渉が帰ると、それから夕食も取らずにベイビーを抱いていた。明日には両親が帰って来る。ベイビーと過ごす時間はもういくらもない。私はベイビーのこれからの行く末を案じていた。
 この先ベイビーはどうなるんだろう。実の両親のところへ送り返されるのだろうか。それとも乳児院に預けられるのだろうか。いずれにしても、どうせ幸せなんて待っていない。できることなら私の手元に置いておきたい。少なくとも実の両親より幸せにできる。でも、それも叶わないこと。あの時の再現でしかない。
 蚕は人間に飼われているうちに空を飛べなくなってしまった。それと同じように人も自分の意志で自由に生きられない。ベイビーは既成のレールから外れたけど、それは幸せな結末にはつながらない。私たちは籠の中のカナリヤ。そう思うと涙がこみ上げてきた。
 そうしているうちに、いつの間にか眠りに落ちて夢を見ていた。

 気付けばエメラルド・グリーンの海に投げ出されていた。空は快晴。太陽がまぶしく照り付ける。私は波が軽やかに身を揺り動かすのを感じていた。周りには誰もいない。私は世界の中心に一人で立っているようだった。
 遠くの方には浜辺が見える。私はその方向に泳ぎ出した。浜辺まではかなり距離があって泳いで行くには時間がかかる。その距離はなかなか縮まらなかったけど、なぜか全く疲れず、いくらでも泳ぐ動作を続けられた。
 すると、どこからか誰かの声が聞こえた。

星香。私の声が聞こえますか?


 空の遠くの方から声がしたようだったけど、しっかりと響いた。

私は女神。あなたの行動の全てを見て来ました


 私は神なんて信じていなかったけど、この時は確かに存在するんだと確信した。その偉大な存在の前では全ての答えが明らかになる。そう思って私は女神に問いかけた。

では、お尋ねします。私がしたことは天の摂理に叶うのですか?

もちろん罪ではありません。昨日から消えかけた生命をよく守ってくれましたね


 そう言われて初めて自分のしたことに自信を持てたような気がした。私がしたことは結果としてはただのわがままじゃなかったんだ。私は浜辺に向かって泳ぎながらさらに女神に問いかけた。

もしこの世に神が存在するなら、その力でベイビーを救うことはできないのですか?

神が奇跡を起こさなくても自ずと救われるでしょう

どうしてですか?

人生は幸せなことばかりではありません。時には苦しく、悲しい時もあるでしょう。しかし、それすらも人生の糧なのです。もう一度自分の存在を形作っている記憶を思い出してみなさい。そうすればわかるはず。全てが現在の自分の一部となっていることを

 その声は空に残響し、いつしか消えていった。
 その直後、私は考え込んだ。私の存在は過去の記憶で出来ているんだろうか。記憶なんて忘れたいこともあるけど、心の中に焼き付いて消し去ることはできない。だから、そんなものに縛られたくなかった。それから逃れられないのだとしたら、記憶に形作られる自分って何なんだろう。私はしばらく考え続けた
 それから無我夢中で泳ぎ続け、いつの間にか浜辺にたどり着いた。そこには流行歌のプロモーション・ビデオの撮影に使われるような白い砂浜がどこまでも続いていた。誰もいないけど、ここは南国のリゾート地なんだろうかと思った。
 ふと気付くと私と同じくらいの年頃の少女が立って私の方を見つめていた。
 まるで現実の存在でないかのようなミステリアスな容貌。妖精が実在するとしたら、こんな印象なのだろうか。現実の世界では髪がさらさらなんて形容するけど、それどころか風が吹けば空気との境界に溶けていきそうだった。

あなたは誰?


 そう問いかけた私に彼女は答えた。

私はあなたの娘よ


 そう。生まれて来ることすら叶わなかったけど、いつかは今の私と同じ年頃になるはず。それが夢という幻想の空間の中で私に語りかけているんだ。一瞬のうちに私はそれを察知して、目の前の少女の瞳を見つめた。

産んであげられなくてごめんね

いいえ。生まれはしなかったけど、これまでママと同じ命を生きてきたのよ

ママだなんて……。許されない過ちを犯した私を母と呼んでくれるの?

どんな過ちを犯しても、心の傷が癒されれば、全ては青く澄んだ源に帰る。だから涙が乾いた跡に、それは愛の結晶に変わるの。私をその手に抱けなかった分、今度は他の誰かに愛を注ぐ番よ

そんな……。私なんかにも人を愛する資格があるのかな?

そうよ。誰かを想うだけで愛はそこにあるのよ。それが形にならなくてもね。そして、その想いは人から人へと伝わって連鎖していく。それは形を変えても永遠になくならずに未来へと続いていくの。それが心のリインカーネーションよ


 何だろう? 不思議な語感を持ったその言葉。聞くだけで神秘的な感覚がしたけど、その意味がわからず、少女に尋ねた。

心のリインカーネーションって何?

人間には魂や霊といった不死の根源があって、輪廻を繰り返すことで霊的に進化し、最終的に神に近い完全な存在になるという神秘思想があるの。生まれ変わるなんてことが本当にできるのかはわからないけど、人が死んでも思想や感情は他人に託されることで残り続けるわ。人々の歩みもそうやって次の世代に継承されて来たのよ。だから誰かを想う気持ちも消滅せずに転生を続け、世界のどこかに甦る。思い出して。現在のママの中に息付いている記憶を。それは誰かの中にも生きているはずよ


 少女の言葉は私の心に重く響いた。だったら世界は個人を単位に分かたれていないのだろうか。自由や権利は個人に与えられているけど、世界に底流する精神は全体で一つにつながっているんだ。私は真理を悟ったような境地になった。
 それにしても、この少女はなぜこれほど達観しているんだろう。まるで天使が私のためだけに舞い降りたよう。
 そう思うと目の前の少女が愛しく思えて、その肩に手を触れようとした。だけど、私の手は空気に触れるように少女の体をすり抜けていった。そうか。実体なんてないんだ。
 その時、急に切なさがこみ上げて来て、瞳の奥からあふれた涙が視界を曇らせた。それでも私は感極まって声を振り絞った。

約束する。いつか私は必ず幸せな家庭を築くわ。その時は私の娘として生まれ変わって

約束なんてしなくても精神だけの存在の私は必ずママの所に戻って来るわ


 渚に打ち寄せた波が微かな音を立てた。少女の清橙な声はどこまでも透き通って響いた。

さよなら、ママ。今度ママが本当に子供を産んだ時には、私の分まで愛してあげてね。それは必ずできるはずよ


 そう言うと少女の輪郭は蜃気楼のように揺らめいていった。

待って。もう少し話を……


 と言いかけた私を遮るように少女は言い残した。

いつまでも私はママの心の中で生き続けるわ。心に愛がある限りね


 そして、幻のように消えていった。

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