エリナが病院にお父さんを迎えに行って水野喫茶店は紬を残して静かな時間が流れている。自分から店番をすると提案したこともあって立派にやり遂げなくてはいけない。紬は気合を入れて喫茶店の厨房に立った。

 けれどもエリナが言った通りに人が来ない。外の人通りはあるようだが喫茶店に足を運ぶ人はいないようだ。

矢吹 紬

うーーん、暇ですな

 思った以上に人が来ない。これじゃ店番の意味がないな。

 カウンターに腕を置いて楽な姿勢をとった。これと言ってやることがない喫茶店でポツリと眺める。

 テーブルでも拭こうと思いたち背を伸ばし周りを確認する。するとカゴの中に食卓用のアルコール除菌スプレーと綺麗な布がまとめて置いてあった。

矢吹 紬

よし

 紬はカゴにあった物でテーブルを一つ一つ丁寧に拭いた。テーブルを全て吹き終わるのにそんなに時間はかからなかった。吹き終わるとまた暇な時間がやって来た。

 一人になってどのくらい経ったのだろうと喫茶店のある時計を見て大した時間が経っていない事を知った。本当にやることがなくなった紬はふっと鏡を見つけた。

 その鏡に映るコーヒー豆を焙煎した茶色のエプロンが改めて大きいのがわかった。エリナの名札が付いたままの喫茶店のロゴが入ったエプロンを自分が着ている。

 いつも着ているエプロンか。そうか私はエリナさんのエプロンを着ているんだよな。

 紬はエプロンを手繰り寄せて鼻に近づけると布に染み付いたコーヒーの匂いがする。使い込んでいる証拠だ。

 店と同じ匂い、やっぱりコーヒーの匂いがするんだ。奥の方に甘い香りもするんだ。いい匂いだな…………。

矢吹 紬

こんなことして、私は……

 私はどうしてエプロンの匂いなんて嗅いでいるの?

 自分のしたことに気づいてエプロンから手を離した。何故、嗅いでしまったんだろう。エリナさんを感じたいから? 何を考えてるんだ私、意味がわからないよ。

 正気に戻って恥ずかしさが込み上がる。紬は鏡を見ることが出来なくなった。

矢吹 紬

どうしたんだろう私

 ベルの鳴る音がした。落ち着く日間も無く喫茶店に人がやって来たのだ。誰かと思い入り口を見ると常連のおばあさんが居た。

矢吹 紬

いら、いらしゃいませ

おばあさん

あらあら、可愛らしい。新人さん?

矢吹 紬

いえ、留守番じゃなくて店番です。アハハ

 おばあさんにエプロンを嗅いでいるところを見られてないかと思うと顔が真っ赤になりそうだった。見ていないことを信じるしかない。

 おばあさんは入り口から近い席に座ると笑顔で話しかける。 

おばあさん

お嬢さん、コーヒーお願いできるかしら? 砂糖とミルクは要らないわよ

矢吹 紬

はい。わかりました

 私は少し緊張して厨房に立った。コーヒーカップにコーヒーを淹れるだけなのに手に力が入る。サイフォンにはコーヒーが温められている。一からコーヒーを淹れることはない。

 普通にコーヒーを注ぐだけそれだけでいいのだ。

 余計な事を忘れコーヒーカップに注ぐ、そして淹れたコーヒーをお盆に載せおばあさんの元へ運び置いた。

矢吹 紬

お待たせしました。コーヒーです

おばあさん

あら、美味しそう。ありがとう

矢吹 紬

ありがとうございます

 なんだか恥ずかしかった。味は変わらないはずなのに美味しそうと言われておかしな気分だ。できることなら私は顔を隠したい。

水野 エリナ

ごめん、紬ちゃん。遅くなった

矢吹 紬

エリナさん

 エリナが病院から帰ってきた。急いで帰ってきたせいかひたいに汗をかいていた。

水野 エリナ

あっ、おばあちゃん来てたの

おばあさん

ええ、お嬢さんが美味しいの淹れれくれたのよ

水野 エリナ

え、本当だ。ありがとう紬ちゃん

矢吹 紬

いえ、そんな事は

 とても嬉しい気持ちだ。褒められる事はあるがこんなに心がポカポカした事は今までにない経験だ。

 それはエリナの笑顔のせいだろうか、それとも褒め慣れていないだけなのか、私にはわからない。

始めは一杯のコーヒーを(5)

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