その時、目が覚めた。
 今のは夢だったんだ。だったら私の深層心理の内側から精神の欠片が幻覚を見せたことになる。でも、なぜかそうじゃないような気がした。あれは誰かが外側から私の意識に忍び込んで何かを語りかけたんだ。それは誰なんだろう。
 私の娘と称したあの少女は愛を語った。私は生まれてもいない人物を愛しているんだろうか。だったら愛の対象はどこに向かっているんだろう。そう自問すると心の中に迷いが駆け巡った。
 けれど、徐々に迷いは晴れ、それが氷解した後に一つの答えが見え始めた。昨日から私はなぜこんな行動を取っているのか。その根底にあるものは何なのか。今の私の精神を内側から形作り、突き動かしているもの。それが愛する心なんだ。
 時刻は午前五時。物音一つせず、静寂の闇があたりを支配していた。ベイビーの方に視線を向けると気持ちよさそうに眠っている。そろそろ最寄りの交番に届けなければならない時間。別れの時が来た。私はベイビーを抱いて家を出た。
 街はようやく眠りから覚める頃。冬の冷気がいちだんと体に染み込んだはずだけど、寒いなんて感じなかった。交番へ向かう間、いろんな想いが脳裏を駆け巡った。けれど、やがて一つの答えに収束していった。
 そんな時、ふと背後に光が照らすのを感じた。振り返ると朝日が昇ろうとしていた。つい三十分ほど前まで漆黒の夜の色調に染められていた空に光が差し込んでいく。それは徐々に明るみを増し、何もかもを光の中にさらした。
 太陽なんて毎日見ているけど、朝日が夜を塗り替えるのを感じるのは初めてだった。まぶしかったけど、私は太陽を見つめた。太陽は逆光で私を照らす。私は暁の光を一身に浴びながら、自分の全てが内側から塗り替えられていくのを感じた。
 私の精神の奥底に刻み込まれた熱い情念。それはあの時から心の奥でくすぶり続けていた。そして今、私の思念を霧のように支配していた感情はやっと晴れ、差し込んだ光が冴え渡るようだった。いつまでも明けなかった夜と差し込んだ光のコントラスト。私はその中で信念のようなものを感じた。

 私は過去に心を鎖でつながれ、それを置き去りにしたまま時代の波に流されていた。でも、過去を忘れようとする必要なんてない。過去は変わらなくても、それを彩る記憶を未来へとつなげていけばいいのだから。どんな悲しみに覆われても、いつかその意味は他の何かに変わり、その人の存在を形作る一片になる。だから、私が経験した過去(こと)、ベイビーに振り掛かった現在(こと)――。全ては振り返れば、きらめいた記憶に変わる。
 私は一度は深い傷を負ったから今は見ず知らずのベイビーを慈しむことができる。それはベイビーにとっても同じこと。ベイビーには生まれて間もない間に不幸が折り重なったけど、その悲しみはいつか癒され、きっとその分だけ幸せが返ってくる。
 そして、今度はその幸せを誰かと分かち合い、優しさにあふれた人になる。今の私がベイビーにしているように深く人を愛せるようになるのだから。
 時が過ぎれば、全ては過去を紡ぐ叙事詩の一節となり、波に揺られた湖面はいつしか鏡のように穏やかになる。雨が止めば、たおやかな調べが心の傷を癒し、記憶の泉に沈んだ感情は淡い琥珀色の色彩を放つ。あふれた涙はラピスラズリの結晶となり、清らかな心身は天使の翼に抱かれる。
 私の祈りは朝焼けの空にこだました。今、薄明の光の中で――。

 夜明けを迎えた街は朝の息吹で満たされつつあった。その中をしばらく歩くと、やがて目的地へたどり着いた。前を通りかかったことは何度かあるけど、入るのは初めてだ。私は深呼吸して気持ちを落ち着かせ、交番の扉を開いた。
 中に一歩入ると初老の警察官が

こんな時間にどうしたのかね?


 と優しい口調で出迎えた。

実は……

そうか。ご苦労だったね

 私が一部始終を話すと、穏やかな表情を浮かべた。私の家に一泊させたことはとがめられなかった。
 これで二日間の子育てが終わった。短い間だったけど、一生忘れられない心の結晶になる。帰ろうとしたところで、振り向いてもう一度ベイビーの顔を見た。
 これでお別れね。あなたが大人になった時、二日間だけ母親の代わりをした私のことなんて覚えていないだろうけど、いつか街中で偶然すれ違っても気付くかもしれない。その時はきっと二人の記憶を語り合えるはず。根拠はないけど、そんな気がした。
 もし願いが叶うなら私が祈るのは一つだけ。それはあなたの行く末がささやかな愛に包まれること。今度は幸せになるのよ。そう心の中で言い渡してベイビーに背を向け、最後の別れをした。
 交番の外に出ると太陽がすっかり昇っていた。エピローグを彩る光が終末を告げる。太陽の光がまぶしかった。

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