころか彼の顔すら視界に入れることができなかった。



達也はすぐさま自分の両手を自分の目の前に出し、何度も握ったり開いたりした。
節くれだっていた自分の指は、まるですべてが小指であるかのように細く短くなっており、掌も『指に合わせて拡大縮小』の欄にチェックを入れたように小さくなっていた。


怪我とかしてない? 保健室に行こうか?



しきりにこちらの身を案じる男の対応は小学校に侵入した成人男性に対するそれではない。
もはや疑う余地はなかった。


俺は──小学生に戻ったんだ!!



あの初老の男性は本当に悪魔だったのだ。
達也は確信し、小さく拳を握りしめた。

今ここから俺の新しい人生が始まる──そう考えた達也は半ズボンの埃を手で払い、真っ直ぐと教員の目を見つめた。


いえ、僕は大丈夫です。地面に触れてた頬が少々痛む程度ですから。それより彼がなにやらうつろな表情をしていますし、彼の方が心配です



達也はできうる限り丁寧に対応した。これから『神童』として六年間過ごし、早慶中学へと進学するための布石だ。


…………



男は一瞬驚いたような表情を浮かべたが、すぐに生徒を誉める教師の顔へと変化した。


キミ、一年生なのにすごく行儀がいいんだね。喋り方も全然一年生とは思えないよ。
いやあ、僕のクラスの生徒たちにも見習わせたいね


一年生。それも悪魔の言ったとおりだ。
達也が胸元を確認すると、

「1ねん2くみ きば たつや」

とサインペンで書かれた若葉型の名札が付いていた。


えーと、それじゃあ、先生はこの子を連れてかなきゃいけないから、ごめんね。
あとで具合が悪くなったらちゃんと保健室に行くんだよ!



最後にそう言い残すと、男は未だにぶつぶつと何かを呟き続けている男児の手を引いて、校舎の中へと消えていった。


きっとひまわり組だな、アイツは。



達也は、シナプスがタコ足配線になったようなことを呟いていた男児の背中を目で追いながら、そう思った。

ひまわり組とはこの学校における障碍児学級、つまり知的障害を抱えた児童を引き受けるクラスである。
厳密には知的障碍者でなくともこのクラスで授業を受けることはできるのだが、好き好んで普通学級から障碍児学級に来よう、通わせようとする人間はいないので基本的にはひまわり組に通わざるを得ないような知的な障害を抱えた生徒のみが選抜されることとなる。


ま、神童の俺には一切関係のない相手だな。



達也はかぶりを振ってひまわり組のことを頭から消すと、軽い足取りで自分のクラスへと向かった。














さすがに達也も小学一年生のときの自分の席までは覚えていなかったため、いったいどうやって教室に入ったものかと悩んでいたが、幸いなことに一年の教室はすべての机に名前の書いたシールが貼ってあったため、それを一つ一つ確認することで何とか対応できた。

机は入口付近から五十音順で並んでおり、達也の席は廊下側の一番後ろの席だった。

やっと見つけた自分の席に背負っていたランドセルを乗せて木製の背もたれに背中を預け、時間割の書かれた黒板に目をやると、今日の時間割と

4 がつ 12 にち   か ようび

と日付が書かれていた。


四月半ばか……。
ってことはまだ初回の授業が終わって教科書を配布したばかりってとこか?

ま、これなら今から中身が『俺』に変わってもそこまで違和感はないだろう。



そんなことを考えながらランドセルの中身を机の道具箱へと移しかえる。

しばらく待っていると、始業を告げる懐かしいチャイムの音が鳴り、"二度目の最初の授業"が開始された。







はーい。
じゃあいまからプリントを配るから、一枚取ったらうしろのひとにまわしてねー



良く言えば『ほのぼのとした』、悪く言えば『騒々しくてかなわない』ホームルームがつつがなく終了したあと、国語の授業が始まった。


教師が配布したプリントが手元に来たとき、達也は思わず声を漏らしてしまった。


うわっ、懐かしいなーこれ。
確かにやってたわこんなの……。

前の席に座っている生徒から手渡されたA4の紙。
横向きの縦書きで印刷されたそのプリントには右端に楷書体で大きく

「く」

と書かれており、他にもいくつかの正方形が書かれていた。

枠内にうっすらと「く」が書かれたものや、点線で十字が描かれ四分割されたもの、そして何も描かれていないものが各三種ずつ印刷されていた。

一枚で二文字を勉強するためのものらしく、左側には同様に

「つ」

のパターンが印刷されている。
最初はお手本を見ながらなぞり書きをし、続いて四分割された枠内にバランスを考えながらお手本の真似をして書く。
そして最後に何も補助のない枠内に文字を書いてひらがなを覚えようという学習プリントである。更に裏面には

「くつ」

という文字と共にスニーカーのイラストが描かれており、表面と同じように「くつ」という単語を学習できるよう正方形を二つ繋いだ長方形がいくつも印刷されていた。



はいみんな鉛筆と消しゴムを用意してー。今日はひらがなを勉強するからねー。



生徒全員にプリントがいきわたったことを確認した教師は点線で四分割された正方形の描かれた大きいマグネットを黒板に貼りつけると、生徒のお手本となるようにチョークで大きく「く」と書いた。

こりゃあしばらく天才扱いは無理だな……。



懸命にひらがなの書き方を教える若い教師を眺めながら、達也はそんなことを思った。

小学一年生時に履修する授業において、知識が問われる科目は国語と算数だけであり、それもひらがなカタカナや足し算引き算といったほとんどの生徒が詰まることなく吸収していくことのできる内容だ。
他の科目は運動をする『体育』、歌を唄ったり簡単な楽器の演奏をする『音楽』、絵を描いたり粘土細工をする『図画工作』、社会的な道徳や倫理を学ぶ『道徳』、昆虫や植物など自然と触れ合うことを目的とした『生活』であり、一般的に小学一年生のときには生徒間で学習練度に差はつかないのである。


ま、小学校の勉強で躓くはずもないし、六年間の長い休暇を貰ったと思ってまったりやっていくか


──なんせ自分は誰もが夢見る『人生のやり直し』をしてるんだからな。

達也は鼻歌交じりにマグネット式の筆箱を開くと、母親が買い揃えてくれたキャラクターものの鉛筆と消しゴムを取り出し、プリントにひらがなを記入していった。

















記憶を保持した自分が初等教育を楽勝で終え、そのまま難関私立中学への合格を決めるという達也の未来予想図はその後しばらく、達也の描いたシナリオどおりに進んでいった。

学力の差が一番最初に出始める九九の暗唱では最も早く九九を暗記した生徒として賞賛されたし、早慶大学の入試に向けて勉強していた小論文の技術を活かして作文コンクールでは金賞を受賞していた。

しかし、このまま早慶大学まであっという間だと考えていた達也が躓いてしまう小石は思った以上に近い地点に配置されていたのだった──




















三階建ての校舎の二階にある六年一組の教室。

達也が所属するそのクラスで温厚そうな男性教師が授業を行っていた。


さて、みんなも知ってるかもしれないが……
京都にある金閣寺。金ぴかに光ってるお寺だな。それを作ったのは誰だかわかるか?
そうだな、今日は木曜日だから……木場! 誰が作ったかわかるか?



三年生になってから始まった『社会科』の教科。
五年生までは主に達也たちの住んでいる市や日本全体の地理、特産品などを学ぶ科目だったが、六年次からは日本史や政治経済に焦点を当てた授業となっていた。


え!? えーっと……



突然問題の解答者に指定された達也は焦りながらも記憶を漁り始める。


私立一本でやってたから日本史とか全然覚えてねえぞ!
確か足利義満か義政のどっちかだったと思うんだが……。

確か……足利義政です。



自信なさげに答えた達也だったが、その解答は不正解だった。
他の生徒から即座にツッコミが入る。


義政は銀閣作った人だろー?
金閣は義満だよー!

伊東の言うとおり、金閣寺を作ったのは足利義満で義政は銀閣寺を作った人だ。
義満と義政は名字が同じで混同しやすいんだよな。



教師は問題に正解した伊東という男子生徒を褒めつつも、きちんと木場に対するフォローを入れたが、男子生徒は子供特有の囃し立てで達也を煽った。


木場ぁー、お前も早慶中学受験するんだろー? もうちょっと勉強しないと落ちるぞー?

ちょ、ちょっとど忘れしただけだよ!
国語と算数はほとんど百点取ってるし、少し社会を間違えたくらい大丈夫だって!



そう言って、達也はこれをちょっとしたミスだと気に留めなかった。


そうだよ、小六の授業なんて既に受けてるんだ。
今更勉強しなきゃいけないなんてこと、あるわけがない。
























しかし、この日の些細な誤答を皮切りに達也の描いた未来は歪みを大きくしていった。


今、達也が六年生ということは、言い換えれば丸々五年一切の勉強をしてこなかったということでもある。
そのサボりのツケは着実に達也の身に降りかかっていた。

大学受験に二浪し、小学一年生からリスタートして六年生までを過ごし直した達也は精神的には二十八年生きてきたと言える。
つまり、達也が六年生の授業を受けたのは単純計算で十六年前の話なのだ。
いくら「以前の記憶を保持している」と言っても、人間の脳はハードディスクではない。
授業内容など覚えているはずもなく、もはや暗記科目の社会は既に達也の記憶からは削除されてしまっていた。

それでも、漢字と長文読解の国語や四則演算と簡単なユークリッド幾何学の算数では満点を取り続けられるから、と達也は全く自主的に勉強をしようとはしなかった。
















そして、夏休みが終わり新しい学期が始まった頃、達也は『ごく平凡な学力の持ち主』となってしまう。

国をあげて開催された『全国小学生テスト』という模試で、達也よりも遙かに高い総合得点をあげた生徒が全国で何百何千という単位で現れたのだ。その中には伊東を含む、達也の通う学校の生徒も何人か含まれていた。

























卒業も近くなってきた頃に行われた三者面談。
ここに来て、初めて担任は達也に対してネガティブな評価を下した。


……正直なところを申し上げますと、今の達也君の学力では早慶付属に合格するのは厳しいと言わざるを得ません。



卒業後は学区内の公立中学ではなく、早慶大学の付属中学へ進学したいと告げた達也と母親に、担任の男性教師は顔をしかめながらそう言った。


国語と算数に関しては申し分ないのですが、理科と社会の成績があまり振るわない。



もちろん生徒としては理社どちらも十分な成績ですが、とフォローを入れた上で、担任は達也の学力不足を指摘した。

しかし、達也にしてみれば、それは耐え難い屈辱であった。

目の前の教師は知るはずもないが、達也はかつて早慶大学を志望校とする大学受験生だったのである。
そんな自分にくだされる評価がまさか小学校の時点で、それも"中学受験"に足るだけの学力がないというのだから、これが愚弄でなくてなんであろうか。


ふ……ふざけるなよ!
この俺が中学受験ごときに失敗するわけないだろ!

…………!

…………



思わず椅子から立ち上がって声を荒らげた達也に、担任と母親は目を点にして驚きの表情を向けた。

なんせ再スタートしてからは学校でも家でも温厚な少年を演じていたのだ。
品行方正な男子生徒の突然の激昂に二人は言葉を失ってしまう。

自分が浪人生だったときのような態度になってしまっていることに気付いた達也は小さく、


ごめんなさい……



と呟いて、おずおずと着席した。

数瞬の間、沈黙が三人の間に漂う。
空気の流れまで止まってしまったかのような静寂。
それを破る様に達也の母が口を開いた。


息子もこう言っておりますので、できれば受験させてやりたいと思うのですが……

そうですか……まぁ、高校受験と違って中学受験は失敗しても公立中学に通えますから。
達也君がそこまで受験したいというのなら私どもは止めはしません

誰が公立なんかに通ってやるもんか……!
絶対に受かってやる……!!



達也は拳を握りしめ、目の前の教師を見返してやると誓った。

ただ、この期に及んでなお「自分ならばどうにかなるだろう」という発生源不明の多大なる自信を持っていた彼が現実を理解するには、入学試験当日になるまでの期間を要した──。














入試当日。

達也は問題用紙の前で頭を抱えていた。


なんだよこれ……こんな問題小学校どころか今までの人生で一度も見たことねえぞ!!



それは最後の科目、算数の試験だった。

理社の問題をほぼ勘とぼやけた記憶に頼って解答し、国語を満足の行く出来で終えた達也は「算数なら余裕」と自信満々に問題用紙を開いた。

しかし、円の面積や四角形の面積を求めたり、分数の割り算や掛け算をやらされると思っていた達也の目の前にあったのは想像を遙かに超えた難問の数々だった。



問2
A君はおこづかいを持って買い物に出かけました。
最初に持っていたおこづかいの1/4を使って洋服を買い、800円の昼ご飯を食べて、残っていたお金の3/7を使って本を買ったところ、最初に持っていたおこづかいの1/3が残りました。
最初に持っていたおこづかいはいくらですか。




一問目は簡単な計算問題だった。問題用紙の端に計算式を書き、小さい解答欄にひたすら数字を書き込んでいった。
そして二問目。
最初に持っていたおこづかいをxとおいてごちゃごちゃとした一次方程式を立式しようとした達也の手を止めたのは、問題文の最後に付属していた奇妙な文章だった。


最初に持っていたおこづかいはいくらですか。

──線分図を用いて解きなさい。






……………………

…………線分図ってなんだよ!!



そして見たこともない単語に続いて現れるのは立式すると三次方程式になってしまう文章問題、空間認識能力が問われる複雑な図形の切断面を問う空間幾何、その他数字パズルなどエトセトラエトセトラ。

それらは達也の想像していた「算数」とは一線を画するシロモノだった。

クソッ、国数で点数稼いで理社のカバーをするつもりだったのに……
これじゃあカバーどころか算数が一番得点できねえ……



自分の知識で埋められる問題は埋めた達也だったが、受験算数の解法を知らない達也に全問解答することは時間が許さず、全体の半分を超えて動点の問題に取りかかろうとしたところで試験時間が終わってしまった。

















試験終了後、達也は特に目的もなく街を歩いていた。

合否の発表など見るまでもなく散々な結果。


こんなことなら真面目に中学受験の勉強をしておくんだった……。



などと後悔しても後の祭りである。
意識のみの時間遡行を経験してもなお、達也は後悔が先に立つものではないということを理解していなかった。
あるいは、それはやり直しを経験したからこそか。


おやおや、せっかくやり直したのにまた人生に失敗したようですね、木場さん。



達也が肩を落として歩いていると、スーツ姿の男が声をかけてきた。


あんたは……!



それは、今から六年前に達也を小学一年生に戻した悪魔であった。


……なんだよ、俺を笑いに来たのか?

ふふ、まさか。
あなたの過ごした六年間にケチをつけたところで、私にはこれっぽっちも得が無いですからね。

むしろ、私が今こうしてこの場にいる原因はその対極にあると言ってもいいのではと思いますよ。
私はね、あなたに再びチャンスを与えに来たんです。

チャンス……ってまさか!



柔らかな笑みを浮かべた悪魔は救いの手を差し出した。


ええ、もう一度小学一年生に戻して差し上げます。
それだけじゃありません。もし次に失敗しても更にもう一度、そのまた次に失敗してももう一度戻して差し上げられます。

さて……どうしますか?



突如降って湧いた追加のクレジット。
もはや達也に選択の余地はなかった。


マジかよ……じゃあ頼む!
今すぐ戻してくれ!



達也はすがりつくように懇願した。

その瞬間、視界が段々と暗くなっていき、そして『十年後』と同じように、達也の意識は闇に溶けた。






















達也が再び意識を取り戻したとき、すべてが始まりに戻っていた。

達也はコンクリートの地面に横たわっており、頭上ではひまわり組の生徒が何やら呟いていて、すぐに男性教師が駆け寄ってきた。

自分の教室、座席、ひらがなのプリント。
何もかもが、あの日と全く同じだった。


今度こそ真面目に勉強して、きちんと中学受験を成功させよう──。



戻った瞬間こそ、そう考えた達也だったが、その意志はすぐに崩れてしまった。


まだ六年も残ってるし、しばらくは勉強しなくていいだろ。




一年が経過した。



五年も経ったら定着した記憶も薄れるだろうし、今勉強したって無駄だ。




二年が経過した。



来年から始めても十分すぎるほど時間はあるだろ。
まだやらなくても平気そうだな。




三年が経過した。



中学受験するやつが塾に行き始めたな。高校を卒業したこの俺が小学生と同時に受験勉強を始めるなんてあり得ねえ。
勉強は来年からだな。




四年が経過した。



暗記科目勉強するのマジでめんどくせえな……。
配点が五十点しかない理社は捨てて、国数だけで合格目指すか。
来年一年かけて算数やれば大丈夫だろ。




五年が経過した。



クソ暑い夏に勉強とかあり得ねえだろ……。秋から勉強だな。




五年と九ヶ月が経過した。






そして、現在──。




数ヵ月で算数勉強してギャンブルするより、もう一回戻してもらって確実に合格できるように準備した方がいいだろ。

今回の人生は"捨て"だな。



達也は全く勉強に手を付けていなかった。二度目の人生を再開する前に悪魔が言った、


もし次も失敗しても更にもう一度、そのまた次も失敗してももう一度戻して差し上げられます



という台詞を当てにして四度目の人生で成功すれば問題ないという思考に辿り着いたのだ。
しかもそれどころか、


人生なんて長ければ長い方がいいだろ。



と、三度目の人生も"捨て"て、頑張りのは四度目の人生だけにするつもりであった。


そして数か月後──前回よりも数段酷い成績で早慶付属の入試を終えた達也は、やはりスーツ姿の男に声をかけられた。


どうやらまた失敗してしまったようですね



前回と変わらずうすら寒い笑みを浮かべて近寄ってきた男に、達也も微笑を返す。


そうなんだよ。また頼むわ



悪びれる様子もなく言ってのけた達也は、悪魔の手によって三度過去へと戻っていった。














最近授業にもついていけなくなったし、なんかめんどくせえなあ。
入試まであと一年あるけど、もう戻してもらうか……。



三度目の六年生になったばかりの頃、勉強していない期間が十八年目に突入した達也は漢字も忘れ始め、既に満点を取れる教科がなくなっていた。
それどころかほとんどの教科で低得点を取るようになってしまい、今や達也の学力は下から数えた方が早いほどであった。

そこで、もう一度最初からやり直して勉強し直そうと考えた達也はある日、登校時間を遅らせて人気の少ない校門前で悪魔を呼んでみた。








おーい、悪魔ーまた一年生に戻してくれよー


悪魔なら見えなくともどこかから自分を監視しているだろう、という予想から試してみた行動だったが、果たして悪魔は現れた。


何かご用でしょうか。
まだ入学試験が終わるまでは一年あるはずですが……。



ライターの火のように、突然目の前に現れたスーツ姿の男に達也は一瞬驚いたが、すぐに本題へと移った。


前々回の人生での話だと確か、もう一回は戻してもらえるんだろ?
『次の次に失敗しても戻してくれる』って言ってたもんな。
だから、今すぐ俺を戻してくれ!

えぇ、確かにそう申し上げました。
が……それはできません。

えー、なんでだよ。
入試受けてからじゃないとダメなのか?



不満を漏らした達也に対して、男はゆっくりと、手渡すように絶望を口にした。


そういう意味ではございません。
入学試験を受けようと受けまいと、合格しようと不合格になろうと。今後一切あなたは時間を戻ることができません。

なっ……!
次の次までは失敗しても戻すって言ったのはお前だろ! ふざけるなよ!

はい、確かに私は四度目まで戻すと申し上げました。
ですが、お忘れですか?



男は、まるで世界のすべてを愛おしむかのように笑った。


私は、"悪魔"なんですよ。



なんの説明になっていないはずのその一言は、あらゆる事象に対して十分すぎるほど“理由の説明になっていた”。


我々悪魔はね、純度の低い魂を求めているんですよ。
魂の純度とはつまり『人間らしさ』です。あるいは『知性』や『教養』と言い換えてもいいでしょう。

もっと乱暴に翻訳してしまえば『生きている価値』と言ってもいい。
地獄にはね、価値ある人間の魂なんて必要ないんですよ。我々はゴミみたいな人間の魂がほしいんです。

そしてそのためには知力の低い人間に死んでもらうのが一番手っ取り早い。頭の悪い人間は限りなく動物に近いですからね。

その点あなたは実に素晴らしかった。
もともとの純度の低さもさることながら、私の試算よりも遥かに早く純度を最低まで落としてくれたその成長速度──いや、"堕落速度"とでも言うべきでしょうかね。とにかく驚嘆に値します。

そんな……

ですから──もう終わりです。
あとは死んで魂を献上してください。

まぁ、今すぐ死ねと言っているわけではありません。まっとうに寿命を終えたら魂の回収に参りますよ。
それでは、またお会いしましょう。



最後にそう告げて、痕跡も残さず煙のように悪魔は消えた。

そしてそれと同時に、達也の目の前で低学年の生徒がどさりと音を立てて倒れた。
傷ひとつない真新しいランドセルから察するにおそらく一年生だろう。
何か病気を患っているのだろうか。今はまだ四月半ばであり、熱中症は考えにくい──。


と、そこまで考えを巡らせたところで達也の脳裏にカレンダーが浮かんだ。

そして、ようやく達也は自分が完全に『役から外れた』ことに思い至った。


なんでだよぉ……こいつの人生戻すくらいなら俺の人生やり直させろよぉ……おい悪魔ぁ……戻せよぉ……



地面に横たわる男子児童を見下ろしながら、達也は消えてしまった悪魔に対する懇願をいつまでも続けていた。

強くてニューゲーム!

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