【202号室】
【202号室】
吸血鬼は、女子高生から快く部屋の中へ招かれていた。
吸血鬼は大いに驚いていた。202号室は男子大学生の部屋である。彼が出て来ると思っていたら、201号室の女子高生が現れたのだから。
ちょっと事情がありまして……
ニコニコと笑って済ませる女子高生に、とりあえず今は納得しておくしかない。
さて、なるほど。ニートで貧乏のあまり、食べる物がなくて困っていると。あなたの事情はわかっておりますが……それで、どうしましょうか?
……あれ? 何も説明してないんだけど?
なんとなく正座して向き合った吸血鬼と女子高生。
食べ物と云っても、ここは私の家ではないですから、何処に何があるのやら……
のんびりした調子の女子高生に対して、吸血鬼は徐々に余裕を失っていた。飢えは酷くなる一方だ。それもそのはず、この状況は生殺しに近いのだから。
目の前に、とてもおいしそうな【餌】が――。
女子高生の彼女が、いるのだから。
吸血鬼は、本能を押さえるのに必死だった。
うーん。こんなものしかありませんが……
女子高生は突如、何かを思いついたように押し入れを物色し始めた。そして、彼女はアダルトなビデオを持って戻ってきた。
ああ、でも、神様の定めたルールでは、このような有害作品を描写することは……きゃあ!
もはや、どうにでもなれ。
ひん剥いて、その身体を味わい尽くしてやる。
長年飢え続けてきたニートが、とうとう吸血鬼の本能に負けた瞬間である。その瞳は赤く輝いていた。覚醒。秘めたる力に目覚めた彼は、この時、始祖である某伯爵と同等の力を手にしていたが――。
残念ながら、相手が悪かった。
規約違反です
女子高生が告げると同時に、吸血鬼の身体は、見えない壁に叩きつけられていた。
不可思議な力により、吸血鬼はピンポン玉のように吹き飛ばされて、そのままガラス窓を突き破る。無惨にも、彼は階下へ落ちていった。
窓ガラスの割れる音と共に、彼は階下へ落ちていく。
まったく。よく見てください。どこに年齢指定の注意書きがあるでしょうか。神様がこの世界をそういうものと定めている以上、私達はそれを外れることはできません。どうか悔い改めてください――と、云いたい所ですが、そうでしたね。世界構造の秘密は、なかなか普通の人に理解できるものではありません。うっかり、うっかり
可愛く舌を出す女子高生。
それから、彼女は落下した吸血鬼を追いかけて部屋を出た。
【102号室】
幽霊は、困惑していた。
男子大学生と小説家が、彼女の目の前で凄まじい言い争いをしている。その原因と云えば、他でもない幽霊自身だった。
201号室で出くわした男子大学生に先程、これまでの境遇を涙ながらに訴えた所、彼は正義感に駆られたようで――。
そのような不届き千万な輩は、僕がやっつけてやります
201号室を、男子学生は矢のように飛び出して行った。
幽霊は最初こそ頼もしく思ったものの、もしかすると、さらに厄介な事態になるのでは――と、生来の心配性が首をもたげ、恐る恐る、言い争う声の聞こえる階下へ降りてきたのである。
身を潜ませて、小説家の吠える声を聞いていた。
そして、その内に赤面した。
ああ、なんたる自意識過剰……
小説家が弁明する内容は筋が通っていた。
ストーカーと思い込んでいたが、どうやら幽霊の完全な勘違いだったようだ。慌てて、口論を止めるため、幽霊は二人の間に割って入る。しかし、白熱する二人に対し、もはや幽霊の介入は意味を為さなかった。
二人の論点はもはや、幽霊の関係ない所にまで及んでいる。
そもそも君は五月蠅いのだ。いい歳をした大学生の癖に、夜な夜な、奇妙な呪文や恥ずかしい必殺技の名前を叫んでいるだろう。時には、馬の鳴き真似までしておる。あれは、私の執筆活動を大いに邪魔してくれた
嘘はやめろ。僕はそんな中学生の病をこじらせたような真似はしていない
幽霊はどうにか、話題を逸らそうとした。
そ、それはきっと、103号室の人ですよ
奇妙な呪文や恥ずかしい必殺技を夜な夜な叫び、馬の鳴き真似をする――そんな奇行を押しつけるのは申し訳ないが、とにかく二人を落ち着かせるのが最優先だ。
しかし、幽霊の必死の叫びに対し、小説家は残念そうに首を横に振る。
103号室は空き部屋だ。私が入居する際に、不動産屋から102号室と103号室どちらが良いか聞かれたからな。あれから入居者があった様子もないため、今も空いたままだろう。つまり、私の部屋に騒音をもたらす者は、大学生の君しかおらんのだ
小説家はそう云いながら、念のため確認するためか、103号室の扉に手をかける。
鍵はかかっていなかった。
ゆっくりと扉が開けば、そこには――
【103号室】
異世界の名は、ミーンストレルム。
東の大国ローレンシアと西の大国ユーステリアスが、百年に渡る大戦争に国土を疲弊させていたのも、今は昔である。強大な魔法が空を焦がし、騎士の行進が草原を蹂躙する時代は終わった。人類同士は争うことをやめて、ようやくの平和を手にしている。
だが、ミーンストレルムの争いの火種になるものが、人間だけとは限らない。戦争で森や山を焼かれて、魔物は住処を失い、人間をたびたび襲うようになった。偉大なるドラゴン達は相変わらず神の尖兵として、人間の災厄であり続ける。
そして、予言書に記された魔王の存在――。
ミーンストレルムには清浄な風が吹き、緑は大いに栄えている。水は恵みをもたらし、太陽の光は陰ることなく、異世界を包み込んでいた。もしも、ミーンストレルムの平和を脅かす魔王があらわれるならば、それは外の世界からやって来るものと云われている。
今まさに、異次元の扉が開かれようと――。
【102号室】
小説家は、103号室の扉を閉ざした。
私は、何も見ていない
小説家は目を閉ざし、沈黙する。
男子大学生と幽霊も似たような反応を示した。
明日のバイト、朝早いから、いい加減に寝ないといけない
そう云えば、燃えるゴミの日だから、カラス避けのネットを準備しておかないと……
ああ、そうだ。関口君に、小説が完成した事を連絡しておこう
それぞれのやり方で、現実感を維持しようと努めていた。
だが、予想外の出来事は続くものだ。
うわあああ!
窓ガラスの割れる音と共に、吸血鬼が降ってきた。
【104号室】
最後の一室である、忘れられた部屋。
104号室には、混沌が溜まっていた。
混沌には名前がある。
ニャルラトホテップ。
クトゥルフ神話に語られる恐るべき支配者。
彼は、異次元の扉が開く音を聞いた。
時が来たのだ。
世界に混沌をもたらすため。
世界に終焉をもたらすため。
ニャルラトホテップは、104号室の扉へ這い寄る。
【全員集合】
男子大学生は、わけのわからない展開の連続に、悲鳴に似た叫び声をあげていた。
203号室のニートが突然降って来たのは、なぜか、男子大学生の202号室の窓からである。前々からいけ好かないと思っていたイケメン。男子大学生にとっては、イケメンはそもそも全て敵である。そんな奴が、どうして自分の部屋から――。
何よりも、今、男子大学生の部屋には女子高生がいたはずなのだ。彼女が招き入れなければ、イケメンが部屋に入れるはずがない。女子高生はイケメンと深夜、娯楽も何もない部屋の中で何をしていたのか――男子大学生の頭に、恐ろしい想像が浮かんだ。
下劣である。
下品である。
身悶えた。
男子大学生が信じる女子高生の彼女は、決してそんな破廉恥な存在ではなかった。だから、この時、罵るべきはそんな想像をしてしまった自分である。許すまじ、己。信じるものは救われるのだ。信じることをやめてしまった時、全ては終わる。
ぼ、ぼぼぼ、僕は、彼女を信じる!
決意を固める男子大学生の背後で、ニャルラトホテップが存在を主張している。
だが、無視された。
ふむ……
小説家は、この混沌とした状況を綺麗に解決したいと思っていた。
この場は、まるで紐が絡まってしまったようだ。
それを一本一本と解きほぐし、理路整然と並べ終える事こそ、作家である自分に求められる役割ではないか。そんな風にも考える。小説家はそのため、深い思考の海に潜り始めていた。
小説家の背後では、ニャルラトホテップが頑張って存在を主張している。
だが、まったく気付かれない。
う、うう……
さて、女子高生を襲おうとして、世界の理に破れた吸血鬼と云えば、息も絶え絶えである。始祖と同じだけの力に目覚めている彼にとって、二階からの落下のダメージは大した事ではない。
ただただ、空腹なのだ。
飢えのため、本当にこのまま死にそうだった。
だ、大丈夫ですか?
吸血鬼を心配し、助け起こそうとしたのは幽霊である。
差し伸べられた手を見て、吸血鬼は瞳を輝かせた。
ありがとう。そして、ごめんなさい
心優しい女性に襲い掛かる、最低の行為。
吸血鬼は、己の宿命を呪った。
それでも、もはや耐えられない。
いただきます
吸血鬼は、手を差し伸べる彼女に噛み付こうとした。
だが、当然、幽霊なのですり抜ける。
なぜに?
驚愕の悲鳴をあげる吸血鬼。
その背後では――
――ぼくの血を吸ってもいいよ?
身体をくねらせながら、ニャルラトホテップがそんな風に存在を主張している。
みなさん、おそろいですね
アパートの外階段をリズミカルな足音で降りてくるのは、女子高生。
お嬢さん。さ、さっきはすまなかった。ところで、あの力はいったい……
頭を下げながら、どこか恐れおののくように、吸血鬼が尋ねる。
き、君さ。ど、どうして、この男と、ぼ、僕の部屋にいたのかな?
決意を固めたはずなのに、どうしても声が震えてしまう男子大学生。
ねえねえ、どうして彼と部屋を入れ替わっていたの。もしかして、ドッキリか何か?
女子高生とは友人であるものの、さすがに胡散臭そうに尋ねる幽霊。
おや、そう云えば、今晩の騒動には君というピースが欠けていたな
推理を巡らせていた小説家は、全てのヒントが提示されていなかった事に不満な顔である。
そんな彼らの背後では、クトゥルフ神話の人気者であるはずのニャルラトホテップが、かなり必死に――
――あ、あれれ? ぼくがラスボスで、みんなでラストバトルみたいな話じゃないのかな? かな?
ニャルラトホテップはラスボスらしさを見せ付けるため、触手をうねうねさせたり、無数の顔を生み出して火を噴いたり、新宿方面を魔界に変えてみたり。まあ、とにかく、必死だった。
女子高生はそんな面々を眺め回していたが、ふと首を傾げる。
あれ、一人、たりない?
欠けているのは、204号室の魔法使い。
じいさんなら、俺がさっきノックした時も返事がなかったから、たぶん寝てるぜ
寝ている? おかしいですね。神様によれば、本日このアパートの面々が一同に介するはずですが。そして、これが大いなる序章として……。まさか、私の知らない間にアカシックレコードが書き換えられたとでも云うのでしょうか
女子高生はさらに首を傾げていたが、このような『全員集合したと思ったら一人だけ欠けている』というありがちな状況に対して、最も素早く反応したのは、やはり小説家だった。
むむ、この流れはまずい。そのじいさんの部屋へ急ぐぞ
小説家の駆け足に、よくわからない顔のまま、男子大学生が続いた。
は、はい
私も行きます
宙を舞って、二階へ飛んで行く幽霊。
だ、誰か、手を貸してくれ
情けない声で、ふらふらの足取りの吸血鬼も階段を上る。
これは、どういう結末になるのでしょうか。神様、どうかお導きを……
祈りを捧げた後で、女子高生も204号室へ向かう。
そして、全員の後ろから、意外と空気を読むニャルラトホテップも黙ってついて行くのだ。
【204号室】
神さん、ありがとよ。
眠る前に、最後に楽しい夢を見させてくれてさ。
魔法使いとしての覚悟を貫いた儂には、看取ってくれる家族もいない。それなのに、こんなに大勢に囲まれて、賑やかに逝けるなんて最高の贅沢だ。
ありがとよ、みんな。
お前らの馬鹿騒ぎ、なかなか楽しかったぜ。
【それから】
とある一夜の大騒ぎを経て、アパートの住人は全員が顔なじみになった。大きな地震でもくれば、あっさりと倒壊してしまいそうなボロボロのアパートであるけれど、不思議と誰も引っ越す様子なく、しばらく出て行く計画もない。
男子大学生は、相変わらず隣の女子高生へ懸想している。以前は想いが募る一方で、部屋の中でひたすら悶々とするばかりだったから、挨拶したり会話したりが日常となった今の環境には、まあまあ満足しているようだ。
幽霊は、これまで隠れて生活してきたのが嘘のように、毎日活き活きとしている。アパートの管理人さんのような仕事に加えて、夜になれば手料理を作っては、育ち盛りの女子高生や男子大学生へ振る舞っている。
そんな幽霊に対して、女子高生が間違って――
お母さん
そう呼んだ時には、彼女は激怒したものだ(幽霊としてはそれなりのキャリアを積んでいるものの、まだまだ魂は若いらしい)。
吸血鬼はめでたくニートを脱却した。
彼は夜な夜な、103号室の異世界へ出勤する。
ははは。魔王の仕事はびっくりするほど優良だよ。女の子たちも、『魔王さまー、私の血を吸ってー』みたいな感じだしね。君も就活に困ったら、俺に云ってよ。四天王のポストぐらい用意するからさ
そんな風に自慢しては、男子大学生を歯噛みさせている。
小説家がアパートで書き上げた新作は、彼の新境地を切り拓く作品として話題になり、多くの書店で平積みされていた。文学部に通う男子大学生が遅ればせながら、彼のペンネームを知って驚愕したり、作品のヒロインにされていた幽霊が赤面するなどのオチもついた。
さて、小説家が次回作の構想を練り始めると、これに目を付けたのがニャルラトホテップである。
あなたがラスボスになれなかったのは知名度の問題ですね。ええ、もちろん、あなたは有名人ですよ。でも、日本の若者相手では違ったのです。日本の中高生は『にゃ、にゃるら……? なにこいつ、変な名前』と云って笑うでしょう。笑われるような存在が、ラスボスにはなれません
女子高生から手厳しい評価を受けた事で、現在、ニャルラトホテップは啓蒙活動に勤しんでいる。
小説家に対して、ニャルラトホテップは自分を主人公にした作品を書くように訴えている。その必死な姿には、幽霊が思わず――
書いてあげればいかがです?
優しく援護射撃をしてしまうほどに、ニャルラトホテップは必死なのだ。小説家も徐々に覚悟を決めたようである。
アザートスにインタビューはできるかね?
小説家がそれまでの作風とまったく異なるジャンルで、ニャルラトホテップを日本の若者に浸透させるのはそう遠くない未来の事だった。
それから色々な騒動も起こしつつ、季節は巡り、三月下旬。
まだ肌寒さも残る中、花をつけ始めた庭先の桜の下で、アパートの住人は花見を行っていた。
小説家が取り寄せた高級な日本酒で、男子大学生が盛大に酔っぱらっている。吸血鬼は異世界で覚えた魔法で苦手の太陽を克服し、さらに空気を操って、幽霊や女子高生が肌寒さを覚えないように気配りしていた。
幽霊の料理の腕前は上がる一方で、もはやプロと見間違うばかりの豪勢な品々が並んでいる。ニャルラトホテップは、よくわからないけれど、うねうねしていた(酔っているらしい)。
みんなの様子を満足そうに眺めながら、女子高生。
むむ……
何やら、電波を受信。
なるほど、神様。魔法使いのおじいさんが亡くなった204号室に、新しい住人がいらっしゃるわけですね。季節は四月、まさに新しい物語りが芽吹くには打ってつけの時期――さて、このアパートに、次はどんな物語がやって来るのでしょうか?
さながら次回予告のような独り言。
彼女は、にっこり微笑んだ。
おしまい
そう云って、彼女はこちらへ向けてウィンクした。