明後日の夕方、母親が買い物に出掛けたので亮太は一人でリビングでぼんやりしていた。本やCDも東京に持って行ったから、帰省すると意外とすることがなかったりするのだ。仕方ないから目的もなくテレビを見ていた。
 そうしていると、インターホンが鳴った。最近は物騒な事件が多いからな。相手を確認しなければと思って画面を見た。
 そこには千鶴の顔が映っていた。見慣れているはずの顔だったが、画面にアップで映っているのは見慣れていない。驚いたわけでも驚かなかったわけでもないが、心の中であっと声を上げそうになった。

どうしたの?

亮太。今から私を人生の迷子センターに連れて行って

え……


 真意をくみ取れない千鶴の発言に今度は驚いた。それでも家の前にいるんだから、入れてあげようとドアを開けた。

急いでついて来て。説明は後


 千鶴はそう言うが早いか亮太の手を引いて、玄関に背を向けた。

え……。ちょっと、どこに行くんだよ

愛の逃避行よ

何だ、それは?

 意外な展開に亮太は混乱した。どこに連れて行かれるんだ。それにどっちが人生の迷子センターに連れて行くんだ。それでも亮太は言われるままにするしかなかった。
 二人で町を歩く。その間、千鶴は亮太の手を強く握っていた。まるでトンボのタンデム飛行みたいだ。手を離しても逃げないよと言いたかったが、口に出したら意地でも手を離さなくなるのだろう。
 二人は生まれた時からこの町に住んでいるのだから、近所に知り合いが多い。誰かに目撃されたらどう見えるだろうかと思ったが、幸いにも誰にも遭遇しなかった。あるいはすれ違っても、いつも通りの二人と思われたのだろうか。
 まもなく二人は駅に着いた。千鶴は「ちょっと待っててね」と言うと、切符を買って亮太に手渡した。近頃は乗車カードをかざせば運賃を払えるようになっているから、現金で切符を買う機会はめっきり少なくなった。

家を出る前に言ってくれれば、財布とICOCAを持ってきたのに

先に電車に乗ると言ったら、ついて来てくれなかったかもしれないでしょ


 不満を言う亮太に千鶴はにやっと笑って答えた。
 二人はホームで電車を待った。まさか遠出をするつもりなんだろうか。逃避行なんて言ったけど、地の果てまで行くつもりだろうか。亮太は不安になって千鶴に尋ねた。

ところで両親に許可をもらってるの?

もらったら逃避行にならないでしょ。置き手紙をしておいたわ。「亮太と愛の逃避行に出掛けます。探さないでね」ってね

それじゃ、まるで失踪するみたいじゃないか。何のつもりだよ

旅先で落ち着いて話そうよ


 旅先ってどこだ。あまりの事態に亮太は目が白黒してきた。そう言えば千鶴がさっきからパンパンにふくれたボストンバッグを持っているのが気になった。

そうだ。亮太の家にも言っておかないとね。そうしないと警察に捜索願を出されそう


 そう言って亮太の家に電話をかけた。

もしもーし。千鶴です。亮太を誘拐しまーす

 幸いにも留守電に吹き込む結果に終わった。さっきは逃避行だったのに、いつの間にか誘拐になっている。もし母親が電話に出たらどうなっていただろう。微笑ましいジョークと受け取ってもらえただろうか。
 やがて電車が到着した。千鶴は「さあ、乗るぞ」と勇ましい声を上げた。こうして二人の逃避行が始まった。
 電車のシートに並んで座ると、本当に逃避行をしているような気分になってきた。どこに連れて行かれるんだろう。目的はあるのだろうか。亮太の心中を不安が満たしていった。
 漫画ではシャイな少年は好きな相手の前だと緊張してスムーズにおしゃべりできないが、亮太は千鶴の扱いには慣れて、誰よりも気さくに接することができた。それが今だけは緊張して無口になった。その一方で、千鶴は何を考えているのだろうか。
 やがて電車は県境をまたいで山口県に進入した。地球は丸いのだから、どんなに西に行っても一周して同じ所に戻って来る以上のことは起こらない。それが今だけは本当に世界の果てに向かっているような気がした。
 そして、電車は終点の岩国駅に到着した。これ以上西に進むには乗り換えなければならない。亮太はどこまで行く気なんだろうと不安になってきた。
 そう思っていると千鶴の方から切り出した。

ここで降りるわよ

よかった。地獄まで行くのかと思ったよ

私といっしょなら天国でしょ

そうか。それで天国ってどこにあるの?


 その質問にはは話を合わせただけではなく、目的地を聞き出そうという意図もこもっていた。それに気付いたのか気付かなかったのかはともかく、千鶴もようやく目的を明かした。

そろそろ行き先を教えようか。夜の錦帯橋を渡るのよ。それから旅館で一泊するの

え~、一泊するの?

そうしないと逃避行っぽくないでしょ


 錦帯橋は五連の構造で中央は三連のアーチという珍しい形状の橋だ。江戸時代に造られた由緒ある橋で、岩国市のシンボルとして親しまれている。亮太も小学校の時も中学校の時も学校の遠足で行ったが、夜に行くのは初めてだった。
 二人は駅を出てすぐのバス停でバスを待った。まもなく到着したバスに乗ると、二十分ほどで目的地に到着した。
 バスを降りると、目の前に錦川が流れていた。そこに二人を歓迎するように錦帯橋が堂々と横たわっていた。
 世界地図には自分の国が中央に位置しており、だからヨーロッパ人は日本を極東と呼んでいる。そういう意味では、どんな所も相対的に世界の中心なのだが、この時は本当に錦帯橋を中心に世界が広がっているようだった。

さてと……。先に旅館でチェックインしないとね

 千鶴はそう言って近くの旅館に入っていった。こぢんまりとしていたけど、老舗の旅館っぽい風情だった。
 千鶴が受付で「折坂です」と名前を告げると、従業員はカギを手渡した。

やっぱり……


 亮太は思わず口に出してしまった。

同じ部屋に泊まるの?

だって二人で来たのにわざわざ別の部屋に泊まる必要ないでしょ。それにお互い度胸試しになるしね

度胸試しって何?

言わないとわからない?


 千鶴はくすっと笑った。
 度胸試しなんて何を期待しているんだろう。そんなシチュエーションが待っているのだろうか。
 部屋に入ると、まもなく夕食の時間になった。小鉢が何皿も付いて見た目も華やかで、一人暮らしが続いた亮太には数ヶ月ぶりの豪華な食事だった。
 千鶴はナスの煮浸しを口に入れると満足げな表情を浮かべた。

季節の食材と繊細な味わい。やっぱり和食を食べないと私みたいな大和撫子にはなれないわね

学生の頃はほとんど牛丼を食べてたんだろ。達也に聞いたぞ

それは安いからよ

毎日牛丼を食べたら、女の子は皆、君みたいになるのかな?

私みたいって何の喩えよ。それに牛丼も和食


 そんな会話を交わすと、やっといつも通りの二人になった。
 夕食が終わると、ついに今日の大一番を迎えた。

さあ、錦帯橋に繰り出すわよ


 二人は旅館を出た。夜の錦帯橋はライトアップされて夜空に映える。夏休みだからか、夜になっても通行人でにぎわい、おみやげ屋をのぞいたり写真を撮ったりしていた。
 入橋料を払って中に入るとアーチを登った。頂点まで登って遠くを見ると見晴らしがいい。すぐにアーチを降ると今度は川の水面が間近に見えた。

ここを渡ると人生の縮図みたいね。登ったり降ったりして

気分は降りっぱなしだよ

あら、だったら旅館に戻ったら登らせてあげるね


 どうやってと言おうとしたが、口に出さなかった。何をたくらんでいるんだ。そう思うと橋の傾斜がマラソンの心臓破りの坂のように感じられた。
 何気なく川を見ると屋形船が浮かんでいる。

あの屋形船は予約制だから私たちは乗れないの。だから橋から眺めようよ

眺めるって何を?


 それを確かめようと目をやると、かがり火を灯した舟が川を進んで来るのに気付いた。

始まったわね。これが夏の風物詩、鵜飼いよ


 舟には鵜匠と船頭が乗っていた。かがり火が揺らめき、川面が光を反射させた。その中を鵜が悠然と泳ぐ。鵜が何かに反応して素早く川に潜り、次の瞬間には水面に飛び出した。鵜匠が鵜の口から鮎を取り出すと、屋形船から歓声が上がった。
 二人はその光景を橋の上から見ていた。

わあ、あの鳥おいしそう

鵜は食用じゃないぞ

フランス料理だったら野鳥だってジビエになるでしょ。ザリガニも偉そうな料理になるしね。誰か私を料理してくれないかな~


 料理ってどうされたいんだと言いたかったが、思いとどまった。 
 やがて鵜飼いも終わり、舟は岸に引き上げていった。その場の余韻に浸っていると、夜風が吹いて清涼な空気を運んで来た。千鶴の髪が風に舞う。星は瞬き、ほどよい暑さが心地よい夏の夜だった。
 二人は遠くを見ていたが、千鶴は亮太の方を向いて言い出した。

そろそろ帰ろうか


 旅館に戻ると千鶴は冷蔵庫からウーロン茶を取り出して一気に飲み干した。それで一息付いたようだった。

さてと……。お風呂に入ろうか。亮太の着替えも持って来たからね

どこから持って来たの?

達也の服を借りて来ちゃった。あんたたち同じくらいの背丈だから入るでしょ

盗んできたんだろ

弟の持ち物くらい無断で借りてもいいんじゃない?


 千鶴はそう言って支度を始めた。ボストンバッグの中身はこれだったのか。亮太も行かない理由はないからついて行った。
 浴場の前に来ると千鶴は女湯ののれんをくぐった。つまり、ここで別れることになる。千鶴はこんなことを言い残した。

混浴じゃないのが残念ね

残念だなんて思っていないよ。期待していないし

別れはいつも切ないわ


 亮太は反応に困ってそれ以上答えなかった。 
 湯船に浸かると一日の疲れがどっと出た。でも、疲れている場合じゃない。こんなに密度が濃い一日は初めてだ。
 それにしてもまさか千鶴と二人で旅行に行くとは思わなかった。もっとも誘拐されたのかもしれないけど。今夜はどうなるんだろう。度胸試しなんて言ったけど、何をするつもりなんだろうか。そんなことを考えていた。
 夜になってもまだ暑かったけど、湯冷めすると寒いかもしれないから先に部屋に戻った。そうすると一分もたたないうちにドアをノックして仲居さんが入ってきた。

お布団をしかせていただきます

はい……、お願いします


 二組の布団を並べてしき始めた。それがぴったりと密着していた。そうする必要はないと思うのだが、これは気を利かしてくれたのだろうか。それともこの旅館の流儀なのだろうか。
 仲居さんがすみやかに退室すると、今夜は何が起きるのだろうと考えていた。
 やがて千鶴が戻ってきた。

ゆっくりできたわ。うちのお風呂は狭いからね


 千鶴は浴衣を着ていた。先週の夏祭りの時も浴衣を着ていたが、今は状況が違う。この下には何を着ているんだろうと思わず想像してしまった。
 千鶴は外を見ながら自分をうちわであおぎ始めた。浴衣でうちわを手にする女の姿は夏らしい風情がある。その姿にしばし見とれていた。千鶴がそれに気付いたのか、こちらを向くと亮太はとっさに視線を真下に落とした。

どうして下を向くの?

何でもないよ

あ~。さてはいやらしい視線で見ていたな。私の色気に参ったか。この渚の狼少年め


 亮太は漫画の題名のような別名を付けられた。事実を言い当てられて、何か言い返さないと気まずい雰囲気になるかもしれないと思った。

僕が狼なら君はカマキリだね。雌が雄を捕食するんだから

それは交尾する時だけよ。それとも私に食べられたいの?


 当意即妙に切り返す千鶴に、亮太はしまったと思った。これが千鶴だ。気の利いたことを言えない亮太とは逆に小粋な言動でいつも困らせる。

そんなわけないだろ。僕は食べられたくない


 そう言って頭から布団を被った。照れ隠しと意地っ張りが同居した気持ちだった。今から千鶴がカマキリに変身したら食べられてしまう。もう成り行きに任せるしかない。

疲れたからもう寝るね


 そう言うと千鶴も布団をかぶった。そして、数分で寝息を立て始めた。度胸試しをする機会は半減した。
 千鶴の寝顔を見るのは初めてだった。異性として意識していたけど、なぜか変な気が起こらなかった。もっとも起こしても実行するほど勇気がないのだけど。ここで勇気を出すのが男というものだろうか。だから度胸試しなのか。
 そんな煩悩が悶々(もんもん)として亮太は眠れなかった。
 何もなく時間が過ぎ、朝日が昇り始めた。日差しが差し込む中、亮太はトイレに行こうと立ち上がった。

亮太~


 千鶴は小声で名前を呼んだ。

起きてたの?

寝るのが早かったからもう目が覚めちゃった。二人で将来の話をしようか


 まるで結婚するみたいな言い方だ。

昨日、お見合いがあったのよ。相手の名前とプロフィールは以前から知っていたけど、初めて会ってもあんまり新鮮さを感じなかったな。それよりも先週、久しぶりにあんたと再会した方が新鮮だったわ。子供の頃から知っているのに不思議ね

話を進めるつもりなの?


 そう言った直後、そのつもりなら逃避行なんてしているわけがないかと気付いた。

私ね、フーテンの寅さんに憧れてるの。全国津々浦々を旅していると飽きないし、たまに地元に帰ってくるとちやほやされるしね。だから京都に行ったんだ。帰ってからも両親にその話をしたら、就職しないなら結婚しなさいって言われてね。それでお見合いを仕組まれちゃった

それで君はどうしたいの?

見合い結婚なんてお互いに品定めするみたいで夢がないな。でも、就職も嫌。それで両親とケンカになって勢いに任せて亮太と婚約するって言っちゃったの。それで私の気合いを見せつけてやろうと思ってね。だから愛の逃避行をしたのよ

そうだったのか。考えるより先に行動するタイプだね

見合い結婚より駆け落ちする方が私らしいな。どうせ結婚するならそうでなくちゃね

さすがに駆け落ちするわけにはいかないよ

いいのよ。気長に待つから


 気長に待てるような性格じゃないだろうと心の中で言った。

でも、待っていたら就職するしかないのよね。これじゃ風来坊になれないな。私たち、どうなるんだろうね

 そんな生き方を本気で求めているのだろうか。亮太は大学を卒業したら普通に就職しようと思っていた。でも、こんな生き方に憧れる人もいるのか。千鶴は大人だけど、大人じゃない。こんな人を受け止めるなんてできないな。
 千鶴もいつかは結婚するのだろうか。だったら、どんな相手が釣り合うんだろう。それとも釣り合う人なんているのかな。
 そう言えば、寅さんの恋もいつも実らない。風来坊には同じ人をいつまでも愛し続けるなんてできないのかもしれない。亮太も千鶴をつなぎ止められないだろう。
 それ以前に幸せって何だろう。両想いになったら毎日がキラキラし始めると思っていた。でも、楽しいことばかりじゃない。愛するって切ないものだ。不確かな未来に約束されたものなんてない。そう思うと、愛する切なさが染み込んできた。
 一ヶ所に留まらない方が千鶴らしいし、遠くから見ている方が自分らしい。二人には今の距離がちょうどいい。これからも千鶴のことは遠くから見守っていたい。もう想い続けることも終わりにしよう。亮太はそう心に決めた。

朝ご飯を食べたら帰ろうか

 そう言うと千鶴は再び眠りについた。あどけない横顔が朝日に照らされた。

 翌朝、スズメが鳴く声とともに一日の始まりを迎えた。亮太は一晩中起きていたから目が覚めたわけではなかった。千鶴も眠りが浅かったからか寝覚めがよかった。さわやかな朝だった。
 二人は昨夜と同じく差し向かいになって朝食を取った。不思議とそこに恥じらいや初々しさは薄らいで、長年連れ添った夫婦のように落ち着いた気持ちになれた。
 千鶴は言い出した。

帰ったら、どうなるかな

何が?

両親の反応よ

さあね。僕は被害者だしね

そうか。前科者にはなりたくないわね

 愛の逃避行もこれで終わり。二人は一泊だけど長い夜を過ごした旅館を後にした。旅館の外に出ると、朝日を浴びる錦帯橋が誇らしげに見えた。
 初めて二人だけで過ごした夜。二人の想いが実ったわけじゃないけど、それでも心は通じ合えた。もう多くの言葉で語る必要はなかった。亮太は来た時とは違って不思議と清々しい気持ちになれた。まるで悟りを開いたような境地だった。
 並んで座ってバスを待つ間、千鶴はふと口を開いた。

結局、何もなかったね。亮太が狼に変身したら成り行きに任せてもいいやって思ったのに

僕も同じことを考えていたよ。その時を待っていたんだ

え~。男なら度胸を見せてよ

逃避行にさらった方が変身するべきだよ

だって恥ずかしいじゃない

 初めは小声で話していたが、興が乗ってだんだん大声になった。周囲の人が聞き耳を立てているのに気付くと、二人ともあわてて口をつぐんだ。
 バスが岩国駅に着くとJRに乗り換えた。シートに並んで座っている間、二人はほとんど話さなかった。
 千鶴は「手をつないで」と言った。小さな手を握ると、ほんのりとぬくもりが伝わってきた。二人はしばらくぬくもりに浸っていた。
 ふいに千鶴は亮太の肩に顔を寄せた。でも、手はつないだままだ。眠っているんだろうか、それとも眠ったふりをしているんだろうか。亮太は起こそうとはしなかった。起こさなければ、このままでいられるのだから。
 窓から朝の陽差しが差し込む。二人は暖かい光に包まれた。電車は二人を乗せて右手に海が見える線路を走った。

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