あれは――

雨降りしきる午後の出来事――

当時勤めていた会社がビルの15階にあり、
下の階に用事がある際には、
ダイエットを兼ねてよく非常階段を
利用していた。

…………

大抵の人がエレベーターを使うため、
この薄暗い非常階段を利用する者は
ほとんどいなかった。

苦行のような階数をひたすら
無心で降りているうちに、
ふと、あることに気付く。

足音がしない!?

絨毯が敷いてあるわけでも
ないのに、その日にかぎって
なぜか無音。

普段ならカンカンコツコツと
足音が反響しまくるのに。

雨の日特有の湿気が
音を包んで封じ込めてでも
いるのだろうか――?

これは……

ちょっと面白い

面白いけれど特に何がある
わけでもなく、再び黙々と
降りていると――

とある階で前を行くおじさんと遭遇。

ススス……

何となく顔をうつむけながら
おじさんを追い越した。

あいかわらず足音はしないまま。

無意識に足を速めていたのか、
はじめはほぼ一定だった
おじさんとの間隔がどんどん
開いていく。

そしてついに――

……!!

マジで!?

頭上から降ってきた
驚愕のひと声。

おじさんはひどく動揺
しているようだ。

無理もない。

確かに自分を追い越していった
はずの人間の姿が、ほぼ一瞬にして
見あたらなくなってしまったのだから。

陰気にうつむき、足音もなく
視界から消えていった存在は、
おじさんの内部で〈幽霊〉として
固まりつつあるのかもしれなかった。

ところが次の瞬間――

幽霊なんかいてたまるかと
ばかりに猛烈な勢いで階段を
駆け降りてくるおじさん!

こちらも負けじとスピードを上げる。
すでにかなりの差が開いていたので、
逃げ切るのはむずかしくはなさそうだ。

この非日常を内心では
面白がっていたのも事実。

幽霊の正体見たり枯れ尾花
のために必死で追うおじさん。

絶対に追いつかれまいとする自分。

やがて――!

最後まで徹底して足音を消し、
ドアも音を立てないよう
注意して開け閉めして、
とうとう一階にゴールイン。

――ぐずついた空を見ると、
この出来事が時折頭をかすめる。

あのビル、あの非常階段では、
今でも自分の亡霊が語り継がれて
いるのかもしれないな、と。

あの時のおじさんごめんね

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