桐子は夢を見ていた。その夢の中の桐子は走っている。あの子に会いに走っている。

どうして忘れていたのだろう

 桐子は走る。大事なものをまた手に入れるために。

あの子の名前は……

 息が切れつつある。あともう一歩のところで、桐子は目が覚めた。

 たくさん寝返りをしたのか頭がクラクラする。深いな症状が治まってから桐子は起き上がる。
 洗面所に向かって身だしなみを整える。散策用にジーパンと長袖のシャツを着て、少し寒かったのでパーカーを上着に羽織る。

あら、お早いですね。桐子お嬢様

おはようございます。少し、散歩します

 メイドに礼をしてから玄関へと小走りで移動する。メイドはあらあら元気なことと微笑んで見送った。

 森の友達が好きだった。すごい好きだった。純粋で可憐で森が似合う女の子だった。

あの子が憧れだったんだ。私の憧れ

 あの子みたいになりたいと思っていた。その思いは小学生の頃の修羅場で忘れてしまった。嫌なことばかりで、心がすさんでいきあの子を目標にするのは難しいと悟ったからだ。

私は、あの子みたいになれないんだ

 そう、あきらめていた。

 あの子のことを思い出すたびにつらくなった。あれは夢だったんだ。空想だった。悪意に満ちたあの現実に起きた出来事ではない。

 世界は美しくなんかない。だから、あの子は偽者だ。私が求めていた偽り。美しいあの子の思い出はだんだんと遠い記憶の彼方へと飛ばされた。

 名前を憶えていないのはそのせいかもしれない。私は現実を選んだ。過去に縛るほどの努力はなかった。今を生き抜くことしか考えなかった。

 コロコロと意見を変える生きている人間が怖かった。だから、私は死という確定したものに安定を求めた。はじめは伝記を読んで過去と結末の死に強い思いを寄せる。

 図書室の伝記を読み終えると次に興味を移したのは推理小説や感動する小説。とにかく人が死んで事件が起きたという完結や、病気や事故で死ぬという確定されたものに心がひかれた。

死にたかったのか、あれは

 いや、違う。私が求めていたのは死を求める異様な少女になることだ。誰もが声をかけないで済むのを求めていた。

うるさい、大っ嫌い、声かけんな馬鹿

 心の中はそれでいっぱいだった。誰もかれもがみんな敵だった。それを言えなかったのは、お母さんに心配をかけたくなかったんだ。お母さんはお母さんで大変だったから。

あの子だけは顔が消えなかったんだ。忘れられなかったんだ

 小学生の頃、みんなの顔がのっぺらぼうに見えたのにあの子の顔だけは覚えていた。はっきりと。

 約束の場所を走りながら、昔の思い出がよみがえる。着いたその先に大きくなったあの子がいた。

じゅんちゃん

 息が絶え絶えになって大声で叫ぶ。大きくなったあの子、潤先輩が振り返った。

きーちゃん

 あの子は美しくなっていた。ふんわりとして長い髪に清楚なたたずまい。あの子は変わってなかった。

じゅんちゃん……

 思いっきり胸に飛び込んで押し倒す。ずっと会いたかった君を抱きしめて。

忘れていたよ、君の名を

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