それはある夏の日の出来事だった。私は友達と合わせて四人で渉の家で夏休みの宿題をしていた。
 遠峰渉は私の彼氏。三ヶ月前に告白されて、それほど異性として意識していたわけじゃなかったけど、私もこれまで恋愛には無縁だったからノリで付き合うことになった。恋とはどんなものかと興味を持っていたのが最大の動機だった。
 それはさておき、夏休みももう残りわずかで皆も焦り出したようだった。皆以前もこういう経験はなかったのだろうか。多分あるんだろうけど、同じ失敗を何度も繰り返すのが人間の性(さが)なのかとふと思った。
 夕方になると「そろそろ帰るね」と一人が言い出し、他の一人が「じゃあ私も」と帰宅した。リビングには私と渉だけが残された。渉の両親は共働きで今は私達しかこの家にいない。私の母は専業主婦だけど、自分の彼女を家に連れて来るには、こういう家庭の方が都合がいいのかなとふと思った。

なあ、二階で少し休憩しないか?


 宿題が一段落すると渉はそう言って二階の自分の部屋に私を連れ込んだ。

アイスコーヒーを持って来るよ


 部屋に入るとそう言って再び階下へ降りていった。
 少しの間、私はベッドに腰掛けて部屋を見渡した。付き合い始めて三ヶ月になるけど、この部屋に入るのは初めてだった。男子の部屋はもっと散らかっているのかと思っていたけど、私の部屋より整頓されているくらいで意外だった。
 やがてお盆にグラスを乗せて二階の部屋に上がって来た渉は、はにかみながら

この部屋に入るのは初めてだったね


 と言って私の隣に腰掛けた。室内は何となくほんわかした雰囲気になった。その雰囲気に乗じたのか、渉はこんなことを言い出した。

なあ、星香。僕たちは本当に両想いになれたのかな?

どうしてそう思うの?

君は実は恋愛に興味があるだけで、僕のことを好きなふりをしてボランティアの一種として付き合ってくれているのかと思うよ


 そう言われてドキリとした。実はそれが本心に近かったからだ。渉のことを心から愛しているとは言えないけど、私は初めて男子に想われたことがうれしくて、それを手放したくない気がしたのだ。渉はそれを見抜いていたのだろうか。それでもこれ以上本心を探られたくなくて思わせぶりな回答をした。

初めはそうだったかもね。でも、最近はだんだんと本気になってきた気もするわ


 私がそう答えると、室内に橙色の空気が流れたような気がした。すると渉は私の肩をそっと抱き寄せた。こんなことをされるのは初めて。ちょっと大胆な行動にドキドキして、急に全身が火照っていくのを感じた。
 そして、渉は私の耳元でどこぞの流行歌の文句のようなことを囁いた。

じゃあ僕たちも恋のカリキュラムの次のステップへ進まないか?

 え……。どういうこと?
 何のことかわからず、当惑するしかなかった。しかし、次の瞬間には渉を思いきり突き飛ばした。

もう、何言ってんのよ!

 普段はおとなしい性格の私がこの時だけはヒステリックな声を上げた。
 突然のことに狼狽した気持ちを瞬時に落ち着かせると、熱い気流が意識の中を走った。男子っていつもこんなことを考えてるの? 目の前の渉が不思議な生命体に思えた。
 でも、私も興味がないわけじゃない。多くの人がこうして通過儀礼を迎えるんだ。いつかは来るこの瞬間。その時が来たのかもしれない。だけど、こんなに早いなんて……。どうすればいいんだろう。
 私も何の抵抗もなくそんなことをできるはずがない。想いは花園を巡る。心の中でわき起こる迷いと好奇心。怖くって、でも、どこか惹かれていて……心は格子柄だよ、とどこぞの流行歌の文句のようなことが私の脳裏にも浮かんだ。
 それでも私は冷静に状況を判断できず、その場の雰囲気と心の勢いに流されて後から思い返せば軽はずみな反応をしてしまった。

いいよ。来て

本当にいいの?

いいの。その代わり私のことずっと大切にしてね


 その言葉に反応した渉は私を強く抱きしめてキスをした。その直後、一瞬のうちに全身に熱さが駆け巡った。めくるめく行為の中で、しばらくの間、私の精神は拡散と収斂を繰り返し、確実に私の意識の底に刻み込まれた。
 そうして、その忘れられない一日は終わった。これで私も大人への階段を一歩登ったんだと実感し、うれしいのか悲しいのかわからない甘酸っぱい感情に満たされた。

 その日の夜、両親と食卓を囲んでいる間、こんなことを考えていた。両親は元々、実家同士で縁があったから結婚した。熱愛を経ての恋愛結婚というわけではない。それでも今日まで円満な関係を築いている。
 風説によると、見合い結婚は足し算で恋愛結婚は引き算らしい。見合い結婚の場合は初めはともかく、年月が過ぎるにつれて、そのうち愛情もわいてくるが、恋愛結婚の場合は結婚する直前が愛情のピークで、その後は様々な理由で減退していく。いずれの場合も愛情の抑揚を左右するのは通過儀礼だ。だったら結婚しなくても何かの通過儀礼があれば、恋は燃え上がるのだろうか。
 今の私もそう。渉と一線を越えてしまって、もう引き返せない。これは永遠の愛を誓ったことになるのだろうか。そして、さらに引き返せないもう一つの通過儀礼を迎えることをこの時の私はまだ知る由もなかった。
 それに気付いた頃こんなことを考え出した。人生は小説のようなものだろうか、それとも詩集のようなものだろうか。小説なら全てのシーンは順序通りに並べられ、1ページ目から読んでいくしかないが、詩集は必ずしも1ページ目から読まなくてもいい。学校の勉強だったら、数学は基本から応用へと体系的にマスターしなければならないが、古典は一定の順序はなく、どんな教材から読んでもいい。
 では、人生はどうだろうか。受験・就職・結婚といった通過儀礼は順序通りに迎えなければならないのだろうか。それに反して、例えば高校を卒業した後、就職や結婚をして三十歳を過ぎてから大学に入るというように逆にたどることはできないのだろうか。絶対に不可能というわけじゃないけど、社会の慣習上そうすることは難しい。現代人はレールの上を走るようにしか人生を歩めないのだ。それから逸脱しようとする者は異端児として扱われ、そうなりかけたところで外側から圧力がかかり、矯正されて「正しい」路線に戻される。
 そして、私も通過儀礼の順序を間違え、社会の秩序から逸脱しようとしていた。

 夏休みも終わって学校が始まり、それぞれが新しい生活を始めようとしていたある日の放課後。私は携帯のメールで渉を学校の屋上に呼び出した。ここなら他に誰もいない。重大なことを告知するのにふさわしい場所だ。
 渉が屋上に姿を現すと、私は風に髪をなびかせながら振り返らずに遠くの方に視線を送った。

まだ残暑が厳しいけど、高い所は風が通って涼しいわね

 何か前置きが必要だと思って当たり障りのないことを言った。

話って何?


 そう尋ねる渉にこれ以上引き延ばす必要はないと思って単刀直入に告げた。

驚かないで聞いてね。実は私、妊娠したみたいなの

そう……。大変なことになったね


 そう告知すると渉は感情を読み取れない神妙な顔付きになった後、他人事のように答えた。

どうすればいいと思う?


 渉はしばらく沈黙して考え込んだ。

どうすると言うより、僕たちにできることがあるのかな?


 その言葉は私にも至極、当然に思えた。

両親に報告してみるね

そうしたら僕の両親にも伝わるよね


 渉はそう言って苦笑した。

 その日の夜、私は長風呂に浸かりながら想い悩んだ。事態がここに及んで当然、両親に報告しなければならない。でも、何をきっかけに切り出せばいいんだろう。風呂から上がって自分の部屋に戻っても、なかなか考えがまとまらなかった。
 何かきっかけが欲しかったけど、もう猶予がない状態まで追い詰められた。両親がそろそろ就寝という時刻に意を決して寝室を訪ね、にわかに切り出した。

ちょっと話があるの


 こんなにあらたまって両親と対座するのはいつ以来だろう。だけど、それによって両親も心の準備が出来ていたのかもしれない。

実は……

そうか……。そんなこともあるだろう


 ありのままに話すと、引き付けを起こすかと思ったけど、意外と冷静な反応だった。しかし、その冷静さが返って一時の感情に流されることを許さなかった。

どうすればいいのかな?


 そう言う私に父は熟考せずに諭した。

常識の範囲内で考えなさい


 何が常識かなんてわかりすぎるほどわかっていた。けれど、常識と言えば聞こえはいいけど、それは自分を捨てて既成の型にはまること。それに抵抗したいという気持ちもどこかであった。
 この時、今は離れて暮らしている兄が高校生の頃、ミュージシャンになる修行をするために高校を中退したいと言い出したのを思い出した。当時、中学生だった私は高校ぐらい卒業すればいいのにと思った。それを両親は何とか説得して大学に進学させ、兄も今は大学にも通いつつバンド活動をしている。
 でも、今になって初めて兄の気持ちがわかった。人生を理屈や打算じゃなくて一瞬の激情に流されて生きたかった。それが人目には愚かと映っても。しかし、私は無力で社会の見えざる規範に従うしかないのだろうか。

 翌週の放課後、渉に会った。二人で学校の近くの公園のベンチに並んで腰掛けて、風に吹かれながら子供たちがキャッチボールをするのを眺めていた。少し沈黙が続いた後、私は切り出した。

渉の両親にも伝わったの?

ああ。この世の終末が訪れたような顔をしていたよ

うちは冷静に対処していたわよ

どちらにしてもたどり着く所は同じなんだろうけどね。子供を産んで育てるなんて賛成してくれないだろう


 そう言って私から視線をそらした。

僕は考えたんだけど、モラトリアムって学業以外のことには使えないのかな?

どういうこと?


 問い返す私に渉は答えた。

もし子供が生まれても親と同居しているんだったら、家事や育児を全てやってもらえるから、就職してから仕事と育児を両立するよりも学業と両立しやすいだろ。だから社会人になるより前のモラトリアムにあるうちに子供を持つ方が合理的に思えるよ

社会の風習なんて、どうやったら合理的になるかで成り立ってなんかいないわ。だったら就職活動なんて風習もないし、それ以前に学校なんて存在しないしね


 子供たちが無邪気に白球を追う姿を見ていると、なぜか心が童心に帰るようだった。

誰が作ったわけでもないけど、人は既成の枠の中に当てはまるようにしか生きていけないのかな?

そうね……

もし僕が一国の独裁者や大富豪だったら、枠を逸脱できるのかもしれないね

いえ、そんな人は存在自体が枠を超えているわ

せめて人がもっと強い存在だったら何とでもできるのにね

強さって何なの……?


 それっきり黙りこくってしまった。あたりを見渡すと依然として子供たちがキャッチボールをしている。私たちだけが外の世界から切り取られた特別な空間に取り残されたようだった。しばらく二人でベンチに座って公園の景色を眺めていた。

 それから二日後、私は母に連れられて病院に行った。待合室で待たされている間、こんなことを考えていた。
 学校と病院は行きたくて行く所ではなく、やむをえず行かざるをえない所だ。そこでは不本意な苦役に従事させられた上に金を取られる。それでも「顧客」が満足するとは限らず、返って不満がたまるだけだ。これだからモンスターペアレントやモンスターペイシェントが押し寄せて来るのだろう。
 それに病院は人の不幸が商売の種だ。難病に苦しむ人を救うのなら希望をもたらすのだろうけど、仮に病気が治ってもマイナスがゼロに戻るだけでプラスにはならず、喜ばしい要素は何もない。それにレストランや書店のように来店する目的は単純ではなく、思惑は人によって様々だ。だったら私は何を期待してここに来たのだろう。
 そんなことを考えていると「早乙女さん、どうぞ」と私の名前がコールされた。
 診察室に入ると、応対したのは優しそうな感じの女医さんで、一通り事情を聞くと憐れむような目で私に尋ねた。

お母さんはこう言ってるけど、あなたはどうしたいの?

結論は一つしかないけど、どこかためらっている気持ちもあるんです

望まない妊娠なのにどうして?

それが母性というものかもしれません。せっかく私の中に新しい命が芽生えたんですから

世の中、法律で中絶を禁止している国もあるけど、もし日本がそうだったら産みたいなんて思うのかしら?

それは……


 その直後、私は絶句して一瞬のうちに長考に沈んだ。言われてみると確かにそうだ。私はなぜそう思ったんだろう。

最後はあなた自身が決めることよ。よく考えておいてね

 彼女はそんな私に言い渡した。
 帰宅する途中、このやり取りを反芻すると、いろんな感慨がわき起こった。産みたいという気持ちがどこかにあるのは産まなくてもいい自由があるからだ。もし中絶が禁止されていたら産みたいなんて絶対思わないし、逆に産むしかないという命題に心の中で最後まで反抗するだろう。
 それは進路も同じこと。近代以前のように職業が世襲制だったら自分の将来はどうなるんだろうなんて悩まなくてもすむ。選択肢が二つ以上あるから迷いが生じるんだ。だったら自分の意志を放棄して既成の制度に決めてもらえばいい。自由なんていらない。そんな投げやりな気持ちにさえなってしまった。
 その夜、眠れずにいろんなことを考えていた。人生の岐路に立たされた時には、どちらかの選択肢を選ぶしかない。しかし、もしその中間に留まることができたら多くの人はそうして日和見な態度を取るかもしれない。それでもこの世の摂理はそれを許さない。だから人生は厳しいんだ。
 今回のことも最後は私が自分の意志で決めること。私は冷静に現実を受け止めて判断しているつもりだった。けれど、私の中の私はそれを受け入れているの……?
 夜空を見つめると、星が都会の雑踏に消え入りそうな淡い光を放っていた。私は答えを求めて虚ろな目で星の数を数えた。都会では夜でも様々な人工の光が点灯しているから、かなり明るい星しか見えないけど、どの星も懸命に輝いている。星の光は秘めやかに私を照らした。
 これで全ては元通りになり、以前と変わらない日常が私を迎える。それなのに私の精神を支配するこの感情は何? それはいつまでも消えない火種のように私の中でくすぶっていた。
 そして、私の心に迷いが生じ、それを打ち消そうとすると心がざわめいた。誰か教えて。わかりきっているはずの答えをどうしてまだ問いかけているの……?

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