そして、現在――。
 私は夜の冷たさのさなかにいる。私はあの時、最善の選択をしたはずだった。しかし、あれは本当に最善の選択肢だったんだろうか。それは今でも自分に問いかける。本当の幸せって何だろうか。既成の社会の風潮に従うことが自分の子供を産んで育てるよりも幸せだなんて誰が言えるの?
 大人たちが言う幸せは社会のレールからはみ出さないように生きること。でも、それよりも社会のレールからはみ出してでも自分が望む道を歩みたかった。その方が私にとって幸せだった。今はそう信じている。
 あの夏から一年が巡ると、なぜか悔恨の念が募って来た。私もそれまでは漠然と将来は結婚してそれなりの家庭を築くという未来像を描いていた。それが私の中で鮮明に色付き、リアルな輪郭を描き始めた。
 街中で幼い子供を連れた母親を見かけると、はっとするようになった。子供がいればホームドラマのような温かい家庭を運んでくれる。そんな憧れを募らせていった。それでも、いつかは実現するはずだったことが永久に実現しないことのように思えた。
 私は信じている。いつかこの感情は薄らいで過去の記憶に封じ込められるのだと。そうすれば過去の自分と冷静に向き合えるはず。
 でも、過去を忘れることなんてできない。忘れようと努めるほどに意識の中に強く残り続け、まざまざと現在の意識を支配する。
 私はベイビーを抱きしめた。この腕の中のベイビーが心の奥の空しさを癒してくれそうな気がした。けれど、それも仮そめのこと。もしあの時、子供を産んでいたら今頃こうして抱いていられたのかもしれない。でも、その意味は全く異なっている。
 私は一晩中ベイビーの寝顔を見つめていた。自分の身に訪れたこと、これから訪れようとしている宿命を知らないかのような安らかな寝顔を浮かべていた。
 私は嵐の中をくぐり抜けて来たつもりだけど、ベイビーはこれから嵐の中に巻き込まれて行くんだ。しかも行き着く先が見えない形で。それが自分の記憶と重なると、涙がこぼれてきた。
 誰か教えて……。人生のゴールって何なの? 私は虚空に向かって問いかけた。

 翌日の朝は登校した。一日中ベイビーの世話をしていたかったけど、学校を欠席したことが両親に知られると、この一件を隠し通せないかもしれないからだ。帰宅すると午後五時頃になる。そんなにほったらかしにしておいて大丈夫かと思いながらもベイビーには

しばらく我慢してね

 と告げて家を出た。
 教室に入ると「おはよう」と声をかける友達に私も「おはよう」と返したが、声が上ずってしまった。

あら。風邪でも引いたのかしら?

ううん。何でもないの

 と否定したが、この時、隠しごとがばれるんじゃないかと、そんなはずはないのにふと感じた。平常心を装うのも少しは演技力がいる。大根役者の私はそう思った。
 受験のシーズンを迎えて教師も生徒も熱が入っていたようだったけど、もちろん気もそぞろで授業にも集中できなかった。
 何気なく外を眺めると大きな雲が風に流されていた。雲のように雄大な存在でさえも風の前には流される。ましてやちっぽけな一人の人間が望む場所に留まれるはずがない。人生なんてその程度だ。大きな雲の流れを目の当たりにして自分の存在が一際ちっぽけに思えた。 
 午前の授業も終わって昼休みを迎えた。ランチメイトは数名確保しているけど、人と向かい合って平常心を保てそうになかったから一人で食べた。
 午後の授業が始まると、これが終わればベイビーのもとに帰れるという一心で、時間が早く過ぎるようにと祈った。こんな時は時間の流れがやけに遅く感じるけど、やがて終業のチャイムが鳴った。
 授業が終わると、そそくさと帰ろうとした。けれど、校舎の外に出ようとしたところで「星香」と私を呼び止める声がした。振り返ると見覚えがある人影。渉だった。
 受験が間近だからしばらく会わないことにしようねと私の方から言い出したから、一ヶ月ほど会わなかった。
 あんなことがあっても適度に距離を保ったまま二人の関係は続いている。適度に距離を保ったままと言うのは、お互いに引け目を感じてそれ以上の熱愛に発展しなかったということだ。
 もうピークを過ぎたけど、終わりにはならない。言わば離婚してからもたまに会う夫婦のような関係だった。それでも別れなかったのは、もし別れたら、これまでのことが白紙に戻るような気がしたからだ。過去を断ち切るより何かにすがりつきたかったのだ。

元気か?


 声をかける渉に一ヶ月しかたっていないのに何年も会わなかったような新鮮さを感じた。

ちょうどよかったわ。見せたいものがあるの。今から私の家に来て


 と言い渡して二人で並んで下校した。渉にだけは正直に話してもいいと思ったのだ。

 私の家は郊外の団地にある。住み始めた頃はバスに乗らないと街中に行けないことが不便だと思ったこともあるけど、もう慣れてきた。
 渉を招き入れると、すぐにリビングに寝かせてあるベイビーが私たちの視界に入った。その存在がありふれた私の家を特殊な空間に変貌させていた。

これは誰なの?


 と尋ねる渉に私は一部始終を話した。

そうか……


 それっきり渉も絶句した。お茶を入れて一息付いたところで私がしばしの沈黙を破った。

ねえ、どうすればいいと思う?

どうするって警察に届けるしかないだろう

わかっているわよ。でも、両親のところに戻っても幸せな結末は待っていないわ。それよりは私の手元にいつまでも置いておきたいの。できるはずはないけどね

 そう言ってベイビーの方に視線を送ると、なぜか手足をじたばたさせ始めた。そう言えば朝からミルクを飲んでいないんだと気付いてミルクを飲ませた。
 渉はその光景を複雑な表情で見つめていた。渉も場合によっては父親になっていたかもしれない身だ。ベイビーを見て何を思ったのだろうか。

私は今でも想像するの。あの時、子供を産むことが叶っていたら今頃、幸せな気持ちで子供を抱けたのかな?


 ベイビーを再び寝かせると、しばらくその場に立ち尽くした。抗えない時代の流れに打ちひしがれるように。

あの時も今も私たちって無力ね


 そう言うと瞳から涙がこぼれた。そう言って少しよろめいたところを渉が抱き止めた。そこに渉がいなかったら泣き崩れていたところだった。

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